第40話 新しい人生

 マイの痛んだ悪夢を退け、現実に戻ってから数日後。

 俺はある決意を胸に、いつもよりも少し早めに出社していた。


「よう、遠原」


 会社の前の通りを歩いていると、青木の声に呼び止められた。

 声が聞こえた方を振り返ると同時に、目の前にスマホ画面を突きつけられる。


「青木……お前、なんだそれ」


 待ち受け画面には、マイの姿があった。

 アイドルとして番組に出る時のひらひらした服装じゃなく、膝丈のセーラー服姿だ。


 顔は今のマイよりもだいぶあどけない。ものすごく見覚えがある。

 具体的に言うと、悪夢の中でナイフを突きつけられた覚えがある。


「これ可愛いだろ。昔マイちゃんがドラマに出た時の写真なんだってさ。知ってはいたけど見たことはなかったんだよな~。やっぱ美少女は昔も美少女だったんだな」


 青木はデレデレとした顔でスマホ画面を眺めた。


「お前、この間のスキャンダルにショック受けてたんじゃないのかよ」

「そりゃ初めは驚いたけどな。でも、きっとあれだけがマイちゃんの本音ってわけじゃないだろ。

 これからは演技の勉強するためにしばらく芸能活動休止するって言ってたけど、復帰したら変わらず応援するつもりだ。

 世間がなんと言おうとな!」


「……そっか。ありがとな」

「ん? なんでお前が礼なんか言うんだよ」


 怪訝そうにしている青木を無視して、俺は再び会社へと歩き始めた。

 マイの味方は、本人が思っているよりもきっと沢山いる。


 俺は清々しい気持ちで会社に到着すると、自販機のある休憩スペースに向かった。

 仕事が始まる前にコーヒーで一服しよう。

 なんせ今日はこれから大仕事が待っているのだから。


 自販機の隣にあるソファには先客がいた。

 缶コーヒーを買って何気なく向かいに座ろうとして、ぎょっとする。

 向かいの相手がスマホ片手にボロボロに泣いていたからだ。


「遠原さん……。なんすか」


 ずび、と鼻をすすりながら俺の方を見たのは、生意気な後輩――宮辺だった。

 数週間前、個人の新規客獲得のための試飲会に一緒に駆り出されたことがある。

 俺は、いかにも詐欺じみた売り文句でお年寄りを騙そうとしていたこいつを止めたことを思い出した。

 いつもチャラチャラしていて、上層部には媚を売り、決してこんな風に弱みを見せるタイプじゃない。


「なんすかって、お前こそどうしたんだよ。何かあったのか?」


 反射的にそう聞いてしまってから、しまったと思った。

 俺が立ち入るべき問題じゃないかもしれない。

 こんな所を見られてしまったこと自体、こいつにとっては気まずいことだろう。


 けれど宮辺はごしごしと目元をこすると、「ちょっと聞いてもらっていいっすか」といつもの敬語になってない敬語で聞いてきた。

 俺は頷いて、向かいに腰を下ろす。


「実は、さっき実家から連絡があって。じいちゃ――祖父が亡くなって」

「……そうだったのか」


 スマホを片手に持っているということは、数分前にその連絡を聞いたばかりだったのかもしれない。

 こんなに悲しむなら、きっとおじいちゃんっ子だったのだろう。


「じいちゃん、ずっと闘病してたんですけど、医者に伝えられてた余命よりもずいぶん生きたんですよ。もしかしたらこのまま回復するかもしれないってくらい」


 涙で揺れる声のまま、宮部が言葉を続ける。

 今は誰でもいいから話を聞いてほしい気分なのかもしれない。


「冗談で『病気に効く水』だって言ってうちのウォーターサーバー設置したら、このおかげで命が助かったなんて言って」


 自嘲混じりのその言葉に、俺は顔を上げた。


「もしかして、それであんな売り文句言ってたのか?」

「……科学的な根拠なんてないことくらい知ってますけど、思い込みで助かることがあるならそれでいいじゃないっすか」


 俺は決してそれを正しいとは思わないが、そんな理由あっての行為だったのだとしたら、こいつへの印象も変わってくる。


 ……そうだよな。

 本当に人がどんな思いを抱いて生きているのかなんて、誰にもわからない。


 それぞれに事情がある。

 気楽に楽しく生きているように見えたとしても、夢という、本来なら誰にも見せられない領域の中で戦っているのかも知れない。


 マイの悪夢の中に入るまで、俺はそんな当たり前のことすらわかっているフリをしてわかっていなかったような気がする。

 俺は宮辺にまだ開けていなかった缶コーヒーを差し出して、安っぽい慰めの言葉の代わりにその背中をぽんと叩いた。

 

 マイとの出来事は、俺にとっても意外な心境の変化をもたらした。

 もう一度、自分がどんな生き方をしたいのか考えてみることにしたのだ。


 学生のうちに思い切りあがいて済ませておくべきことを、俺は今まで先延ばしにしてきた。

 このまま自分で納得してもいない仕事を続けるのは、会社に対しても顧客に対しても誠意がなさすぎる。


 俺は人生において新たな一歩を踏み出すという大仕事を済ませるため、昼をまわった頃に部長のデスクへと向かった。


「3ヶ月後に辞めさせていただきます。今まで大変お世話になりました」


 そう言って、退職願を提出する。

 まだ次の職場は決まっていないが、今がベストなタイミングだと思った。

 何社か最終面接まで行っているし、そこまで問題ないだろう。幸いにして貯金はある。


 少し前の自分だったら考えられないほど、前向きな――いや、いささか危なっかしいほどに楽観的な気持ちで、俺は部長と向き合っていた。


「そうか、ちょうどよかった。お前はクビだ」


 こちらに視線を向けることもなく、部長が言う。


「は……?」

「は? じゃないんだよ。新規の契約ぜんっぜん取ってきてないだろ。今日限りでクビだクビ。帰って二度と来るな」


 にやりと、脂っこい嫌な笑みが俺に向けられる。

 クビ。さすがに急にそう言われるとは思っていなかった。

 っていうか労基に訴えるぞ。


 それでもこれきりこいつと縁が切れるなら悪くないかもしれない。

 ただ、今までのパワハラと、夢にまで出てきて説教してきやがった鬱憤を解消しないことには気が済まなかった。


「まあ、お前のことだ。他に働けるところもないだろうけどな。役立たずはどこに行っても役立たずだ」


 部長は立ち上がって、丸めた書類で俺の頭をはたこうとした。

 書類が俺の頭に届く前に、俺は腹の底から湧いてきた怒りに任せてその手首を掴む。


「うるせえハゲ」

「……なんだと?」


 後先のことなんぞ知らん。どうせクビならやっちまえ。


 俺は目の前の趣味の悪いネクタイを掴んで顔を寄せ、呆気にとられている様子の部長をにらむ。

 そして、相手の鼓膜を破らんばかりに声を張り上げた。


「望むところだ今すぐ辞めてやるわ!

 今後社外で遭ったらその申し訳程度に残った髪の毛全部むしってやるからな!!

 あと今日の帰り道なるべく痛くてみっともない感じに転んで風呂で泣け!!!」



 爽やかな風が頬を撫でる。


 いやーいいな。こんな風に走ったのは何年ぶりだろう。

 会社を辞めて晴れて自由の身となった俺は、並木道をランニングしていた。

 重い鎖から解き放たれたような爽快感が全身を満たしている。


 どんな形であれ会社を辞められたのは良いことなのかもしれない。

 マイからも連絡があった。

 周囲も落ち着いてきて、演技の勉強のために留学するという話も順調に進んでいるらしい。


 良いことづくめじゃないか。

 心地良い木々のざわめきを聞きながら、走るスピードを上げようとしたその時――


「おわ!?」


 唐突に足元から妙な感覚が伝わってきた。

 つんのめりそうになりながらも、なんとか体勢を立て直す。

 とっさに地面に視線を落とすと、アスファルトがまるで溶けかけたアイスクリームのようにぐにゃりと波打っていた。


「は!? なんだこれ!!」


 次の一歩もなんとか沈まずに立て直したものの、その先の一歩がずぷりとアスファルトに沈み込んだ。

 氷のような冷たさが膝の上まで這い上がってくる。

 もがいてももがいても抜け出せない。


 そうしているうちに胸まで冷たく浸食されていき――ふいに、目の前のアスファルトが不自然に盛り上がった。

 不気味で粘着質な音を立てながら、スライムのように柔らかく人の形を取っていく。


 そして形作られたのは、もう二度と顔を見ることもないと思っていたあの部長だった。


「どうせお前に行くところなんてない。周囲に迎合して流されまくった挙句さびしい老後が待ってるだろうよ」

「き、気持ち悪っ!! 地面から生えてくんな!!」

 

 俺は悲鳴を上げながら目の前の相手の髪の毛へと手をかける。

 けれどその瞬間、相手の姿が揺らいで一瞬のうちに変わった。


 脂っぽい中年オヤジから、高校の制服を着た、あの時の『彼女』に。


 名前を思い出そうとすると記憶にノイズが走る。

 いつもそうだ。俺は彼女の記憶から逃げたくて仕方がない。

 いつの間にか周囲の景色は屋上に変わり、俺はフェンスの向こうにいる彼女を見つめていた。


「相変わらず君は面白いな。それに、高校の時から変わってない。臆病なくせにおせっかいで、誰かを救いたがる。その傲慢さに気づいたのは、大人になったからだろうか。自分ではどう思う?」


 饒舌に言葉を紡ぐ薄紅色の唇が、笑みの形を作る。

 俺は声を失ったままそのさまを眺めていた。


「あのアイドルの女の子は、君に会えて幸運だった。でも――」


 小鹿のような瞳が暗く翳る。

 まるで奈落の底に覗き込まれているような気がして、身体の芯が凍てついた。


「……私の側には、いてくれなかったよね?」



「っ……!」


 聞き慣れた目覚ましアプリのアラームで目を覚ます。

 手探りで枕元のスマホを掴み、アラームをオフにした。

 全身にべっとりとした脂汗をかいていて、俺は不快感に眉をしかめながら額に張り付いた前髪をどかした。


 夢を見て夢だと気づかなかったのは久々だ。

 明晰夢ではなかったものの、はっきりとあの嫌な感覚を覚えている。

 胸の奥から冷たくなって、アスファルトに変えられていくようなあの感覚……。

 いつもの悪夢とはどこか違った。


「これって、もしかして……」


 確証はない。

 だからこそ、あいつに会いにいかなければ。

 


 そして俺は、再びお昼寝カフェ【BAKU】へとやってきた。

 ドアに『OPEN』と書かれたプレートがかかっている。


 ちなみに、ここに来る前にメールを確認したら、転職サイトから二社の最終面接に落ちた旨の連絡が来ていた。

 最悪なことばかりだ。


 ため息をつきながら店のドアを開けると、いつも通り夢見がカウンターの向こうで作業をしていた。

 夢見はすぐに俺に気づいて、穏やかな笑みを浮かべる。


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃ……あら、また来たの?」


 皿を拭いていたらしい夢見の隣で、コーヒーを注いでいた幸世がうろんな眼差しを俺に向けた。

 相変わらずの塩対応だったが、気のせいか、眼差しのきつさは以前よりも和らいでいるような気がする。


「にしても……やっぱりこのカフェ人いねえな」

「経営なら心配いりませんよ。他に収入源もありますし」


 夢見がそう言いながら俺にカウンター席を勧める。

 他の収入源ってなんだよ。気になるけど聞きたくない。


「久しぶりですね、昭博。もしかしてとびきりの悪夢でも見ましたか?」


 当然のようにそう聞かれて、ぎくりとする。


「おっ……お前、どうしてそれを……」

「やっぱり。実を言うと、そろそろ来るんじゃないかと思っていたところです」


 眼鏡の奥で悪戯っぽく目を輝かせ、夢見が俺の前にコーヒーを置く。


「あなたは元から痛んだ悪夢に蝕まれているようなものでしたし」

「……ん!?」


 今、聞き捨てならないことを聞いたような気がする。


「言ったでしょう? 希望を少しも抱かない人間には、絶望もまた存在しないと。

 あなたはすべてを諦めることで、なんとか傷んだ悪夢に浸食されるのを止めていたんです」


 丁寧に噛んで含めるように、ゆっくりと夢見が言葉を続ける。


「しかしあなたは希望の存在を思い出してしまった。

 期待と絶望は同時に生まれます。

 だからあなたは、これからその絶望を吹き飛ばすだけの明確な希望を――この先を生きていく上での松明となるようなものを見つけないと、このまま痛んだ悪夢に侵食されてしまいます。

 マイさんがそうだったように」


 ……なんだと?

 俺はぱくぱくと口を動かし間抜け面で言葉を探してから、やっと喉から声を絞り出した。


「もしかして、いずれ俺もこうなるって分かってて全部仕組んでたのか!?」

「仕組んだとは人聞きが悪いですね。よかれと思ってしたことです。マイさんの手助けをするのは、痛んだ悪夢の中を探索する練習にもなったでしょう?」

「でも、マイに影響を受けなければ、俺は痛んだ悪夢に蝕まれることもなかったってことだよな?」

「当面のところは、そうですね」


 あっさりと夢見が言う。


「そういうことは初めから話しておけ! この腹黒獣が……っ」

「おや、私のお腹は真っ白ですよ。今度バクの姿の私を確認してみてください。特別にモフモフも許可しましょう」

「いらん!」


 こんなのは騙し打ちだ。

 いや、最初に話されたとしても、俺がマイの悪夢に潜ることになること自体は変わらなかったかもしれないけど……!

 葛藤しながら、俺はうなるように言葉を絞り出した。


「こんな、穏やか癒やし系カフェみたいな見た目の店出しやがって」

「癒やし、系……?」


 夢見は不思議そうに首を傾げてから、ああ、と手を打った。


「そうだ。まだこのカフェのモットーをお話していませんでしたね」


 そしてすたすたと店の入り口に歩いて行くと、『Open』と書いてあるドアプレートを外して持ってきた。

 アンティーク調の金属で出来たプレートを裏返すと、『Close』という文字の下に小さな文字で何か文章が書いてある。


『悪夢は抗う者の前に現れる。

 直視しろ。逃げるな。跪かせろ。

 真実の生はその先にある』


 なんだこのスパルタ文面は。


「癒やされることも大事ですし、もちろん心優しいバクとして人間達をサポートするのはやぶさかではないんですけど。

 でも、変化に痛みはつきものです。

 この店に足を踏み入れた以上、そこは覚悟していただかなくては」

「詐欺か! そういうことはOpenの面に書いておけ!」

「初めはそうしてたんですけど、どうも怪しい店に見えるみたいで誰も入ってきてくれなかったんですよね」

「そりゃそうだろうけどな!」


 思わず声を荒げる俺をよそに、夢見は涼しい笑みを浮かべる。


「まあまあ。細かい事は気にせず楽しくやりましょう。あなたの新しい人生のために。まあ、まずはその悪夢をどうにかしなければ、この先の人生もなくなってしまいますけど」


 気楽な調子で言われて、俺は顔を両手で覆った。


「いつか見てろよ性悪バク。今はそれどころじゃねえんだよ。

 ……仕事もなくなっちゃったしな」


 夢見は俺の言葉にきょとんとした後、なぜかぱっと顔を輝かせた。

 そして、いかにも良いことを思いついたようにぱんと両手を打つ。

 ものすごく嫌な予感がする。


「ではますますちょうどいいですね。しばらくここで働いてください」

「はあ!?」

「今までも手伝っていただいていましたし、勝手は分かるでしょう? あなたには最適なお仕事だと思いますけど」

「そんなわけ――」


 言い返そうとして、ふと口を噤む。

 確かにここで断っても、他に良い道が見つからない。

 これ以上転職で躓くようなら、バイトも視野に入れなければならないのだから。


「き、給料は……?」

「では、早速条件のすりあわせをしましょうか。

 今日は夕食とデザートもサービスしますね」


 俺の言葉を降伏宣言と捉えたのか、夢見がやけに機嫌の良さそうなステップで鍋の前に立ち、シチューと思しきものを皿に盛りつけていく。

 優しい香りにささくれ立った心が少しだけ和らいだ。


「おかえりなさい、昭博」

「本格的に働くなら、私の後輩としてしごいてあげる。覚悟しなさい」


 穏やかに俺を迎える夢見とは対照的に、カウンターの向こうから幸世さんがするどい眼差しを投げてきた。


「お、お手柔らかに」


 ――そして俺は、正式にこのカフェの一員となった。

 それは幸かはたまた不幸か。

 とりあえず、新しい人生が始まったということだけは、疑いようもない事実だった。


 

 大通りの信号を二つ目で右に曲がり、三つ目の角で左に曲がって、入り組んだ小道を進んでいく。

 しばらく行くと、小さな一軒のカフェが見えてくるだろう。

 入口に置かれた植木鉢と、アンティーク調のドアプレートが目印だ。


「いらっしゃいませ。あなたをお待ちしていました」


 辿り着けたなら、己の中の悪夢と向き合う時がやってきた合図。

 覚悟を決めて店内に入り、潔く眠りに落ちるといい。

 夢の守護者である、純白の獣と共に。

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