第24話

 ……初めて。

 初めて人を斬った。


 巻き藁とは全然違う。

 肉を……命を切り裂く感触は、言葉にできないほど生々しく、おぞましい。

 けれど、おぞましさが「お前は生き残ったのだ」と鮮明に訴えてくる。


 指から力が抜けて、血にまみれた太刀が地面に落ちた。


 大きく息を吸う。

 冷たい空気が肺を満たして、思考が切り替わっていく。


 途端に、どっと喪失感が押し寄せてきた。

 これは夢じゃない。

 目覚めても、師匠は戻らない。

 手のひらに残る、人を斬った感触が何よりの証拠。


 でも、勝った。勝ったのだ。

 僕より何倍も強いレヴォルに。

 師匠の仇を討った。師匠の責任を果たしたんだ。


 ――だから、もう泣き叫んでもいいですよね。


 涙腺が限界に達しようとしたその時、


「見事だったわよ」


 聞こえるはずのない声が、聞こえた。


 慌てて振り返ると、師匠がのそりと体を起こしているところだった。


 ……どうして?

 ……なんで?

 師匠が生きていることに、思考がまったく追い付かない。


 でも、体は正直だった。

 僕はすぐさま駆け寄って師匠を抱きしめる。


 暖かい。柔らかい。心臓だって動いている。

 師匠が、生きている!!!


「……痛いわ。割と本気で」

「す、すいません!」


 渋面で呟く師匠。僕は慌てて腕を離した。

 やばい。思わず抱きしめてしまった。

 別の意味で心臓がばっくんばっくん言っている。


 あまりのことに涙も引っ込んでしまった。

 でもよかった。師匠に泣き顔を見られるのは、ちょっとかっこ悪いし。


「ど、どうして無事なんですか?」

「これよ」


 そう言うと、師匠は懐から一本の小刀を取り出した。

 無残に打ち砕かれた鞘が、あの一撃の威力を物語っているが、その中に納められた刀身には傷一つついていない。

 それは、もしかして……。


「折れた古銭刀を打ち直したものよ。これを服の内側に忍ばせていたの。レヴォルが狙うとしたら、あなたと同じで逆胴でしょうからね」


 そうか。だから、あの時、見せつけるように鞘を捨てたのか。

 師匠の唯一といえる隙。それを際立たせるために。

 そして、奇策は失敗すれば取り返しのつかない隙となる。師匠はそこからの反撃を狙っていたのだ。


「あなたが指摘してくれたおかげよ。でなければ、私は逆胴を突かれてあっさり負けていた可能性がある。もっとも、衝撃と肋骨を折った痛みで気を失っちゃったから、あまり意味はなかったのかもしれないけどね」


 そう言って、師匠は苦い笑みを浮かべた。

 備えていたのに生かし切れなかったとなれば笑うしかないだろう。


 だが、レヴォルは気づかなかったのだろうか。

 斬った感触でわかりそうなものだが。


 ……いや、斬ったと思い込みたかったのだろう。

 レヴォルはきっと最後の瞬間まで己の罪に苦しんでいたに違いない。


 師匠はレヴォルの亡骸に寄り添うと、弛緩して開いたままの瞼を優しく閉じた。

 穏やかな寝顔だった。まるで母親に抱かれて眠る赤子のように。


「レヴォルには済まないことをしたわ。私がこの子をしっかりと理解していれば……何に悩み、苦しんでいるのか気づいてあげられれば、こんなことにはならなかったのにね」


 すっかり血の気の失せた頬を優しく撫でる。


「そして、それはあなたも。仔細はレヴォルから聞いているわね?」

「……はい」


 僕は頷いた。


「私がレヴォルときちんと向き合っていたら、あなたは誘拐されずに済んだかもしれない。道場だって閉めるつもりだった。弟子を正しく導けなかった私に、剣を教える資格はないから。

 あなたがうちの門を叩いたのはそんな時。最初は断るつもりだった。厳しい稽古をつければそのうち諦めるだろうと思っていた。でも、意外と強情で、歯を食いしばってついてきたわ。私も観念して、あなたを受け入れることにした。

 でも本当は、弟子に裏切られたという事実を受け入れたくなかっただけかもしれないわね。真実だって話せなかった。私を英雄のように慕ってくれるあなたに、本当のことを伝える勇気が私にはなかった。あなたに失望されるのが嫌だった。そうやって先延ばしにして、このざまよ。

 ……ふふ、弱い女でしょ? こんなのが師匠だったのかって、軽蔑する?」


 そう寂しそうに懺悔する師匠の背中は、とても小さい。

 まるで燃え尽きる前の蝋燭のように、今にも消えてしまいそうだった。


「そんなことはありません!」


 僕は思わず、そう叫んでいた。


「確かに、僕が剣を学ぼうと思ったのは誘拐されたことがきっかけです。誘拐したのはレヴォルで、そのレヴォルを育てたのは師匠だ。でも、だから師匠が憎いだとか、恨むだとか、そんなことを思ったことは一度もありません!」


 それは強がりでもなんでもない。僕の本心だ。

 今回の事件は、誰が悪かったとか、誰の責任かとか……そう簡単に決めていい話ではないと思う。

 強いて言えば、間が悪かった。ただ、それだけなんだ。


 そんなことは師匠もわかっているだろう。

 でも、割り切れない。

 自分に非があったのかもしれないと考えてしまうのだ、この人は。


 でもね、師匠。

 本当に悪い人間は、そんなこと考えたりしませんよ。

 だから……


「これ以上、自分を責めないでください。資格がないとか言わないでください。僕は師匠の下でもっと剣を学びたい、師匠が教えてよかったって言えるような弟子になりたいんですから」


 師匠は肩を震わせた。

 泣いているのだろうか。背中から表情を察することはできない。

 それでも、僕は続ける。


「それでも師匠が苦しいなら、僕にはそれを止めることはできません。その代わり、ハイデンローザのすべてを僕に託してください。僕が証明します。師匠の教えは正しいんだってことを」


 それは奇しくも今回のように。

 師匠ができなかったことを、弟子である僕が果たすだけだ。

 弟子を正すことが師の務めだというのなら、師の意思を継ぐのが弟子の務めなんだから。


「……あなたが、ハイデンローザを?」

「はい!」

「でも、あなたは素質としては平凡だから、すべてを伝授するのは難しいと思うわ。私にしかできない技とかあるし」

「んが……」


 えー。そんな冷静に返さなくてもいいじゃん……。


「だから……うん、そうね」


 師匠は立った。

 振り返って、僕の方をまっすぐに見つめ、そして笑った。

 目尻に赤みが残っていたけど、憑き物が落ちたような晴れやかな笑みだった。


「これからも頑張るわ。師匠として。あなたに、私が師匠でよかったと思い続けてもらえるようにね」


 道場に通い続けて六年。

 僕はようやく、師匠の本当の笑顔を見ることができたのかもしれない。



◆◇◆◇◆



 その後の話ではあるが。

 当然というかなんというか、僕は警吏のお世話になった。


 どういう理由であれ、僕が人を殺したのは間違いないからだ。

 無論、言い逃れようというつもりもない。

 僕は僕なりの理由で太刀を執った。その事実から目を背けるつもりはない。その程度の覚悟で人を斬ったわけではない。


 さあ、煮るなり焼くなり好きにしろーとふんぞり返っていたのだが、数日間の拘束と取り調べを受けただけで、幸いなことに無罪放免となった。


 書類上は正当防衛で片付けられている。

 僕が六年前の誘拐事件の被害者で、師匠が救出劇の立役者であること、レヴォルが裏の剣客に属していたことが大きな理由だ。

 この街にはレヴォルが絡んでいると思われる事件はいくつもあるらしい。

 警吏は非合法組織の撲滅に心血を注いでいるわけだから、その実行犯を討ち取った功績は無視できるものではないようだ。


 ……ただまあ、法と秩序の伯爵領内で剣を抜いたことに対しては、僕も師匠も厳重注意は受けた。しゅんとなっている師匠は極めて貴重な絵面だったな。


 まあ、そうだよな。現行では単純な自力救済は違法だ。

 監視の行き届かない村社会ならいざ知らず、ヴェラスはバーウェル伯爵の御膝元。法の執行者である警吏を差し置いて、委託も受けてないのに剣を抜いてはならない。いつぞやの師匠も言っていたことだ。

 まあ、だからこそしゅんとしているのだろうが。

 かわいいからいいんだけどね。


 まあ、そんなこんながあったけど、僕はこれまで通りに道場に通い続けている。

 おしなべてこともなし、である。


 結果論ではあるけれど、この件で師匠の因縁は清算された。

 師匠は師としての自信を取り戻し、本格的に道場を再開するつもりらしい。

 かつての弟子たちにも声を掛け、新しい門下生たちも募っている。


「これで少しは生活に余裕ができそうですね」


 昼餉の席で僕は言った。

 師匠がやる気になれば、剣術道場としての実力はヴェラス随一だ。

 なんちゃって道場が隆盛を極めていたとしても、きちんと実力を誇示して募集すれば人は集まり続けるだろう。

 この貧相な生活から抜け出すことも絵空事ではない。

 いやあ、長かったなぁ。


 それに、新弟子が入門すれば僕が兄弟子か。

 ふふん。師匠に代わって新弟子たちの面倒を見るのも悪くない。


「そのことなんだけど」


 ぴたりと箸を止め、師匠。


「実は太刀を新調したせいで、借金があるのよね」

「……へ?」


 思わず、呆けた声が出た。


「だから、借金。太刀って安くないのよ」

「いや、知っていますけど……ちなみに、どれくらい?」

「えっとね」


 師匠の答えた額は結構なものだった。

 なんというか。しばらくは冷や飯生活が続くのだと確信させるほどに。


「当面は借金の支払いを優先せざるを得ないわね」

「そんなぁ。せっかく収入面が解決したかと思ったのに……」

「そんなに気落ちすることかしら。別にこれまでと変わらないじゃない」

「変えたいんですよ!」


 師匠の貧しい生活も。僕と師匠の関係も。


 ……って、口に出せたらいいんだけど。

 僕の勇気のなさも相当だからな。師匠のことをどうこう言えない。


「むぅ。現状がそんなに不服なのかしら。私は別に昔のまま、二人きりでもよかったんだけど……」


 師匠はもにょもにょと何事かを呟いた。

 小さくて聞き取れなかった。


「何か言いました?」

「いいえ。なんでもないわ。借金があるのは事実だし。それよりも午後からは真剣で稽古するわよ。気を抜かないようにね」


 早口にそう答えて、師匠は食事を再開する。

 すっかり色が変わった冷ご飯を、さも美味しそうに。

 僕は内心で溜め息を吐く。


 やれやれ。

 師匠が炊きたてご飯が食べられるようになる日は、まだまだ遠いみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せめて炊き立てのご飯を 白武士道 @shiratakeshidou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ