第14話
あれからどうなったのか、記憶にない。
僕のあの瞬間、一切の思考、思念を断ち切った。
この歳で明鏡止水の境地に達してしまうとは、僕は自分の才能が恐ろしい。
で、意識が戻ったら師匠と一緒に夕食を食べていた。
今日の夕飯は、今朝炊いた冷ご飯と、漬物と、汁物。
代わり映えしない、いつもの献立だ。
そして、師匠もいつも通り黙々と食べている。
その時の記憶はないけど、こうして二人で食卓を囲っているのだ。
最悪の事態には発展していないと思われる。
いやあ、良かった良かった。
「そうそう、お風呂でのことだけど」
「あ、はい」
うん。
僕が覚えていないからって、なかったことにはならないよね。
「男の子が、女の体を見てああなるのは普通のことだと聞くわ」
「は、はい」
「でもね、武芸者というものは普通ではいけないの。世の中には色香を武器にする武芸者もいる。それを卑怯な騙し討ちと蔑む人はいるけど、私はそういったものを軽視するつもりはない。戦場では生きるか死ぬかだからね。戦いの最中に、心をかき乱されるほうが悪いと思うの。
……あなた、実戦なら死んでいるわよ?」
もっともな話です。
風呂場は戦場じゃないなんて言い訳にもならない。
武芸の心構えは不惜身命、常在戦場。
いつどこで戦闘が始まるかわからないのに、油断するほうが悪いのだ。
「ましてや、私みたいな年増に欲情するようでは、先が思いやられるわ」
「そ、そんなことはありません! 師匠はまだまだ若くて綺麗です!」
「だとすれば、なおのことでしょう。自分で言って恥ずかしくなるけど、若くて、綺麗なだけで、正常な判断ができなくなってどうするの?」
「うぐ……」
思わず反論してしまったが、師匠から一蹴されてしまう。
でも、それはしょうがないじゃないですか。
憧れの人の裸なんですよ。興奮するなっていうほうが無理ですよ。
「ともあれ、精神面の課題をそのままにしておけないわ。弟子と打ち解けたいという私の事情はさておいても、しばらくは一緒にお風呂に入ったほうがいいわね」
「……女体に慣れろってことですか?」
「慣れるんじゃないわ。理性と本能を意識的に切り離す術を学ぶの。そういった意味では、むしろ慣れは厳禁ね」
うん。僕も慣れたくはない。
いつまでも師匠にどきどきしていたい。
つまり、そのどきどきを制御できるようにしろ、ということか。
「まあ、そんなわけだから。これからも背中を流してね。裸で」
「やっぱり、それは必須ですか?」
「意識の切り離しができているかどうか、一目でわかるし」
「……わかりました」
とは言うものの。
それにしても、師匠は本当に僕のことなんてどうとも思ってないんだな……。
なにせ、ああなったのは女の裸を見たらだと思っている。
師匠だから、ああなったのに。
嬉しいやら、悲しいやら……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夕食が終わったら、師匠はそそくさと寝る準備を始めた。
つるべ落としとはよく言ったもので、外はすっかり真っ暗だ。
「もう寝るんですか?」
「日が暮れたら寝る。自然の摂理よ」
「油代がもったいないだけですよね?」
「そうともいうわ」
……うーん。予想通りというか、なんというか。
師匠は特別、夜に何かやっているわけではないようだ。
師匠の強さの根源は、やっぱり地道な修行の積み重ねなのかな。
というか、だ。
どうして、師匠の部屋に布団が二つあるんですかね?
「あなたの住み込みは急に決めたらから、客間の掃除なんてしてないし。今日はここでいいでしょ」
一緒に風呂に入ったうえ、寝るところも一緒だなんて……
まるで夫婦じゃないか……!
「それじゃあ、お休み」
人が感慨に耽っているのをよそに、師匠はさっさと布団をかぶって目を閉じた。
なんだよ。どきどきしているの僕だけかよ。わかっていたけど。
とはいえ、まさか師匠の寝顔を見られるだなんて思ってもいなかった。
僕は布団にもぐりながら、これ幸いにと師匠の寝顔を観察する。
窓から差し込む月明かりのおかげで、師匠の寝顔ははっきりと見えた。
まるで精巧に作られた彫刻のようだ。
睫毛が長いなぁ。
ほっぺたはまるで磁器みたいにつやつやしている。触りたいなぁ。
「……じっと見られていると寝づらいわ」
うえ!?
目を閉じたままなのに気づかれた!?
「ど、どうしてわかったんですか?」
「視線を感じるもの」
「えぇ……」
優れた武芸者は危険感知の力を持つという。
僅かな違和感を頼りに、不意打ちや待ち伏せを看破してしまうのだそうな。
手を伸ばせば届く距離にいながら、寝顔を観察することもできないのか……。
「……今日は虫の声がよく聞こえるわね」
「え、あ、そうですね」
窓の外でりんりんと秋虫が鳴いている。
師匠にばかりに夢中で、そんなこと、気づきもしなかった。
どれだけ視野が狭まっていたのか、自分でも呆れてしまう。
実戦なら死んでいると言われてもしかたない。
「ねえ、あんあんって、知ってる?」
「……なんですか、それ?」
「夜、こうやって耳を澄ますと聞こえてくるのよね。あんあんって。虫かしら、それとも鳥かしら。聞こえる日と聞こえない日があるけど、一年通して鳴いているわ。冬も聞こえるから虫とは考えにくいし、やっぱり鳥なのかしら」
あの、もしかするとそれって……。
「あんあん……どういう姿か想像すると楽しいわ」
「僕は蜘蛛みたいな姿を思い浮かべますね。手足が二本ずつ、目も四つで」
嘘は言っていないぞ。
「蜘蛛……それは、かわいくないわね……」
ちょっとだけ、師匠の声音が低くなった。
思わず、僕は笑ってしまった。
「はは、師匠にも苦手なものがあったんですね」
「苦手なわけじゃないのよ。ちょっとかわいくないなって思っただけで。それに、蜘蛛は鳴かないじゃない。違うと思うわ」
ちょっとムキになったような反論。
師匠はあんあんなる存在の姿に思いのほか、こだわりがあるようだった。
意外な一面が見れてちょっと嬉しい。
でも、その正体を知ったらがっかりするだろうな。
「……あら。思ったよりも早かったわね」
すると、のそり、と師匠が体を起こした。
布団の中に忍ばせていたのか、その手には古銭刀が握られている。
「師匠?」
「あなたも準備して。お客様がいらっしゃったわ」
そこでようやく、僕は秋虫の声が鳴き止んでいるのに気がついた。
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