第23話
横薙ぎの一撃を受け、そのまま師匠は地面に倒れ伏した。
……気が動転しなかったのは、この光景を夢で見たからだろうか。
僕は努めて冷静に、床に刺さった太刀で縄を断ち切り、それをそのまま引き抜いて表へ飛び出した。
「師匠! 師匠……!」
呼びかけるものの、反応はない。
長い髪が広がって体を覆い隠しているから、出血の状況も確認できない。
まだ助かるかもしれない。
すぐに駆け寄って手当てをしなくちゃ。
でも、師匠の傍には――幽鬼のような男がいる。
彼を倒さずして、僕が師匠に近づくのは不可能だ。
レヴォルは倒れ伏した師匠の前で茫然と佇んでいた。
左腕は肘から先がない。その断面からおびただしい血が流れている。
だというのに、痛がる様子もなかった。
きっと。傷の痛みよりも、もっと大きな痛みを抱えているからだ。
「……君は、泣き叫ぶものと思っていた。意外と気丈なんだね」
レヴォルは僕を横目に見て呟いた。
その風貌は一気に何十歳も年を取ったように思える。
泣き叫ぶわけにはいかない。
今ここで泣いてしまったら、僕はきっと……レヴォルに立ち向かえない。
だから、今は精一杯強がらなきゃいけない。
それに、この戦いを止められなかった僕には、泣き叫ぶ資格なんてないのかもしれない。
僕が何と言っても、師匠は戦うのを止めなかっただろう。
僕が何を説いても、レヴォルは戦うのを止めなかっただろう。
だって、これは二人の問題。
僕だって当事者だし、無関係ではないけれど――僕なんかじゃ二人を救えないことくらい、わかっていた。
「これで因縁は清算した。僕は師匠を超えた。恐れるものなんて何もない。安心して眠りに落ちることができる。それなのに……ああ、まったく。全然眠くならないのは、なんでだろうね」
そう言って、レヴォルは自虐的な笑みを浮かべた。
彼は優しすぎたのだろう。
その手を穢してまで救おうとした母を失い。
そして今。最も尊敬していた女性を失った。
何もかもが裏目に出て。
何もかもを失ってしまった。
とても憎む気にはなれなかった。
もし、僕が彼の立場だったらどうしていただろう。
大切な誰かを失うかもしれないという状況で、僕は果たして悪に染まらずにいられただろうか。
流儀と感情を天秤にかけて、前者を選ぶことができただろうか。
でも――ああ、それでも。
今は、胸を引き裂きそうな感情を全て怒りに変えろ。
手にした太刀を握りしめる。
強く、強く、握りしめる。
「……それを捨てれば命は助かるよ」
ああ、そうだろう。
レヴォルの目的は師匠との因縁を断つことだけ。
僕のことなんて眼中にない。
全てを忘れて、見なかったことにして、この場を去るなら見逃すだろう。
一度、目を閉じる。
六年。誘拐された僕を助け出してくれたあの日から、六年だ。
毎日のように師匠の顔を見てきた。
淡々として、無表情に見えるけど、師匠にはさまざまな顔があった。
真剣な顔も。笑った顔も。恥じらう顔も。辛そうな顔も。
とっても希薄だったけど、そこには確かに人間としての色があった。
その全てに惹かれた。
それを忘れて、去るだって?
――それだけはできない。
ここで何もせず、師匠との思い出を捨てて立ち去ることだけは。決して。
レヴォルを憎む気はない。
けれど、許すことはできなかった。師匠がそうしたように。
それが何もできなかった自分が、唯一果たせる責任だと思うから。
「――そうか。残念だ」
なおも太刀を手放さない僕を見て、レヴォルは本当に残念そうな顔をした。
「師だけでなく、弟弟子まで斬ることになるのか。何も救えない。何も残せない。これが因果……僕という人間の末路ということか」
レヴォルは太刀の切っ先を僕に向けた。
片腕を失ったというのに、その構えには一分の隙もない。
「うおおおおおお!」
僕は持ち得る最速の運足でレヴォルに肉薄すると、決死の太刀を放った。
打ち合う刃金。
レヴォルは隻腕でありながら太刀の扱いに淀みがない。
単に受け流しただけでなく、僕の突進する勢いを利用して、するりと背後に回り込んだ。お返しとばかりに唐竹が繰り出される。
とっさに受け太刀。
重たい。片腕でこの威力。受け損なったら終わりだ。
「死に体の僕なら勝てるとでも思ったか、裏の剣客を甘く見るな!」
怒涛の攻めが始まる。
その体のどこにそんな力が残っているというのか。
レヴォルは依然として強い。はっきり言って化け物だ。
僕はたちまち防戦一方になる。
だが、届く。抗し得る。
本来なら、一合も打ち合わずに殺されるほどの力量差だ。
なのに、僕は生きている。
僕ごときと戦闘になっている時点で、彼が消耗しているのは明白だ。
今なら僕にも勝機がある――!
「そこだ!」
連撃の合間を縫って、僕はさらに距離を詰めた。
放った一撃は阻まれるが、それでいい。
そのまま鍔迫り合いに持ち込むのが目的だ。
レヴォルは隻腕。単純な力の押し比べなら僕の方が有利だ。
このまま押し潰してやる……!
「くおおお……!」
「うおおお……!」
歯をむき出しにして力を籠め続ける。
交差した太刀の刃が音を立てて欠けていった。
力が拮抗していたのは初めだけ。僕の太刀が少しずつレヴォルに押し迫る。
よし、いける。いけるぞ……!
「くっ……!」
たまらず、レヴォルが一歩引いた。
しまった。重心を傾けていたせいで僕の太刀が滑る。姿勢が崩れる。
駄目だ。ここで体勢を立て直させたら、一気に逆転される……!
「これで終わりだ!」
叫びながら、レヴォルは太刀を振り上げた。
「――こんのぉ!」
僕は倒れ込みながらも、腰をねじって斬り上げる。
一際甲高い音を立てて二つの斬撃が衝突した。
「しまっ――!」
強引な攻撃だったのはレヴォルも同様か。
全力で太刀をぶつけ合った結果、逆にレヴォルが態勢を崩す。
今だ!
倒れゆきそうな体を無理やり足で支える。
反動で筋を痛めたが、構うものか。
レヴォルに一撃を入れるには今しかない。今を逃して勝機はない。
根性見せろ、僕の体!
――それは、偶然の産物だったのかもしれない。
いくら精神力で痛みを押し殺したとしても、現実問題として、損傷した筋繊維は十分な機能を発揮しない。動かしたくても動かせない。
僕の意志とは無関係に、無意識に体がかばってしまう。
それが逆に、最も効率化された動作を実現した。
それは師匠の再現。
ハイデンローザの神髄――神速の斬撃。
最小効率で最大効果を発揮する術理の結晶。
凡人のために編み出され、受け継がれてきた泥臭い剣技が――ついに天賦の才人を袈裟懸けに斬り裂いた。
「――見事」
振り上げていた右腕がだらりと下がり、太刀が力なく地面を転がる。
レヴォルの顔は真っ青だ。
さっきの一撃もさることながら、戦いの最中に血を流し過ぎた。
遠からず、死に至るだろう。
にもかかわらず、レヴォルの表情は穏やかだった。
「最期に善いものが見れたよ。さっきの一太刀は僕が憧れて、そして、捨ててしまった師匠の太刀と同じだ。いやはや、君ってやつは本当に――」
善い弟子だねと囁いて、レヴォルは糸の切れた人形のように膝を折った。
その死に顔は眠るように安らかだった。
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