第3話

 今日の修練を終えると、僕は帰路についた。


 昼間はそこまで感じなかったが、日が暮れ始めると秋風の冷たさが身に染みる。そろそろ袖の長い服が必要になるだろう。


 民家のあちこちから水煙が立ち上り、かぐわしい夕餉ゆうげの匂いが漂ってくる。


 ……炊き立てのご飯か。

 師匠は、今夜もまた冷ごはんを食べているのだろうか。


 早く何とかしてあげたいな。何かいい方法はないものか。


 そんなことを考えているうちに家に辿り着いた。


「坊ちゃま、お帰りなさいませ」


 番頭の青年が恭しく頭を垂れて迎えた。


 僕の父はヴェラスでもそこそこ名の知れた商人で、実家兼店舗には奉公人が何人も勤めている。

 ……あまり認めたくないが、僕は金持ちのぼんぼんというわけだ。


「お食事になさいますか?」

「いや、先にお風呂をいただこうかな」

「かしこまりました」


 僕は着替えを持って風呂場に行くと、そこには先客がいた。


「父さん」

「いま帰ってきたのか。毎日ご苦労だな」


 湯船にゆったりと浸かりながら、父は僕の体をじろじろ見る。


「すっかりたくましくなったな。もう大人と変わらん」

「毎日鍛えているからね」


 ふふん、と鼻を鳴らして力こぶを作って見せる。

 帳簿とにらめっこばかりしている父さんと違うんだぜ。


「まあ、股間のほうはまだまだ子供のようだが」

「こ、これからだよ!」


 僕はさっと手拭いで隠す。

 というか、父よ。息子の息子をじろじろ見るんじゃありません。


「剣術修行もいいが、そろそろ商人としての修行も始めてくれないか。うちには、お前しか跡継ぎはいないんだから」


 そうなのだ。結局、僕には兄弟が生まれなかった。

 だからいずれは、僕が跡取りとして家業を継がなければならない。


 でも――


「ごめん。もう少しだけ」

「……しかたないな。もう少しだけだぞ」


 父は苦笑した。

 一人息子で可愛いからか、だいたいのことは聞き入れてくれる。


「……父さん、相談があるんだけど」

「なんだ、改まって」

「師匠に払っている月謝だけど、少し上乗せできないかな」


 僕の提案に、父は渋い顔をした。


「あの人の生活が苦しいのは知っている。だが、謂れのない施しは、あの人の矜持が許さないだろう。私とて、ただ金をやると言われても受け取らんさ。私も商人の端くれ。商いに因らない金など悪銭に過ぎないからな」

「……だよね」


 金儲けをしたくて道場やっているわけじゃない、と師匠は言った。

 望んでそういう生活を送っているのだと。


 だから、僕が月謝を多く支払ったからと言って師匠が喜ぶはずがない。


「あまり出しゃばるなよ。あの人にはあの人の生き方がある。弟子に過ぎないお前が口出しすることじゃない」


 父さんの言うことは、もっともだ。


 でも、初恋の女性ひとわびしい生活を送っているのを、ただ見ているだけというのも辛いんだ。


 何とかしてあげたいと思うのは、そんなに悪いことなのだろうか?



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 風呂を済ませ、夕餉も食べ終えた僕は、自室の布団の上に寝転びながら師匠の言葉を思い出していた。


『それに、ちゃんと学びたい人はちゃんとした環境を求めるものよ。実戦的な剣術は意欲がある人だけが学べばいいと私は思うし、そういう人にしか教えたくはないとも思っている』


 つまり、本気で剣を学ぼうとしている弟子であれば取るということだ。


 師匠の矜持を傷つけずに生活を楽にするためには、そういった正当な門下生を集うしかない。


 しかし、娯楽剣術が蔓延まんえんするヴェラスで、本気で剣を学ぼうとする人間がどれほどいるのか……。


 いや、いる。いるはずだ。

 武芸と何ら縁のなかった、商人の息子ぼくが何よりの証明だ。


 では、僕はなぜ本気で剣を学ぼうと思ったか。

 師匠の強さを目の当たりにしたからだ。


 ……今でも覚えている。

 ならず者たちを一蹴した、あの圧倒的な強さ。

 僕を抱きとめてくれた優しさ。

 僕も誰かを救えるような人になりたいと思わせるほど、あの在り方は美しくて。


 ハイデンローザ流の強さを誇示する機会があれば、誰かしら、そういう気持ちを持たせることができると思う。


 でも、うちは他流試合は禁止されているからなぁ……。


 師匠が特別厳しいわけじゃない。

 古流の流れを汲む武術流派では他流試合をしないのが当たり前だ。


 なぜって?

 勝つことが気持ちいいからだ。


 他者と腕前を比較すれば、どうしても勝敗が生じる。

 勝敗が生じれば、優劣が生じる。

 自分が優位に立っていると実感できた時、とてつもない快感を得るのが人間だ。


 そして、それは一度味わうと病みつきになってしまう。

 勝利とは麻薬のようなものなのだ。


 やがて、戦うことに快楽を求める剣鬼になる。

 武術を己のためにのみ使う存在になるということだ。

 己に打ち克つのが武術の本質だからこそ、頑なに戒められてきたのである。


 また、技術論的な理由もある。

 衆目の前で試合をすれば、そこから技を盗まれたり、分析されて対抗策を講じられてしまい、そうなると流派全体の弱体して滅亡しかねない。

 だから、古流武術は軽々しく人前で戦ったりはしないのだ。


 ……でも、戦わずに力を誇示するなんて不可能だ。


 師匠の教えに背かない程度で、僕たちが戦っているところをどうにか街の人たちに見せられないだろうか。

 別に試合じゃなくても、要は、師匠の強さがみんなに伝わればいいわけで。

 とはいえ、あの師匠があからさまな技術漏洩――衆目の中での演武や地稽古を許可するはずがないし。


 街中で悪党でも出没しないかなぁ……そして、被害を出す前に、師匠に迅速に取り押さえられないかなぁ。そうすれば一発なのに。


 はは、そんな都合のいい展開があるわけ……。


「――あ、そうか!」


 降って湧いた天啓に、思わず声が出てしまった。


 そうだ、僕が悪党に扮すればいいじゃないか。


 師匠は他流試合は禁止と言った。

 ということは、言い換えればということだし。


 僕が悪党のふりをして師匠に襲い掛かる。

 そうなれば、さすがの師匠も対応しないわけにはいくまい。

 そして、いつもどおり無様に負ければ、師匠の強さを街のみんなに見せつけることができる。


 よし、決めた。

 師匠に炊き立てご飯を食べてもらうためなら、僕は悪党にだってなってやる!


 もちろん、ふりだよ、ふり。

 師匠の報復が怖いし。

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