第12話

 道場に通いたての頃、僕は内弟子を希望したことがある。


 師匠は幼い僕を命を救ってくれた恩人だ。

 この人のようになりたくて剣術を始めたのだから、その一挙手一投足をすぐそばで見ていたかった。


 けれど、その申し出はあっさり断られた。


「子供のうちは、親御さんのそばにいてあげなさい」


 というのが師匠の言い分だ。


 師匠は〈大戦〉時の戦災孤児らしく、両親との思い出もほとんどないそうだ。

 だからこそ、僕から親に素直に甘えられる時間を奪いたくなかったのだろう。


 そんなわけで僕は六年間、毎日実家から道場へ通っている。


 ……のだが、どうして今になって泊まり込みをさせるのか?

 それらしい理由を考えてみるが、どうにも答えが出ない。


 とはいえ、師匠の指示には従う方針だ。

 しばらく泊まり込みで修行することになったことを両親に伝えて了承を得ると、すぐに道場に戻った。


「ただいま戻りました」

「お帰り。ちゃんとお話しできた?」

「はい。構わないそうです」


 実際、両親は二つ返事だった。

 幼い僕の命を助けた恩があるので、師匠への信頼は絶大だ。


「それじゃあ、これからしばらく一緒に寝泊まりすることになるけど、よろしくね。でも、お泊り会じゃないから。修行のつもりで取り組むように」

「もちろんです」


 僕は力強く頷いた。

 どういう意図かわからないが、念願の内弟子(のようなもの)になれたのだ。

 師匠の強さの根源を、普段の生活の中から学ばせてもらおう。


 ……といっても、内弟子っぽいことはこれまでにもやってきたのだが。

 掃除、洗濯、炊事。日用品の買い出しに風呂の世話。

 師匠の生活基盤のすべてが日中に集約されており、僕の稽古時間の半分はそれに費やされる。

 住み込んでいないだけで、やっていることは内弟子と変わらない。


 ただ、そんな僕でも、夜の師匠だけは知らない。

 師匠がどういう風に夜を過ごしているのか興味はある。

 案外、そういうところに強さの秘密があるのかもしれない。


「少し早いけど、お風呂にしましょう。沸かしてくれる?」

「かしこまりました」


 僕は頷いて、外にある風呂釜まで走った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 僕は風呂釜の焚口に薪(この間斬った巻き藁の残骸だ)を放り、竹筒で勢いよく息を吹きかけた。

 ぱちぱちと火の粉が爆ぜ、折り重なった薪が赤々と燃える。


 ……そろそろいい温度かな。


 がらり、と格子窓の向こうで扉の開く音が聞こえた。

 師匠が風呂場に入ってきたようだ。

 そのあたりはさすがに六年来の付き合い。僕が湯沸かしにかかる時間を肌で理解しているのだろう。


「……ふう」


 窓の隙間から湯船からお湯が流れ出る音と、艶めかしい吐息が聞こえた。


「湯加減、どうです?」

「ちょうどいいわ」

「それはよかった」


 米を炊く薪にも難儀しているのに、貴重な薪で風呂を沸かすというのは無駄遣いとも思えるが、これにはわけがある。


 ハイデンローザ流では、身の不浄ふじょうは、心の不浄ふじょうに繋がると考えられている。

 そして、不浄ふじょう不定ふじょうに通じ、心身の不定ふじょうはそのまま太刀筋の不定ふじょうとなって現れるのだ。


 そして、戦場ではそのわずかな綻びが生死を左右する。

 だから、師匠はどんなに貧しくても風呂をないがしろにしない。


 ちなみに、こういった教えは武術世界では珍しくない。

 特に古流は何かとげんを担ぐような教えが多い。ハイデンローザ流に限った話ではないのである。


「……そろそろ背中を流してもらおうかしら」

「はいっ」


 浮かれた声音にならなかったか、少し心配だ。


 師匠の背中を流すのも修行の一環だ。

 これは道場に通い始めた六年前からの日課である。


 しかしだ。

 いくら僕のことを『おしめをしている頃から知っている親戚の子』くらいの認識でも、通いたての八歳の頃ならいざ知らず、十四歳の今となってはいささか絵面的に問題がないだろうか。


 僕もそろそろ言わなくちゃと思っている。

 思っているんだけど……はい、ぶっちゃけます。

 初恋の女性の裸を合法的に見れる権利を捨てるなんて、あまりにもったいなくて手放せるわけないじゃないか!


 師匠。駄目な弟子でごめんなさい。


「失礼します」


 断りを入れて浴室へ入る。

 湯気が充満している浴室は甘い女の匂いが漂っていた。


 僕が来たことを確認すると、師匠は湯船から上がる。

 湯着を纏うことも、露わになった裸身を隠すこともしない。生まれたままの姿を見られても、恥ずかしがるそぶりもない。

 逆にこっちが恥ずかしくなるが、はっきり言って眼福である。


「じゃ、お願いね」


 そう言って、師匠は背中を向けて風呂椅子に腰かけた。


「はい、失礼します」


 平静を装いながら、ぬか袋で師匠の背中を丁寧に洗う。


 お風呂に入る時の師匠は、普段と違った艶やかな魅力がある。

 長い黒髪が濡れないようにお団子に結い上げているため、普段は隠れている白いうなじがはっきりと見ることができるのだ。


 そして、傷一つない綺麗な背中。

 背骨の通ったくぼみがなんと色っぽいんだろう。誰の体にもあるはずなのに。


 そこからすっと下がって、柳のように細い腰。

 清貧にあえいでいるだけあって、余分な肉付というものはまるでない。

 ほっそりと、すっきりと、優美な曲線を描いている。


 さらにその下。

 ああ……風呂椅子でふにゅんと潰れたお尻が……たまりません。


「……最近、無言で洗うことが多いけど、何か考え事?」


 話しかけられ、どきりとする。

 希薄なだけで、師匠には羞恥心がちゃんとある。

 師匠の背中を舐めるように観察しているなんてことがバレたら、さすがに幻滅されてしまうのではないか。


 何か話そう。何か……。


「そ、そういえば、昔いた弟子たちも、こうやって背中を流していたんですか?」

「ううん。今のところ、あなただけかな」

「へえ。なんで僕だけやらされているんです?」

「……情けない話だけど。私自身、弟子との距離感に課題があったの」


 背中を向けているので、表情は見えない。

 でも、その声はどこか自分を責めているように聞こえた。


「師と弟子というよりは、教える人と教わる人という関係だったわ。剣を教えてほしいと言ってきたから、私は剣を教えてあげた。ただ、それだけ。個人の内情にはさほど関心がなかったの。殺し殺されるの当たり前だった〈大戦〉の中で生きてきた私にとって、他人はいつかいなくなるものだったから。無意識に、あまり心に留めないようにしてきたのね」


 有史最大の戦争。

 その死傷者の正確な数は僕たちには知らされていない。〈大戦〉という言葉から推し量ることしかしかできないが、決して楽観的な数値ではないだろう。


 人間の死が当たり前の戦場で、知り合いが死ぬたびに悲しんでいるようでは、心が耐え切れない。

 だから、若き日の師匠は他人への関心をなくすことで心を守った。

 師匠がどことなく浮世離れしているのは、そういった凄惨な半生を送ってきたからかもしれない。


「……でも、そのせいで、かつての私は取り返しのつかない失敗をしてしまった。だから、今は弟子のことをできるだけわかってあげたいと思うの。もう二度と、あんな思いをしなくていいように」


 失敗とはどういう意味なんだろう?

 かつての門下生たちとうまくいっていなかったのだろうか?

 師と弟子の確執から、諍いに発展するのは武術の世界ではよくあることだ。

 師匠の感情の希薄さ、淡々とした態度が誤解を招いたのかもしれない。


「……師匠の仰ることはわかりました。でも、なんでお風呂なんです?」

「だって、交友を深めるには裸の付き合いが一番って言うじゃない?」


 なるほど。

 なぜ、僕に背中を流させ続けているのか、今更ながら合点がいった。


 人間にとって背中は死角だ。後ろに誰か立っているだけで無意識に緊張する。

 そんな背中を晒し、触れることを許すということは、師匠なりに、僕に対して心を開いていると伝えるためだったのだ。

 あくまで師としてだろうけど、僕はそんな師匠の心遣いが嬉しかった。


 ……が。


「そういうのは、師匠だけが裸になっても意味がないと思うのですが」

「え? そうなの?」


 びっくりしたように、師匠は振り返って僕を見た。


 ……いま視線をちょっと下げれば、師匠のおっぱいを直視できる。

 大きすぎず、小さすぎず、形も張りもばっちりな、すんばらしいおっぱいを。

 

 でも、だめだ。露骨すぎる。

 いくら師匠でも、胸をガン見すればその意味に気づくだろう。

 そうなれば、背中を流すという名目で裸を見る合法的権利を失うのは必然。

 それだけは、それだけは避けねば!


 僕は鋼の精神で、眼球が動くのを抑え込んだ。


「は、裸の付き合いというのは、お互いが裸だから成立するんですよ。お互いが何も隠していない無防備を晒すことで、初めて本音を言い合えるわけで……」

「そうだったの……私だけが裸じゃ意味がなかったのね……」


 僕の言葉に師匠は落胆したようだった。

 そういうところですよ、師匠。浮世離れしているの。


 されど、すぐにおとがいを上げる。


「じゃあ、あなたも裸になって」

「……は?」


 唐突に、何を言うのか、この人は。

 いかん。びっくりして一句読んでしまった。


「あなたが言ったんじゃない。お互い裸じゃないと意味がないって。それに、あなたも泊まるのだもの。お風呂は済ませなきゃ。一緒に入ったほうが薪も少なくて済むし、経済的でしょ」

「い、いや、僕は一人で大丈夫ですから」

「私の話を聞いていたのかしら。いいから。ほら、脱いで脱いで」


 そう言って、師匠は僕の着物を脱がしにかかった。

 抵抗してみるものの、近接戦で師匠に勝てるはずがない。

 あっという間に組み伏せられ、着物がはぎ取ら……あーれー……。


「うん。これで正真正銘、裸の付き合いね」


 無残にも裸にひん剥かれた僕を見て、師匠はちょっとだけ満足そうだった。


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