せめて炊き立てのご飯を

白武士道

第一章 師匠と僕(前)

第1話

 幼少期の思い出というものは成長とともに薄れゆくものであるが、僕にはどうしても忘れられない記憶がある。


 それは、僕が誘拐された時の記憶だ。


 もう六年くらい前のことだろうか。

 商人の一人息子である僕は、金に困っていたならず者集団に目をつけられ、身代金目的で誘拐された。


 街外れの古びた小屋に監禁された僕は手足を縛られ、猿轡さるぐつわを噛まされた。

 喉元には刃物が突きつけられ、泣くこともしゃべることもできず、とても生きた心地がしなかった。


 ならず者たちは「お前の親がきちんと金を払えば命は助けてやる」なんて言っていたけど、極限状態の時は最悪な想像ばかりが浮かんでくるもので。


 用が済んだら殺されるのではないかとか。

 両親は金を惜しんで僕を見捨てるんじゃないかとか。

 そもそも――誰も僕がさらわれたことに気づいていないんじゃないかとか。


 あまりの怖さにおしっこだって漏らしそうだった。

 漏らしたら殴られそうだったから、必死に我慢したけれど。


 そんな感じで僕が人生最大の恐怖を味わっていると、一人の女武芸者が扉を蹴り破って飛び込んできた。


 あっという間の出来事だった。


 とにかく女武芸者の動きは速かった。

 目にもとまらぬ早業で、ならず者たちを一人、また一人と討ち取っていく。

 最後の一人はかなり粘ったけれど、最終的に勝てないと悟ったのか太刀を捨てて逃げ出した。


 幼い僕の目から見ても、女武芸者の実力は桁外れだった。

 こんなに強い女性がいるのかと驚嘆したくらいだ。

 幼いながらにできあがっていた『女は守るべきもの、守られるべきもの』という固定観念がぶち壊されるほどに。


 全てを片付けた女武芸者は僕の拘束を解くと、優しく抱きしめてくれた。


 女武芸者の体は筋張っているけど柔らかくて、いい匂いがして、心の底から安心できた。助かったんだと全身が叫んでいた。


 緊張が緩んで泣き叫びそうになった瞬間、あることに気づいた。


 女武芸者が肩を震わせながら、僕に向かって何度も何度も「ごめんなさい」と涙ながらに謝っていたからだ。


 ……この時、すごく混乱したのを覚えている。

 どうしてこの人は泣いているんだろう。泣きたいのは僕のほうなのにって。


 おかげですっかり涙が引っ込んでしまった。

 今考えれば、情けない姿をさらさなくて良かったかもしれない。


 最後まで涙を見せなかった僕に、女武芸者は「君は強いんだね」なんて褒めてくれたけど、はなはだ誤解もいいところ。僕は単に、この人は強いのか弱いのか、どっちなんだろうって戸惑っていただけなんだから。


 そして、僕は無事に両親の元へ帰ることができた。

 両親はたいそう感謝したが、女武芸者は名も告げずにその場を後にした。

 去り際、やっぱり少し気まずそうにしていたのを覚えている。


 まあ、ともあれ、その事件がきっかけで僕は強くなろうと決意した。

 あんな惨めな思いはこりごりだ。自分の身くらい自分で守りたいし、あの女武芸者のように……とはいかないまでも、守りたいと決めた誰かを守れるくらいには強くなりたいと思ったからだ。


 そのことについて両親も強く反対しなかった。これからのことを思えば、自衛のための力は持っておいた方がいいと考えたのだろう。


 そんなわけで、街一番と噂の剣術道場の門を叩いたら――


「まさか、師匠があの時の女武芸者だったなんてなぁ……」

「……いきなり何を言っているの?」

「いえ、ちょっと昔のことを思い出しただけですよ」


 それが何を指しているのか分からない師匠は不思議そうに小首を傾げる。

 艶やかな黒髪がさらり、と綺麗な音を立てた。


 あの事件は僕にとって人生最大の恐怖の出来事だったわけだが、同時に、決して忘れられない思い出でもある。


 だって――


「そんなことより、今日もご指導、よろしくお願いします!」


 僕は木刀を手に取って、師匠に向かって一礼した。


「はい。よろしくね」


 師匠も一礼をする。ぴしり、と空気が引き締まった気がした。


 ……うむ。やはり、師匠はすごい人だ。

 何気ない礼の仕草にも無駄な挙動が一切ない。それはつまり、肉体を最小限の効率で動すというハイデンローザ流の極意の体現に他ならな――


「い」


 師匠の道着の襟元から、ちらりと胸の膨らみが覗く。

 決して小さくはないものの、さりとて大きいわけでもなく、あえて表現するならば実にちょうどいい感じのおっぱいが、重力に引かれてやや下向きに垂れていた。道着の下に支えるものがないということだ。つまり。


「師匠、また下着つけてませんね!?」


「この間まで雨降っていたでしょ。まだ乾いてないの」


 それがどうしたの、と言わんばかりの無表情。


「せめて何か巻いてください! 気が散ります!」


「武芸の基本は常在戦場じょうざいせんじょう不惜身命ふしゃくしんみょう。こんなことで四戒が生ずるようでは、まだまだ未熟と心得なさい。現に、私は恥ずかしがってないでしょう?」


 などと理論武装をしてくるが、この人は単に面倒臭がりなだけだ。

 でなければ、修行の一環と称して僕に下着を洗わせたりはしない。稽古終わりの風呂で背中を流せなんて言ってくるはずがない。


 僕のことなんて、『おしめをしている頃から知っている親戚の子』くらいにしか思っていないのだろう。


 ……まったく。人の気も知らないで。


「それは師匠がズボラなだけでしょう。さあさあ、何か巻いてきてください。待ってますから」


 師匠はしょうがないわねと小さく嘆息し、さらしを巻きに道場から出て行った。


 その背中を、僕はぼんやりと見つめる。

 古い記憶の中と何ら変わらない、僕にとっての最強の剣士の後ろ姿を。


 ――忘れることはできない。

 どんなに惨めで情けなかろうと、あれが僕の初恋の思い出なのだから。

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