第四章 師匠と僕(後)

第18話

 窓を叩く雨の音で目が覚めた。


「夢か……」


 大きな溜め息を吐いて、僕は布団から上半身を起こした。

 冷たい空気に触れてぶるり、と体が震える。


 冬の朝は遅い。

 体内時計はいつもの時間を指しているのに、外はまだ日の出前だ。

 まして、昨日から降り続けている雨のせいで空はまだ黒々としている。


 暖かい布団に戻りたい誘惑に耐えながら、そのまま態勢を維持。

 自然と目が冴えるまで待つ。


 視線がぼんやりと部屋をさまよう。

 見知らぬ天井。覚えのない漆喰の壁。馴染みのない内装。


 それもそのはず。

 古銭刀にまつわる事件以降、僕は師匠の家に住み込みをしている。


 そもそものきっかけはギーリッヒ商会の襲撃に備えてのことだったが、それ以降も住み込みは続いていた。

 理由は単純で、師匠が帰れと言わなかったから。

 一度は断られた内弟子生活。せっかくだからその時が来るまで堪能しようという腹積もりだ。


 そんなわけで、雨天時の洗濯干し場となっていた客間が今の僕の寝床である。


 ふと、視線を上へ。

 天井間際。部屋の角から角へ対角線上に張られた縄に、昨日洗った師匠の洗濯物がぶら下がっている。


 ――訂正。

 雨天時の洗濯干しは現在進行形。洗濯干し場、兼、僕の寝床が正しい。


 個室をあてがってもらえるだけありがたいのだが、実に煩悩の多い部屋である。

 衣類から漂う女の匂いが充満してどきどきするし、どこに視線をやっても無造作に吊るされた下着が目に入ってしまう。

 僕の服も一緒に干してあるから、まるで夫婦のようで気恥ずかしい。


 昨日洗ったのがアレとアレとアレだから……消去法で今日は黒かな……。

 なんて、師匠の下着の色当てなんてしている場合じゃない。


「久しぶりに見たけど……どうして……」


 あの夢は、過去の再演。

 僕がかどわかされて、それから助け出されるまでの繰り返し。

 だから、結末はいつも同じ。


 なのに、どうしてそれが変わってしまったのか。


 所詮は夢だ。

 ちょっとしたことで辻褄が合わなくなってもおかしくない。


 でも、あの夢は僕にとって原初の恐怖の象徴であると同時に、僕にとって最強の英雄の象徴でもあるのだ。それほど鮮明に焼き付いた光景が、今になって変わると思えなかった。


 古来より、夢はこれからの吉凶を告げるものだという。


 ……何かを暗示しているようで不安になる。

 師匠に限って、誰かに負けるなんてありえないとわかってはいるのだけど。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「……私が死ぬ夢?」


 炊き立てのご飯を頬張りながら、師匠が鸚鵡おうむ返しに問い返した。


 師匠の生活の中で唯一、熱々のご飯と汁物が食べられるのは朝餉だけ。

 なので、朝の師匠はどことなく幸せそうな気配が漂う。

 表情は相変わらず淡白だが、ぶんぶん揺れる犬の尻尾を幻視する。


「それで暗い顔をしていたの?」

「……だって、不吉じゃないですか」


 師匠が斬られる夢なんて、僕からすれば悪夢以外の何物でもない。


「夢は夢よ。昔からお告げだなんだの言われているけどね、現実が夢の通りになったことなんて私は一度もないわ」

「まあ、そりゃそうですけど……」


 そんなこと言ったら、僕だって別の夢の中では師匠と――ああ、うん。これは口に出せない。言ったらさすがに軽蔑される――なのに、それが現実になったことはない。似たような状況に陥ったことはあるけれども。


「師匠は、そういったものをあまり信じない性質たちですか?」

「そういうあやふやなものに頼って生き残れるほど、戦場は甘くないからね」


 戦場が基準とは。

 女の人だったら、そういうのに幻想を抱いていてもいいのに。本当に切った張ったの半生だったんだな。


「それに、私が死ぬ理由なんてたくさんあるわ。例えば、餓死とかね」


 思わず、箸が止まった。

 ……在り得る。

 依然として道場の経営は芳しくない。師匠の収入は、相変わらず僕の月謝と代書の賃金だけだ。冬越えだって厳しいだろう。


「……冗談よ」


 笑えませんよ、師匠。


「それに戦争とはいえ、これまで散々人を斬ってきた身の上よ。因果は巡るもの。その業がいつ私に返ってきてもおかしくはないわ」


 それが剣士の定めなのだと、師匠は言った。

 言っている意味は分かる。でも、不吉な夢を見たばかりなのだから、そんなこと言わないでほしかった。


「……それで?」

「え?」

「夢の私、どういう死に方をしたの?」


 信じていないと明言する割に、内容が気になるようだ。

 まあ、自分の死に関することなのだから、別に不思議ではないけれど。


 僕は夢の概要を説明した。

 誘拐された時の夢であること。

 途中までは記憶の通りだったが、本来なら逃げるはずの男が、師匠を斬り伏せてしまったこと。

 それから……。


「あ、いま気づいたんですが。あの男は師匠相手に、明確に対応していました」


 今朝の夢で最も印象的だったのは、あの神速の攻防だ。

 そもそも師匠を相手に打ち合うこと自体が難しい。よほどの手練れでない限り、初撃を受けることすらままならないし、同等の実力がなければそこから先の攻防に発展するはずがない。

 ならば、あのならず者は師匠に匹敵する達人だということになる。


「……なるほど」


 小さく頷いて、師匠は静かに箸を置いた。茶碗の中は麦の一粒も残っていない。


「まあ、実戦を経験した影響でしょうね」


 それが師匠の結論。


「多勢に無勢だったとはいえ、ギーリッヒ商会の刺客たちは私に抗し得る実力があった。あなたにとって、久しぶりに見る私を苦戦させた敵ということになるわ。そのことが、私を相手にして生き残った、あのならず者と重なったんでしょう」

「なるほど。じゃあ、師匠が殺されたのも……」

「誘拐された恐怖と、実戦の死の恐怖が重なったからじゃないかしら」


 冷静に分析されると納得してしまう。

 確かに、あの夜の出来事は泰平の世ではなかなか経験できないものだった。

 本当の命の遣り取り。華やかな絵物語とはまるで違う、鉄と死の匂いしかしない戦場。一歩間違えれば命はなかった。思い出すだけで身震いする。


「と言っても、あの時、僕は何もできなかったですけどね」


 僕がしたことと言えば、降りかかる火の粉を払っただけだ。

 それも初撃を受け止めただけ。

 二撃目が来る前に、刺客は師匠が倒してしまった。


「誰かを斬らなければ実戦ではない、というわけではないわ。殺気を向けられる。刃物の切っ先を突き付けられる。生死を賭けた戦場にいたというだけで十分、実戦経験と呼べるわ」

「そんなもんですかね」

「そんなものよ。実際、あれ以来、あなたの体の遣い方は格段に向上したわ。一日の実戦は百日の稽古に相当する。あなたは、私が教えてきた弟子の中ではあんまり素養がないほうだったけど、やはり化けるものね。これだから男の子は面白いわ」


 師匠の顔に静かな笑みが浮かぶ。

 自分を過大評価するつもりもないが、そこまではっきり才能がないと言われると堪えるなぁ……あ、でも。


「じゃあ、師匠が教えてきた弟子たちの中で、こいつは見どころあるなぁって人、これまでにいたんですか?」

「ええ、いたわよ。一人。びっくりするほど天才的な閃きを持った子がね」


 懐かしい記憶を思い返したのか、師匠の表情が少しだけ温かみを帯びる。


「あまり斬り合いには向かない子だったのだけどね。どういうわけか、太刀を操る感性は人並外れていた。真綿が水を吸うように、あっという間にハイデンローザの術理を吸収していったわ。その子は、あなたが六年かけて養った技術も一年足らずで到達したのよ。あまりに輝かしい原石だったものだから、嬉しくなってどんどん技を叩き込んだっけ」

「はあ、そんなすごい人が」


 正直、びっくりだ。

 僕が身に着けるのに六年もかかった基礎を、たった一年で物にするなんて。

 この師匠をして天才と言わしめる原石……一度、会ってみたいものだ。


 ……あれ?


「そんなすごい人が、どうして今はいないんですか? 道場の後継者候補だったわけでしょ?」


 それだけ才能に溢れた人間が、流行り廃りでなんちゃって道場に鞍替えするとは思えない。というか、もし苦行が嫌だったら一年だって続かない。

 けれど、僕が入門して六年。

 後にも先にも僕以外の門下生はいなかった。


「もしかして、すでに免許皆伝して独立したとか?」

「ううん」


 わずかに首を振って、師匠は脇に置かれた急須を手に取った。

 湯飲みに注がれた花草茶の爽やかな香りが湯気とともに食卓に広がる。


「破門したのよ。私が」


 暖かな湯気の向こうから届いた言葉は、とても冷たかった。

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