第19話

「破門……したんですか……?」


 ええ、と小さく頷いて、師匠は茶を口にした。


「その……どうして、ですか? 天才だったんでしょう?」

「その子がハイデンローザの剣を悪用したからよ。道場破りが来た時、私が言ったことを覚えているかしら」


 僕は頷いた。

 どんなに綺麗事を言っても、剣術は人を殺める力。だからこそ、それを修めた者は何よりもその力を律しないといけない。

 あの時、師匠はそう説いたはずだ。


「ハイデンローザという名前は、私の師から頂いたものなの。この名に込められた意味は様々あるけど、一番は剣術とは『そういうものであってほしい』という願いなのよ」


 ハイデンローザ。野薔薇を意味する古の言葉。


 薔薇には棘がある。不用意に触れれば肌を刺し、血を流す。

 だが、一歩下がって眺めるだけなら、静かな美しさを示すだけ。


 いたずらに誰かを殺める牙ではなく。ただ、その身を守る棘さえあればいい。

 剣術とは、そんなものであってほしいという願いだ。


「ハイデンローザの術理は身体運用にある。肉体の動きを極限まで最適化し、最小効率で最大効果を上げる『速さ』の剣。老若男女も、血の貴賤も関係ない。正しく修練すれば誰でも手に入れることができる。言い方を変えれば、才能を持たないが故に弱く在った者のための剣なのよ。

 ……だからこそ、ハイデンローザの剣術は正しい行いのためにしか遣ってはならない。弱者が強者に踏みにじられるのを良しとしない、弱者のための剣だから」


 僕は頷いた。

 商家の息子に過ぎない自分が、戦うための才能を持たない自分が、ここまで強くなれたのは地道な修練の賜物だ。

 僕の成長が、そのまま術理の正しさの証明になる。


「けれど、あの子は野薔薇の棘を牙に変えた。技の成長とは裏腹に、あの子にはハイデンローザ流の剣士としての心構えが養われていなかった。私の剣を、己の利益のために使ってしまったの」


 誰かを守るためではない。

 斬らねば、自分の命が脅かされるような状況ではない。

 師匠の愛弟子は、ただ己が為に剣を振るった。


 だから、破門したのだと師匠は言った。


「全てはそのことに気づけなかった私の責任よ。前にも言ったけど、私は弟子個人の内情に深く追求しなかったから。でも、どんな理由があろうと、私の剣を悪用した事実は消えない。許されないし、許しちゃいけないの。

 私はその子以外の弟子にも暇を出したわ。怖かったのね。今のままの私では第二、第三のその子を生み出してしまうんじゃないかって。道場そのものも閉めようと思った。まあ、そこであなたがやって来たわけだけどね」

「そんな状況で、どうして僕を受け入れたんです?」

「……それは内緒」


 えぇ……。

 そこまで言っておいて……。


 でも、これまでの師匠の不可解な言動が、少しだけ理解できた。

 道場破りの一件の時、師匠は「私はそんなに徳の高い人間じゃない」と呟いた。

 それは、正しく弟子を導けなかった負い目からだったのか。

 僕に対するあの過剰な触れ合いも、僕が技を授けるに値する人間かどうかを見誤らないためのものだ。


 全然そんな風に見えなかったけれど。師匠は不安でいっぱいだったんだろう。

 きっと、今も自分を責め続けている。


「でも、私はまだその責任を完全に果たしていない」


 え、と僕は間の抜けた相槌を打つ。


「破門して終わりじゃないの。これ以上悪用できないように、私はあの子に教えた技術を返してもらわないといけない」

「返してもらうって、どうやって……」

「殺すのよ」


 それは、吹きすさぶ木枯らしにも似た、冷たい響きだった。


「一度与えたものを返してもらう方法は、それしかないわ」

「そ、そこまでする必要があるんですか?」

「あるの。それが師としての責任。あの子がそういう人間だと見抜けずに、人殺しの技を授けてしまった私の責任なの。それを果たすまで、私は、剣を捨てることができない」


 ……そうか。

 教え子全てを遠ざけて。それでもなお道場が残っているのは……剣を捨てていないのは、責任を果たしていないから。

 師匠が愛弟子をまだ手にかけていないからだったのか。


 僕は胸が苦しくなった。

 どうして、師匠がそこまでしなくてはいけないんだろう。

 悪いのは、道を誤ったその弟子だというのに。


 撃剣が不要になった幸福な時代だと喜んでいた師匠が。

 人と人とが殺し合う時代の悲惨さを語る師匠が。

 この泰平の世において最後に殺めるのが、自分が育てた愛弟子だなんて――


「……お願いだから、あなたはそうはならないでね」


 その呟きは星に祈るように。


 会ったことはないけれど。

 僕は師匠にそんなことを言わせる、その兄弟子を許せそうになかった。


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