第20話
きゅっきゅと鳴る板張りの床。
冬の道場の空気は寒々としているが、僕の体は湯気が出るほど熱かった。
かん、と一際甲高い音が響く。
「受け流すのが遅いわ。それじゃ姿勢を整えるのに時間が掛かる。もっと先を読みなさい、先を」
「はい!」
地稽古の時の師匠は相変わらず容赦がない。
神速の太刀は縦横無尽に襲ってくるし、防御に気を取られ過ぎると、懐に入られて蹴りや投げの餌食になる。
とはいえ、これでも手加減してくれているんだと最近わかった。
刺客たちと戦っていた時の師匠は、こんなものではないからだ。
本当に目に見えない速度で動くんだぞ、この人。
「――こンのぉ!」
師匠の攻めを強引に払い、なんとか一太刀だけ返す。
無論、師匠がやすやすと打ち込ませてくれるわけではない。けれど、一方的に蹂躙されていたころに比べれば、反撃ができるというだけで成長だ。
よし。明らかに以前よりも粘れている。
師匠も言っていたけど、実戦を経験したのは大きいと自分でも思う。
具体的に言えば、木刀が恐くなくなった。
木刀も当たればものすごく痛いし、威力によっては骨も折れるし、打ち所が悪ければ命も落とす。
でも、真剣ほどの怖さはない。
その恐怖感の払拭が、僕の動きをのびやかしているのだろう。
なるほど。人間は化けるものだ。
しばし打ち合って、僕は師匠からざっと距離を取る。
師匠の追撃はなかった。
構えを正眼に直して、僕の出方を待っている。
打たせてやろう、というわけか。
ようし。
せっかくだから、一つ試してみよう。
間境になるまで、じりじりと距離を詰める。
あと三歩。あと二歩。あと一歩――
「うおおおお!」
腹の底から声を出しつつ、僕は切っ先を三寸ほど浮かせつつ半歩踏み出した。
ぴくり、と師匠の左肘があがる。
今だ、渾身の唐竹――と見せかけての、左薙ぎ!
師匠の肘が上がったということは、唐竹を警戒したということ。
胴の守りが手薄になる。
一歩のところを半歩にしたのは、唐竹の打ち合いになった場合、師匠の方が先に当てることができるからだ。
この半歩で師匠の唐竹を躱し、体勢を前のめりに崩しつつ逆胴を狙う!
――が!
「さすがに単純すぎるわよ」
あっさりと防がれ、返り討ちを喰らった。
さすが師匠。奇襲なんて通じなかったか……。
そのまま僕は無様に床に転がった。
◆◇◆◇◆
「さっき、どうして逆胴を狙ったの?」
稽古の間の小休止、師匠が尋ねて来た。
胡坐をかいて手拭いで汗を拭いていた僕は、言葉に詰まる。
どうしてもなにも……隙があったから、としか。
もちろん、針の孔ほど小さいものだったけど。
「これだって理由があるわけじゃないんですけど、こっちから攻めるところがそこしかなかったというか……」
「逆胴は邪道だって知っているわよね」
「ええ、まあ」
古流剣術において、逆胴――左薙ぎや左切り上げといった攻撃は褒められない。
何故なら、鎧の有無にかかわらず胴体の左側には鞘があるからだ。
たとえ、いい感じに一撃が入ったとしても、刃は鞘に阻まれて深手を負わせることは難しい。よって、右側面を狙う攻撃はあまり有効とは判断されないのである。
まして、ハイデンローザの『速さ』の剣。
その速度は筋力でも体格でもなく、徹底された動作の効率化によって実現する。
なので、技の威力に関しては太刀そのものの威力のみに頼っているのが実状だ。
おまけに、ハイデンローザには鎧の上から相手を打ち崩すような技がない。
喉とか、脇とか、内股、足の甲……防具による守りが薄い個所を攻め、出血による戦闘不能を狙うのが基本である。
もちろん、実戦では型どおりの戦闘なんてありえないので、左薙ぎも一応基礎動作に含まれているのだが……。
けど、ちょっと意外だ。
確かにさっきの攻めは邪道だろう。でも、さっきのは木刀試合だし、鞘もなければ防具もない。言い訳かもしれないが、言い訳の余地もない、死んだら負けという実戦本位の師匠が、今更そこを突っ込んでくるなんて。
「別に責めているわけじゃないわ。左薙ぎは基礎動作の中に含まれているし、膠着した状況を崩す、つまり相手の虚を突くために使われることもあるから。
……ところで、ちょっとこれどう思う?」
そう言って、師匠はいきなり道着の胸元はだけた。
僕は反射的に立ち上がった。
もちろん、しっかりと瞳に焼き付けるために。
黒だ。寝起きの予想が的中。
白い肌と相まって、なんとも艶めかしい。やっぱり、師匠には黒が似合う。ああ、生まれ変わったら師匠の下着になりた――
「隙あり」
ずびし、と音を立てて手刀が頭蓋に叩き込まれた。
「痛てぇ!」
僕は頭を押さえながら尻餅をついた。
ひどいです、師匠。
「虚を突くとはこういうことよ。さっきの左薙ぎは悪くなかったけど、練度が足りてない。あんなお粗末じゃ読まれ当然。そして、邪道は成功しなければ、度し難い隙を生む。そこから戦況を立て直すのは不可能。はっきり言って、奇襲なんてあなたにはまだまだ早いわ」
「……はい。肝に銘じます」
お怒りの理由は左薙ぎを使ったことじゃなくて、その練度が足りなかったことか。
そりゃそうだ。
ハイデンローザの術理が実戦本位だというのなら、おおよそ最も使われない技がそれであり、僕が一番練習していないのもそれなのだから。
でも、師匠の下着が見られたから後悔はないぞ。
え? 下着なんてお前が洗っているんだし、下着よりももっとすごいものも見たことあるじゃないかって?
馬鹿を言え。干してある下着と、身に着けている下着じゃ木刀と真剣くらい価値が違うんだよ。
「……まあ、あなたが狙ってみようと決意するだけの隙があったのは事実だろうから、それは私の慢心ね。反省するわ」
師匠は道着を整えながら、溜め息を吐く。
「……え、わざとじゃないんですか?」
「言い訳はしたくないけれど、実戦ではだいたい具足を身に着けているから、逆胴を狙われたことはあまりないのよね。私個人の経験として最も脆い場所でもあることには違いない。だから、あなたはそれを見抜いたことになるわ」
ふ、と師匠は静かに笑った。
「あなたが私が斬られる夢を見たのは案外、いつか私を超え得る可能性を持っているからかもしれないわね」
「まっさかぁ。僕には際立った才能はないって言ってたじゃないですか」
「うん。それも否定しない。でもね、強さっていうのは才能だけで決まるものじゃないから。それを否定するために、私は道場を立てたのだから」
弱い者が奪われなくていいように。
才能無き者が才能有る者と同じ土俵に立てるように。
だからこそ、師匠は後悔しているのだろう。
初心を忘れ、才能有る者に技を授けてしまった挙句、裏切られた。
努力する凡人と、怠惰な天才。どちらが強いかなんて明白だ。
でも、天才が努力してしまえば、凡人の手には負えなくなる。
そして、努力した天才が――必ずしも善を成すわけではない。
誰も止めることができない怪物となってしまう。
そういったものを生み出してしまった負い目が、師匠にはある。
そのことを知ってから、時折見せる儚さに、抱きしめたい衝動を抱く。
あなたは悪くないと伝えたい時もある。
でも、僕は師匠にとってただの弟子に過ぎない。
小さいころから面倒を見ている、親戚の子供くらいの存在だ。
だから、僕にできることは、師匠の教えを正しく全うすることだけだ。
◆◇◆◇◆
午後から、師匠は外に出た。
例によって、僕は居残りで道場の清掃だ。
師匠は太刀を都合してくるらしい。
せっかく僕が真剣を使えるようになったのに、肝心の師匠が真剣を持っていないのでは稽古にならないからだ。
それに、折れた古銭刀の小太刀への打ち直しも完了した頃合いだという。
冬場の稽古とはいえ汗は出る。
そのほとんどは僕が流したものだ。師匠は夏場以外で汗を流すことはない。
まだまだだな、と思う。
雑巾を洗って絞る。それだけで手が真っ赤になる。
冬の掃除は楽じゃない。
はーっと自分の手に息を当てて温めていると、正門の方で人の気配がした。
……まさか、ギーリッヒ商会ではあるまいな。
僕は念のために木刀を携えて正門へ向かった。
「お、留守かと思いきや。人がいたか」
来訪者は、師匠と同年代くらいの目の隈がひどい男だった。
思わず「ちゃんと寝てます?」と問い質したくなるほどに。
「師匠殿はいらっしゃるかな?」
「いま不在ですが……あの、どちら様で?」
尋ねると、男は人懐っこい笑みを浮かべた。
「僕はね、ここの門下生だったんだ。もうずっと前のことだけどね」
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