第21話

 腰に差していた太刀を預かって、僕は男を道場へ通した。


「ははあ。これはまた、ずいぶん寂れたね」


 道場を見渡しながら、隈の酷い男――レヴォルは言った。

 もともと道場という建物には余分な装飾はない。構造的に必要ない。

 なので、寂れたかどうかなど一見して判断できるはずもないのだが、在りし日の道場には見えない何かが染みついていたのだろう。


 僕からすれば、ここは通い始めた時からこうだった。寂れていない道場など想像できない。かつての活気を知る彼が少しだけ羨ましかった。


「お?」


 レヴォルは目ざとく、隅っこに置いていた雑巾の浸けている桶を発見する。


「掃除の途中だったのか。それは済まなかったね」

「あ、すぐに片付けますので」

「いや、掃除を邪魔したお詫びだ。僕も一緒に手伝おう」


 レヴォルの唐突な申し出に、僕は狼狽える。


「い、いえ、結構です。僕が任されたことですから……」

「遠慮することはないよ。僕も久しぶりに道場を雑巾がけしたいだけだからさ」


 レヴォルは爽やかに笑うと、袖をまくった。


 当たり前だが、二人でかかると僕一人の時より格段に早い。

 広い道場はあっという間に綺麗になった。


 掃除を手伝ってもらったのに何も出さないのも申し訳なかったので、僕は母屋で花草茶を淹れてきた。薪がもったいなかったが、客人に働かせて労いもないとなれば道場の沽券に関わるし、師匠もとやかくは言うまい。


「これはありがたい。いや、寒い日は温かい茶に限るね」


 顔をほころばせて、レヴォルは湯飲みを受け取った。

 湯気とともに華やかな香りが道場中に漂い始める。


「それにしても、懐かしいな。道場の真ん中のあたりに傷があるだろう。あれ、僕が付けたんだ。地稽古の時に木刀で思い切り床を叩いてしまってね、力み過ぎだと叱られたものだよ。僕の時代はまだ床も新しかったから、さすがの師匠もしょんぼりしてたっけ。悪いことしたなぁ」


 レヴォルはかつての記憶を嬉しそうに語る。その口ぶりに邪気はない。


「うん、美味い。君、お茶淹れるの上手だねぇ」


 茶を一口含むと、レヴォルは満面の笑みを浮かべた。

 飼い主に褒められた人懐っこい大型犬のような笑顔。そう思えば、目の下のひどい隈さえも愛嬌のように感じられた。


「これでも、師匠の身の回りのお世話を任されていますから」


 惜しみない賛辞に、ちょっと気分が良くなる。


「へえ。あの人が内弟子をねぇ。……で、君は何年目なんだい?」

「六年目です」

「ほう。今時の子にしては、結構長く続いているね。最近は剣術道場とは名ばかりの道場が増えたからなぁ。嘆かわしい限りだけど、それだけみんな〈大戦〉を忘れたいってことなのかもしれないね」


 大人たちが口々に語る〈大戦〉。

 僕がまだ小さいころの話で実感はあまりない。

 師匠と同じくらいの年齢の彼ならば、〈大戦〉が終わった意味の重さを感じることができるのだろうか。


「そんなご時世に、どうして剣を始めたんだい?」

「……師匠に憧れて、ですかね」


 僕の事情を初対面の人間に話してもしょうがない。要約して答える。


「やっぱり? 僕もそうなんだよ」


 レヴォルはずいと身を乗り出した。


「僕も若いころ、師匠に助けられたことがあってね。自分より小さいのに、めちゃくちゃ強い師匠に憧れた。当時の僕は気弱なもやしっ子だったから、自分を変えたかったんだよね」


 現在のレヴォルの肉体は逞しいの一言だ。筋骨隆々というわけではないが、必要なところに必要なだけの筋肉がついている。もやしっ子だった時の面影はない。


 ハイデンローザは効率を求める剣術だ。

 筋力もあるに越したことはないが、過ぎた筋肉は死重量となって動きの俊敏さを損なう。無駄がないという意味では、彼の体つきは師匠に酷似している。


「今でも鮮明に思い出すよ。あの神速の太刀筋。真っ直ぐな瞳。あれはなんて言うか……うん。そうだな。きっと、美しかったんだろう」


 ああ。この人も、そうなんだ。

 師匠の強さには人を惹き付ける何かがあるんだろうな。

 レヴォルの言葉には妙に共感できる部分がある。

 この人と一緒に稽古できれば、もっと楽しかっただろうに。


 だからこそ、気になる。

 どうして、この人は今道場にいないのかと。


「あの。どうして道場を辞めたんですか?」

「……あー、それはね」


 ことり、と湯飲みを置いた。


「情けないことにね、師匠の言いつけを破っちゃったんだよ、僕は」


 その言葉に、背筋が冷えた。

 まさかという放念と、もしやという懸念。


「本当は、僕に道場の敷居をまたぐ資格なんてないんだ。でも、どうしても師匠に会いたくてね。六年ぶりに顔を出したってわけさ」

「言いつけって……なんですか?」

「君も言われなかったかい? ハイデンローザの剣を悪いことに使うなってさ」


 懸念は確信に変わり、僕はすぐに距離を取った。


「あなたは……」


 ――師匠の言っていた、『その子』なのか。


「……どうやら僕のこと、聞いているみたいだね」


 レヴォルは悲しそうに……本当に悲しそうに目を伏せた。

 さっきまでの語らいを名残惜しむように。


 だが、それも一瞬のこと。柔和な笑みを浮かべ、ゆっくりと腰を上げた。


「縁は奇なるものか。びっくりしたよ。まさか、あの時の子供が道場に通っているだなんてね」

「……僕を知っているんですか?」

「ああ。覚えていないかい?」


 その時、僕の脳裏にあの時の情景が鮮明に蘇った。


 ――そうだ。

 この人は僕を誘拐した……そして、師匠が唯一取り逃がした、あの!


 僕は反射的に木刀を構え、腰を落とす。


「思い出したかな?」

「……ああ、おかげで色々わかったよ」


 師匠は、悪事を働いて破門した弟子がいたことを話しても、その詳細を語ることはなかった。


 なぜか。

 それは僕がここにいるきっかけ。そもそもの元凶だからだ。


 言うはずがない。言えるはずがない。

 あなたを誘拐したならず者を育てたのは私だ、なんて。


 ――ああ。ようやくわかった。

 ごめんなさいの意味も。あの涙の意味も。

 師匠の張り裂けそうな胸の内も。


「うん。いい構えだ。基礎がしっかり養われている。それに、このご時世に珍しく実戦経験もあるようだね。素質がなくとも愚直に修練を続ければ、それほどの力を持つ。君はハイデンローザの鑑みたいな剣士だね」


 レヴォルはあくまでにこやかに。

 それこそ、優しい兄弟子のような雰囲気を放ち続ける。


「何しにここへ来た!?」

「師匠と僕の因縁の清算のためだよ。君は関係ない」


 関係ないからといって、ここで引き下がるわけにはいかない。

 僕の胸を満たしているのは、かつてこの身が受けた屈辱による憎しみではなく。

 未だ師匠を苦しめていることへの怒りだけ。


 ハイデンローザは私闘を禁じる。

 でも、師匠……ごめんなさい。

 どうやら、僕は自分を抑えられそうにありません。


「おいおい。僕は丸腰だぜ?」

「……木刀を取れ。僕がお前を打ち負かす」

「落ち着きなよ。本当に君を巻き込むつもりはないんだ。君が邪魔なら、とっくに斬り捨てている。そりゃ、君には怖い思いをさせたさ。それは謝る。けどね、これは僕と師匠の問題だ」

「うるさい! お前のせいで師匠は――」


 独り悩み、苦しんで。

 道場だって畳みそうになって。

 それでも、師としての責任から逃げないで。


 おかげで温かいご飯すら、ろくに食べられないんだぞ……!


「……あの人が貧しい生活を送っているのは、この道場を見ればわかる。あの人は律儀で真面目だからね。自分には教える資格がないと感じて道場を閉めようとしたんだろう。

 でも、君が現れた。君を育てることは、あの人にとっては責任の一部に過ぎないかもしれないけど、それでもきっと救いになったはずだよ」

「元凶が、何を偉そうに!」

「ああ、そうだ。すべての発端の僕が言えることじゃない。――だから、清算しに来たんだよ」


 瞬間、僕の視界からレヴォルの姿が消えた。

 認識外の運足――縮地。瞬く間もなく僕の懐に入る。


 なんて奴だ。

 こいつ、師匠よりも速い。


「こうなっては仕方ない。君にも少し付き合ってもらうとしよう。当事者である君には、その資格があるだろうしね」


 首筋に手刀を叩き込まれ、僕の意識は闇に飲まれた。


 ……ああ。くそ。悔しいな。

 あれからちょっとくらい強くなったと思ったのに。

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