第3話 身の上話と将棋
「美味い、この酒は飯に合うな。すっきりとしているが、辛すぎない。この味をまた確かめたくて、つい飲み過ぎてしまいそうだ」
何杯めかわからない酒を一気に飲み干して、そう言うクロード。
祖父の相手を何度もしていたというのは、伊達ではないのだろう。かなりの量を口にしつつも、しっかりと味わっていた。
「亀蔵殿が好みそうだな、さすが省吾さん」
「まあ酒に関して、じいちゃんとの付き合いの長さは、伊達じゃないだろうから」
三杯目のご飯を要求され、空っぽの炊飯器を見せたのち、大人しく酒をあおっているうクロード。本当に、遠慮というものを知らない男だ。
クロードは杯を置くことなく、月を見上げて喋り出した。
「俺の住む世界の空にも、月があるんだ。それは美しい青の月で……俺はいつもその月に焦がれていた」
「青い、月?」
酔いが回っていたせいか、彼が続ける絵空事に、つきあって聞く。というか、否定するのも面倒になっていたというのが本音だけれど。
「海があって白い雲が流れているのが見えて、太陽の光を浴びると淡い青の大気をまとっているのが見える。まるで夜空に宝石が浮かんでいるかのようで……」
「へえ……まるで地球みたいね」
「そうだな、地球だ」
驚いて彼を見上げる私に、にやりと悪い笑みを返された。
「一昔前の、安っぽいSF映画みたいね」
「映画なら苦労はしない、俺にはそれが現実だから」
「じゃあ、あなたかぐや姫なの?」
とんだサイズのお姫様もいたものだ、思わず笑いながらそう聞けば、クロードもまた月を見上げて苦笑する。
「そうかもな、空にある青い月に帰りたくて、毎日めそめそ泣いていたからな」
えぇ……と私がドン引きしたのが分かったのか、彼はすぐさま反論する。
「ガキの頃のことだ、今はもう……諦めた」
「諦めたって、地球に帰るのを? なあにそれ。ちゃんと帰ってきてるじゃないの、かぐや姫さん」
「かぐや姫はもう忘れろって。俺は元々、こっちの人間だったんだ。日本人で、あの時はまだ小学生だった。ある日、気がついたら砂漠のような荒野にいたんだ。どうしてなのかは分からない。放り出された場所には、人家はおろか草木さえろくに生えていない、腐臭漂う地獄のような土地だったんだ」
「腐臭……?」
「槍や矢を受けたような傷ついた遺体が、ゴロゴロしていた……しかもどれも腐ってて。体液だか何だかわからない水溜まりや虫がわいて……とにかく最悪の状況だった」
クロードの現実味のない話を、私はただ聞くしかなかった。
なぜかと問われたら、はっきり答えられないけれど……たぶん、彼の表情はまるで今その景色を目の前にしているかのように、深く傷ついて見えたから。
だから、彼の話す過去が真実かどうかは、しばらく脇に置いておくことにした。
「どうしたらいいのか分からないまま、時間ばかりが過ぎて、でも否応なしに現実なんだと思い知らされた。すぐに乾きに襲われ、何時間、何日も助けは来ない。帰る術も分からない。そうしているうちに真の飢えがくる。最初は転がる死体から、携帯の非常食らしき干し肉をあさってしのいでいた。水の入った水筒のような木筒もあったが、暑さで中身ほとんど腐っていて……しかしそれを飲む以外に、生き残るための選択肢がなかった。当然吐いて腹を下すし、すぐに倒れることになったが」
「あー……まあ、そうだろうね。日本人の子供に、準備のない状態でのサバイバルは無理よ」
私の言葉に小さくため息をついてから、クロードは頷く。
「どれくらい倒れていたのか分からないが、自分はもう死ぬんだと悟った。地獄に来てまで苦しんで死ぬなんて、俺が何をしたっていうのか、どうしてなんだとそればかり思って。辛くて、ただ悔しくて泣いたんだ。出ていたのかも怪しいほど、か細い声をあげてな。そうしたら人が……生きた人間がそばに来て、俺を見つけてくれた」
「地獄に仏ってやつね」
これがもう何杯目になるか忘れたけれど、杯をあおってそう言えば、クロードはクスリと笑った。
「亀蔵殿も、同じことを言った」
「……そりゃ孫だもの、物言いは伝染する」
私は瓶を手にしたクロードに杯を向けて、最後の一滴までつがせた。
「それで、少年クロードは助かったってわけね、めでたしめでたし」
「弱って歩くことすらできない俺を、抱えて持ち帰ってくれたのが、後の養父だ。違う世界から迷いこんだ俺は、当然だが言葉が通じなかった。幼児のように何も出来なくて、しかも何日も飢えてすっかり弱ってる。だがそれでも死ななかったのは、十歳まで日本で不自由なく育ったおかげだ。身体の出来が良かったらしい。まあ、厳密に言うとそれだけではないらしいが。とにかく、あちらの世界は度重なる戦で民も土地も疲弊していて、食料もろくなものがなく、子供は長生きできない。運良く生き延びた者、裕福な家の者、略奪を覚えた者、そんな連中がかろうじて大人になれる」
「……大変ね。まともな人間なんていないと同じじゃないの」
「ああ、屑ばかりだ、それはまだ今も変わらない。残念だが」
クロードは押し入れの方をちらりと見てから、大きくため息をつく。
「まあ、そういう世の中の事情もあり、養い親も思惑があって俺を育てることにしたそうだ、いずれ戦場で功績を上げる、手足となるように。助かってからは、鍛練ばかりの日々だった。だが俺にとっても都合がいい。食うのにだけは困らないし、いつもくたくたで考えることから逃げられたからな」
「……なんだか、嫌な話ね。その養父があなたを拾ったのは、善意ではなかったってことでしょう?」
「亀蔵殿も、同じように顔をしかめて、憤っていた」
私は指摘され、自然に寄ってしまっていた眉間から、力を抜く。
「それであんたは、あんな鎧着て傷を負っているくらいだから、その年になってもまだ養父の言う通りの道で、生きてるってことよね」
「鬱憤はたまるが、他に道があるとも思えない」
他人の言いなりで、人生を費やしてきた。私も同じように……いえ、もっと少ない年数の仕事で不満を抱き、嫌になってしまった……だけどクロードのそれは壮絶すぎる。あんなに傷まで負って、彼はそれを良しとしているのだろうか。
「いいなりかどうか、当時は子供だった俺に考える余裕はなかった。そして気づいたら、止められなくなっていた」
「なんでよ、あんたの人生でしょう、理不尽だと思わないの?」
彼の話なんてろくに信じてないくせに、熱くなっている自分に驚く。
「決して好きにはなれないと思った戦いが、数年で生きる力にはなっていた。勝てば少なくとも、年単位でその地方には平和が保たれる。だから感謝されたしな。亀蔵殿は、それを生き甲斐と呼ぶのだと教えてくれた。しばらくここを離れていたからな、日本語はほとんど亀蔵殿に習い直したんだ」
「じいちゃんが……」
「いくぶん、自然になった。たまにまだ間違えるようだが」
祖父と会ったのは五年前とか言っていたっけ。そういえば、私が就職したのも同じ頃……ここに頻繁には来れなくなったのと重なる。
彼、クロードは、私が会えない祖父との隙間を、埋めていてくれたのかな。
「なあ、キヨ? おまえ将棋できるんだろう、相手をしてくれ」
クロードは私の返事も聞かず、将棋盤の方へ向かう。
「ちょっと、ほんと図々しいわね」
「いいだろ、少しだけだ」
私の前に将棋盤を置いて、せっせと茶碗を片付け始める。大きな図体をしているせいで、せいいっぱい丸めて低い鴨居をくぐってる。
流しで茶碗を洗い終えてから戻ってきたクロードと、私は結局将棋を指すことにした。
今日は本当に流されている。
縁側で向かい合うクロードは、駒の入った箱を盤上にひっくり返しながら私に問う。
「キヨは、どうしてここに来たんだ? 二週間というのは、そうそう得られる休みではないだろうに」
「……なんであんたにそれを説明しなくちゃいけないのよ」
憮然としながらそう答えれば、クロードは納得したように頷き、ずばり聞かれたくないことを突いてくる。
「仕事を、辞めたのか?」
「……なんでそう思うのよ。有給よ、知ってる? 有給っていうのはね……」
「それくらい知っている。キヨ、俺の本当の両親は、日本人で共稼ぎだった。留守番には慣れていたし、両親の仕事についても、人一倍敏感だった」
「なら分かるでしょう……貯まったら消化しろって言われるのよ、最近では」
「どうして辞めた?」
「だから辞めてないって言ってるのに」
そう言い募るほど、彼は私の嘘を疑っているようだった。
「好きなことを仕事にしたのではなかったのか、俺とは違って」
真剣な眼差しで、彼の言葉が私を刺す。
「もう、しつこいって言われるでしょうあなた……そうよ、辞表を出したわ。でもまだ辞めてないのは本当よ? 有給が終わったら辞表を受理してもらう約束になってるの」
「二週間の有給が終わったら辞める?」
「そう、猶予期間みたいなものよ」
「ユウヨ……? その言葉は知らない」
そこでまだ異界設定を忘れず入れるのか、この男は!
「死刑を執行される前の囚人みたいな状況ね」
「ほう、そういうことか。で、キヨは罪を犯したのか? そうではないだろう?」
「いやそうだけど! ものの例えってやつで……ああ、例えが悪かったわ」
真剣な話をしてたような気がするのに、なんだか毒気を削がれてしまった。
山になったままの駒から、一つずつ駒を手前に並べ始める私をじっと見つめたまま、クロードは動こうとしない。
結局折れたのは私。ため息を一つつき、話すつもりもなかった事を口にする。
「デザインの仕事は楽しいわ。でもうちの会社はそれほど大きくないからそれだけの仕事に専従することはできないの。クレームの処理だって自分でやることも多いし、社内の派閥とかでやりたい仕事を取れないこともある。それでも社のためになるならと、ダメもとで提出したプレゼン資料を、そっくりそのまま盗られてた。信じていた先輩に……そういう人間関係にもう限界を感じたの。人に合わせて適度にやり過ごせる性格なら、割りきって続けられたのかもしれない。だけど私は向かなかったのね……ストレスがたたって倒れたわ。それも非常に不味い状況で。かばってくれていた上司にまで、迷惑をかけた……」
一気に溜めていたものを吐き出した。
責任から逃れたい。重荷を下ろしたい。先のことが考えられなくなった。色々あるけれど、どれも無様な理由だ。きっと祖父が聞いたら、呆れるに違いない。
「なあ、ところでなにやってんだ、それ?」
駒を並べている私の手元をのぞきこみ、クロードが首をひねりながら聞いてきた。
「なにって、将棋。対戦するんじゃなかったの?」
「もちろん」
「駒落ちしてあげてもいいわよ、これでもじいちゃん仕込みだから」
「なんだその駒落ちって?」
「……知らないの? ハンデつけてあげるって言っているの」
「ハンデ?」
「つまり実力の差をなくすよう、少ない駒から始めてもいいわよって言ってあげてるの」
「ハンデの意味くらい知っている。だがそんな心配はいらない」
「ずいぶん自信満々ね、後悔しても知らないから」
「亀蔵殿とはいつだって、対等に勝負した。心配はいらない」
本当に? 疑わしく思っている私があっけにとられている間に、クロードは再び駒を大きな手で集めて、盤上で山にする。
「いやまって、あなたこそ何をしているのよ」
「勝負だろう、将棋崩し。知らないのか?」
「はあ? 知ってるけど、まさか勝負っていうのがコレとは思わないわよ……普通」
祖父から教わったんだと胸を張るクロードに、何からツッコミをいれればいいのやら。
がっくりと項垂れつつ、せかされてジャンケンのグーを出したらあっさり負けて後攻だそうだ。
子供のように盤に顔を近づけ、太い指で慎重に駒を抜き取るクロード。
はあ、とため息をついて、結局将棋崩しにつきあうことにした。
小学生か。って、十歳で日本を離れた設定ならそんなものかしら?
とはいえ、私もどれだけお人好しなのかと自嘲する。
五番勝負をして、私が四敗してクロードがガッツポーズ。そして自分は幸運に恵まれているのだと、自慢された。周囲を幸運に巻き込んで、正しい道にに導く力がある。だからあちらの人間に、必要とされているのだと。
はいはい、そう言って私は彼をあしらった。
すっかり夜も更けて、気づけば日付が変わりそうな時間。
「ところであんたいつまでいるつもりよ、私はもう疲れたし、お酒のせいで眠くてしかたがないの。寝落ちする前にお風呂入っておきたいんだけど」
「おお、入ってくるといい」
いや、入ってくるといいじゃなくてね。
「そろそろ月が落ちる。今回は短いだろうと思っていたが、ちょうどいい頃合いだ」
あら、帰る気になったんだ?
すっかり図々しい彼のペースに慣れていたけれど、初対面の客が深夜まで居座るのはさすがにない。それが常識というものだ。
「じいちゃんのために来てくれてありがとう、一応お礼を言っておくわ」
「ああ、馳走になった」
「鍵は気にしないで、田舎だから」
「ああ、知ってる」
そう笑うクロードがいやに神妙な気もしたけれど、まあいいや、と思い直して風呂へ向かった。
初めて会ったばかりの大男に、警戒していないわけじゃないけれど、ずいぶん飲んで緊張感が緩んでいた。けれどそれももうおしまい。じいちゃんの縁が引き合わせてくれただけで、もう二度と会うことはないだろう。
小さな風呂釜に湯をはって入浴を終える頃には、私はすっかり眠気に勝てなくなっていた。
戻ってきて目に入った布団に、吸い寄せられるようにしてダイブする。
誰がひいてくれたのか……祖父だろうか。
そういえばいつも、気づいたら世話を焼いてくれている人だったな。
「じいちゃん、ありがとう」
重たくなる瞼。
ほんのりと入る夜の風が、頬に気持ちいい。
小さな頃のことを、思い出して夢を見た。布団に入って寝付くまで、頭を撫でてくれた祖父だ。
大きな手が不器用にそっと触れる仕草が、おまえは大切なんだと雄弁に語っていて、私は大好きだった。
ずっと、この夢を見ていたい。そう思いながら、私の意識は深く沈んでいった。
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