第19話 雪合戦と氷上のひととき
「良かったわぁ、間に合って」
助手席から日菜姉が振り返り、私たちに笑顔を見せた。
車は曲がりくねった山道をひたすら上り、二つ峠を越えた先の、湖畔ロッジに向かう。辺りはとうに薄暗くなっていて、道路端に除雪され積み上げられた雪は、ちょっとした壁のよう。とてもこの季節に、自分では運転して来ようとは思えない場所だ。
家から二十分ほどで、目的の湖まで到着する。まだ昼の客も残っているのか、ロッジ周辺には人影がちらほら見えた。
辺りは一面の雪で、どこまでが地面で、どこからが凍った湖なのか分かりにくい。そんな中、私たちは車を降りて、松川さんの経営しているワカサギ専用の釣り小屋を目指した。
「俺の後について来て。道を外れて足を滑らせると危ない所もあるからね」
慣れない私を気遣って、先頭を浩介さんが行く。その後ろを私とクロード、そして最後に日菜姉がついてくる。
日菜姉は大人しくついて来たクロードが、気になって仕方がないようだった。
「服もちょうどサイズが合ったみたいで良かったわね」
「このコートは軽くて温かい、すごいな」
人懐こい日菜姉に、クロードもまた愛想よく答える。
「ナイロン地のダウンだから、こういう雪の中は特に重宝するのよ。見た目の良し悪しでは、先月あなたが来ていたコートには負けるけどね」
日菜姉はそう言って笑ってから、前方を指さした。
「あれが松川さんのワカサギ小屋ね、思っていたより大きい」
日菜姉に促されて見ると、岸から湖に向かって作られた桟橋のような杭の先に、白くプレハブのような壁で覆った、小屋がある。場所は完全に湖の上。
そこに近づくと、中から一人の中年男性が現れた。彼がどうやら松川さんのようで、私たちが日菜姉とともに挨拶すると、くしゃりと皺を寄せ愛嬌のある笑顔を見せた。
「よく来てくれましたね、今晩はぜひ楽しんでいってください。そしてできたら、感想を聞かせてくれないかな、どんなものでもいい。良かったところ、悪かったところ、全部参考にさせてもらうから」
そう言って、私たちを中に招き入れてくれる。
小屋の中は床はなく、建物は壁と屋根で構成されている。氷上に穴を空ける場所と、座るための長い板が通されていて、既に何人かが釣りを楽しんでいた。
「それで本当は浩介くんたちには、こっちを使ってもらうつもりだったんだ。カップル客にはちょうどいいかと思って」
そう言って松川さんが見せてくれたのは、小さなテントだった。およそ二人くらいが入れる簡易テントで、中に椅子を置いて、暖を取るための小さなストーブまである。
大きな小屋でもどちらでも使ってかまわないと言われ、私とクロードは小さなテントの方を選んだ。
そうしてから日菜姉と浩介さんは、温かい湖畔のロッジの方へ戻っていった。
「ねえ、釣りってしたことある?」
「まあ、ガキの頃に少しは」
「最近は?」
「ない。海どころか川もろくにない場所に住んでいたからな」
クロードは既に開けられてあった二つの穴の近い方に、さっそく餌をつけた針を沈めている。大きな手で小さく細い竿を持ち、じっと氷すれすれまで持ち上がった水面を眺めている。
私も同じように、釣り糸を垂らしながら、珍しく無口なクロードの様子を伺う。
「強引だったから怒ってるの?」
「まさか。キヨのそれは、もう慣れた。車も久しぶりに乗れて嬉しかったし。ただ……」
「ただ、なに?」
「計器が昔見てたのと違って進化してて、目が離せなかった。あれはいい、すごく」
「……はい?」
「俺もさ、一応車とか電車とか、それなりに熱中した子供だったから」
「ああ……男の子ってやたら機械とか好きよね」
「そうそう、それ。観察するのが精いっぱいで、どこの道を通って来たのかも覚えてない」
ここに来るまで、珍しく寡黙だなと思ってたら、そんな理由だったとは。可笑しくて笑っていると、私の方の糸が動いた。
慌てて引き上げると、五つあった針のうち、二つにワカサギがかかっていた。慌てて糸を寄せようとしたら失敗して、クロードの方に行ってしまう。それを左手で掴み、私に渡してくれた。
「やった、今日の晩御飯ゲット」
「……そうなのか?」
クロードがワカサギのサイズをまじまじと、心配そうに見つめる。
「心配ならどんどん釣ってよ。まあ、松川さんがロッジでも食事を用意してくれてるみたいだけど、あくまでもご厚意だから、自分の食い扶持は確保しなきゃ」
「そうだな、よし釣るか」
なんだかやる気になったクロードだけど、実は彼が着替えているうちに、ちゃっかり作り置きしておいたハムと卵のサンドは、鞄に入れてきてある。
せっかくやる気になったみたいだから、もう少し黙っておくことに。そして私も再び針に餌をつけて、釣りを再開させた。
「ところでさ、その後どうなったの? 冬が終わるまでは危ないことしないって言ってたよね」
ワカサギの数もそこそこ揃ったところで、私は切り出した。
クロードは私の右隣にいる。見える右目がこちら側とはいえ、あの細い糸を咄嗟に掴んだ様子から、片目の生活にも慣れたようだ。でもだからこそ、また危ないこと無茶なことをしてやしないかと、そう考えてしまう自分もいて。しようのないことを心配する自分に、少し苛立つ。
「春から開戦するための準備を、少しずつ進めている。危ないことはしばらく無いように、警護も力を入れているし大丈夫だ」
まさかの、危険は消えたわけじゃない発言なのね。
「やっぱり、戦争までするの?」
「国の元首が相手だから、そういう事にならざるを得ない。他国の支援も取り付けたし、それに悪いことばかりでもないんだ」
クロードは、それは嬉しそうに目を細めながら言った。
「あの後すぐ、リコとフィリア……姫が、正式に結ばれた。後ろ盾も得て、これで姫はただ頼りない若い娘としてではなく、大人の女王として国を取り戻せる」
「……それって、独り身より結婚していた方がいいってこと?」
「ああ、それもある。だが二人が幸せなら、それが何よりだ」
本当に、そうなんだろうか。
リコがお姫様と思いを通じ合わせる機会があったように、クロードにとっても姫とは親しい間柄だったんじゃないの? お姫様のくれたハンカチを、私に触らせたくないほど大事にしてたくらいだし。
そう思ってクロードの表情をうかがっても、さっぱり彼の感情は読めない。
「なんだよ、その疑いの目は」
こちらはさっぱり彼の心が読めないのに、クロードにはなんとなく筒抜けなのは悔しい。
「だって、あなた損な役回りを引き受けるんでしょう? それはリコのためというより、お姫様のためなんじゃないの?」
クロードは驚いたような顔だ。やっぱり図星なんだと理解して、私は続けた。
「それくらい私でも分かるよ、本当に大事そうだったもの」
「……なにをだ?」
素っ頓狂な顔で聞き返してくるので、逆に私のほうが聞き返す。
「何をって?」
「だから、大事そうって、俺が? 何を?」
「ハンカチのことよ。お姫様からいただいたものとはいえ、人に触らせたくないほど大事って、特別。つまりそういうことでしょ?」
あああれか、とようやく理解した様子のクロード。
「まあ同情するわ、自分の気持ちを殺して友人と好きな人と、両方を立てなきゃならないわけだし」
「ちょ、ちょっと待て、キヨ」
急にクロードが慌てだした。そりゃあ、胸の内を私なんかに悟られて恥ずかしいのは分かるけど、だからといって私の口を手で抑える必要はないと思う。
「もうそれ以上は喋るなキヨ。勘弁してくれ、おまえはとんでもない誤解をしてる」
「
「俺は、姫のことは何とも思ってない、本当だ」
私は竿を置いて、クロードの大きな手をどかす。
「いいって、そんな焦らなくても。そもそも私に関係ないのに、詮索して悪かったわ。ナーバスな問題だものね」
「いや、だーかーら、キヨ、聞けって」
ついに情けない声を出すクロード。
「うん、聞いてた。だから心配しないで」
「あのな、ハンカチを洗わせたくなかったのは、姫のものだからじゃない。キヨが……キヨの涙を吸ったからだ」
へ……ええ?
私の目が点になっていると、クロードは眼帯をした方の顔を抑えて、大きなため息をもらした。
「キヨのもので、俺が持ち帰れるものはそれくらいしかないと思ったから、どうしても惜しくなって洗わせたくなかったんだ」
「……でも、涙なんてすぐ乾いて」
「それでもだ。目に見えなくとも、俺はそれを手元に置いていきたかったんだ。それがどういう意味か、分かるだろう?」
やけくそのように言いながらも、いよいよ正面から見下ろされ、私はどうしたらいいのか分からなくなって。
「変態?」
口から出るのは可愛くない言葉で。
でもクロードがらしくなく顔を赤らめて「悪いかよ」なんて言うから、さらにどうしたらいいのと困惑すれば。
ちょうどいいタイミングでお互いのお腹が鳴る。
「ハムサンドあるから、天ぷらと一緒に、食べようか」
「……ああ、そうだな」
せせこましく支度を始める私と、視線を外してやりすごすクロード。
って、中学生か。
セルフつっこみも虚しく、会話もないまま松川さんが用意しておいてくれた鍋とコンロで天ぷらを揚げた。それをハムたまごサンドと一緒に堪能する。
美味しくて、芯から温まる。お腹が満たされると、なぜか根拠もない余裕が出てくる。こう互いに意識しあってるのも、勘違いなんじゃないかという気がしてきて。
「あのさ、先月のお祭りでは邪魔が入ってできなかったから、雪合戦しよか。雪ならあるし」
「……また、唐突だな」
「嫌ならいいよ」
「いいぜ、やろう」
クロードは笑いながら、私を引っ張るようにしてテントを出た。
氷の上には、うっすらと今日積もった雪が残っている。きっと朝には、固い氷になるだろう。そんな雪を両手でかき集めて、雪玉を作る。
どうしてもクロードの方が大きいから、互いに相手が作ったものを投げる方式にすることに。
「じゃあ、始めるよー」
と言い終わらないうちに、私は投げつける。すると的が大きいだけあって、最初の玉が命中。しかも顔。
これ幸いにと、次々と投げつける。
けれどもクロードはすぐに復活し、私の作った雪玉を投げてくるけれど、その半分も私に届かない。どうやら私の作った雪玉ってば、力が足りずに投げられた拍子に崩れていってるみたい。
「あはは、恰好悪い!」
「ひでえ、キヨ。わざとか? 作戦かこれは」
あっという間に手持ちがなくなったクロードに、私はここぞとばかりに投げるのだけれど、彼がすばしっこいのか私がノーコンなのか、もうさっぱり当たらない。それならばと、クロードの方にろくな雪玉がないのをいいことに、私から接近して最後の雪玉を振りかぶる。するとクロードは負けじと足元の雪を両手ですくい、一気に私の頭に雪をどっさり振りかけてきたのだった。
「わっぷ!」
「これでどうだ」
さらに追加され、雪で視界不良、抵抗するほどに目や口に冷たい雪が入る。そうこうしているうちに私は、最後の雪玉をあさっての方に投げてしまい、勝負はうやむやのうちに終わった。
いやまあ、どうなったら勝ちなのかも決めてなかったけどね。息は切れるし雪だらけだしで、やり遂げた感だけはある。
先に雪を払い落としたクロードが、私の頭の雪を手で払ってくれた。
「早く落とさないと濡れるぞ」
「いいよ、自分でやるし……」
なんだか照れ臭くなり慌てて払っていると、その手を取られた。
見上げるとそこには、真剣な眼差しをしたクロードがいる。散々ふざけて笑いあい、子供のように息をきらせていたさっきまでとは、まるで別人のよう。
そんな風に私を見下ろすクロードから、私もまた目を反らすことができなかった。
「嫌なら、突き飛ばせ。それ以外はきかない」
クロードはそれだけ言うと、腕を掴んでいた手を離し、私の両頬を包む。
それと同時にクロードが下りてきて、ゆっくりと私の唇を塞いだ。
温かい唇が何度も触れるその間、私の手は一度たりとも彼を押し戻すことはなく、彼の服を掴んで離さなかった。
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