第14話 失ったものと絹のハンカチ

 町の祭りは、新年が明けた十五日に行われる。

 新しくやってきた年神様をもてなすために、氏子たちが迎えた神様の前で初めてご挨拶をする。新しい年神様を歓迎し、酒や米、神楽を奉納したのが祭りのはじまりだったそう。

 今ではこの十五日に合わせ、夜店も参道に並ぶようになり、小さな集落にこの日だけは大勢の人が集まるようになった。

 だが他所から来てくれる人が増えると、準備もそれなりに大変になる。ということで、祭りの前日から町の当番が交代で、作業に追われている。

 今日はもう祭り当日。私も新参者とはいえ、子供の頃からこの祭りを見に来ていることもあり流れを知っているので、朝から手伝いに駆り出されていた。

 とはいえ、お神酒を配る時の皿を洗って用意したり、本殿の掃除やら飾りつけの手伝いなど、本当に雑用くらいだけれど。


「じゃあ次の組が交代に来たし、私らは帰ろうかキヨちゃん。順調にお祭りを迎えられそうで良かったわ」

「そうですね、節子さん」


 町内会の同じ組である酒屋の節子さんに促され、神社を出たのはまだ朝の九時頃だった。祭りの本祭は午後で、一応新入居の祝詞もあるみたいだからそこに出たら、あとはもう翌日の片付けまで手伝いもない。


「そろそろお客さんが来る頃だし、うちの人を起こさないと」


 前夜祭だと意気込んで昨夜、集まりで飲んできた章吾さんは、二日酔いで寝ているのだと言う。

 酒屋という商売がてら、酒はもちろん大好きだが、めったにはめをはずさない章吾さん。さすがに祭り前は配達が多くて、疲れもピークだったらしくダウン。そろそろ年も考えて欲しいわ。そう呟きながらも、この日ばかりは節子さんも起こさずゆっくりさせてあげていたようだ。


「あら、もう降ってきたわね」


 どんよりと灰色の空から、ついにちらちらと白いものが、髪に落ちた。


「風邪ひかないように、厚着しているのよキヨちゃん。じゃあ、また本祭でね。うちも参加するから」

「はい、また」


 そう言って別れて私も家に戻る。

 すっかり冷たくなった手を息で温めながら玄関を入ると、ふと部屋の奥で人の気配を感じた。

 慌てて靴を脱ぎ捨て玄関を上がると、薄暗い座敷の中、仏壇の前に座る大きな影があった。


「……また、死に損なったみたいだ、亀蔵殿」


 黒いコートに身を包んだ影から、小さな声がぽつりと落ちる。

 私が持っていた手提げカバンを落とすと、薄汚れた包帯が巻かれた頭が、こちらを振り向く。

 そして同時に、私は息をのんだ。振り向いた彼の顔には、左側を大きく覆う包帯が巻かれている。


「ああ、キヨ、かえってきてたのか、少し聞こえが悪くて」


 正座のまま、ばつが悪そうにこちらに向きを変えるクロード。私は彼に近寄り、震える両手で彼の包帯に触れて、膝をついた。

 包帯は分厚い布を押さえるように、右頭部から、左耳を覆うように巻かれている。その分厚い布が隠すのは……


「大したことない、生きて戻ってこれた。キヨのおかげだ」

「大したことないなんてうそ、だって……」

「本当だ、キヨが祭りに誘ってくれたろう、だから土壇場で踏ん張れた」

「でも、怪我が」


 包帯の奥を確かめたいのに、怖くて触れられない。それでも頬まで下りた手を、クロードが拒むように掴んだ。


「心配いらない、左眼はダメだったが、もう三週間経っているから傷は塞がってきて……キヨ?」


 私が怖くて聞けないでいたことを、ことさらさらりと言いのけて、微笑むクロード。

 どうして、いつもいつも……。どういう風に整理していいかわからない感情が次々に溢れてきて、言葉が出ない。

 その代わりとばかりに零れてしまう涙を隠そうとするのだけれど、膝立ちした私の顔は、正座するクロードと高さは同じで。


「キヨ? 泣いて、いるのか?」


 顔を背けてるのに、簡単にのぞき込まれてしまい、開き直って睨み返す。


「ダメって……もう、見えないってこと?」

「ああ、でも右目はあるし」

「そういう問題じゃないわよ!」

 

 目のことだけじゃない。祖父の前で、死に損なったって言った。

 死んでもいいって思ってたの? 私はそんなつもりだなんて知らなかった。たとえ現実には引き留められなくても、何も知らずに送り出したあの日の自分が腹立たしい。

 いよいよ止まらなくなった涙を拭こうと袖を引き寄せると、目の前に真っ白なハンカチを差し出された。


「ほら、これなら綺麗だから」


 受け取ったハンカチは、薄手の絹のような光沢があるもので、端には細かい刺繍が施されている。いつだって泥と血にまみれたクロードから、こんなものが差し出されるなんて思っても見なかった私は、そこで改めて彼の格好に気づいて唖然とする。

 そんな私からハンカチを取り上げると、クロードは幼子にするように私の頬に伝う涙を拭い取った。


「鎧じゃないなんて、初めて」


 すると涙を拭いていたクロードは改めて自分の格好を見下ろし、苦笑した。

 長いコートだと思った服は、裾の長い式典用のジャケットみたいだった。襟元は立っているから、恐らく軍服のような意味合いのもので、そういう人間が着る服なのだろう。胸元には勲章のような飾りがついていて、そのジャケットの合わせ目の奥で、クロードが身を屈める度にいつも聞き慣れた金具の音がする。きっと、防具か武器も仕込めるようになっているのだろう。


「ちょうど、身を寄せてる国のお偉いさんと、会っていたところだったんだ。一応、失礼がないようにと姫が用意してくれた」

「じゃあ……無事に、安全な場所に着いたんだね」

「ああ、だからもう、心配はいらないんだ」


 私の涙を拭いたハンカチを、胸元のポケットにしまうクロード。


「あ、それ、お姫様に借りたんでしょう? ダメよ染みになる、すぐ洗うからかして」

「いいって、汚れて無い」

「涙で汚れたし、まずいわよ」


 手を伸ばすものの、ひらりと身をかわされてしまう。


「いいって、もう返さないやつだから」

「はあ? 訳わかんないわよ、もう」


 どうしても私に渡したくなさそうに、大事そうに胸元のポケットを押さえて庇うクロード。

 そんなに大事なものなら、出さなければいいのに。

 釈然としないが、諦めるしかなさそう。私は落としてそのままだった手提げ鞄を引き寄せ、スマホを取り出して電話をかける。


「……あ、水嶋先生ですか? キヨです、はい、亀蔵のとこの」


 驚いたような顔のクロードだったが、すかさず私のスマホに手を伸ばしてくる。それを手で払い、話を続ける。


「往診をお願いしたいんですが、はい……そうです、そうです」

「おい、キヨ、ちょっと待て」

「え、場所ですか、目を怪我したみたいで……はい、よろしくお願いします」


 慌てるクロードを横目に、私はスマホの通話を終了。


「もう必要ないって、ずいぶん前の傷だし、すぐに電話して断ってくれ」

「それは医者が判断することでしょ、それにあんたは客。家主のいう事は絶対です」


 退く気がないのが分かって観念したのか、クロードは肩をすくめた。

 私はその様子に満足して、ようやく着たままだったコートを脱いだ。そしてすっかり冷え切った部屋をなんとかするべく、ストーブに火を入れる。あとお湯も沸かして……そんな風に立ち回っていると、しばらくもしない内に、呼び鈴が鳴った。


「水嶋先生、お祭りの日なのにすみません」

「いいよ、いいよ。そろそろお呼びがあるだろうと思ってたし」


 白い歯を見せて笑いながら、水嶋先生は「よいしょっと」と玄関を上がった。


「ほんにおまえさんは、よう身体を粗末にしよる」


 先生は呆れたように言い、往診鞄を置いて、その中から手袋を出した。


「診てもらうほどじゃなかったんですが、キヨが」

「私が悪いみたいに言わないで、それに放っておけるわけないでしょ」


 子供みたいな言い訳をするクロードに、私は腕を組んで見下ろす。

 その横でにこやかな顔の水嶋先生は、ちゃっちゃと手袋をはめてクロードの包帯に手をかける。しかし二巻きほどいたところで、私の方を向いて言った。


「あんたは、ちょっと席を外してもらえるかね?」

「え? あの」

「それから悪いんだけど、電話してうちの呼んでもらえる?」

「ええと、水嶋先生の奥さんですか?」

「そうそう、来てって言えばわかるから」

「……はい」


 私は色々と聞きたかったものの、とにかく先生の言うとおり、部屋を出て襖を閉めた。それから再び水嶋先生の診療所に電話を入れるのだった。

 それから水嶋先生の奥さんが来たのは、診療後に出すためのお茶の準備を終えるまでの間、ほんの十分ほど経った頃だった。


「お邪魔しますねぇ、潔子さん」

「突然すみません、奥さんまでお呼びすることになって」


 挨拶もそこそこに、水嶋先生の奥さんはいつも先生が持ち歩くのと同じ鞄を抱えて、襖の奥に消える。

 取り残された私は何もすることはなく、ただ居間の椅子に座って待つしかなかった。襖の奥からは時折話し声が聞こえるものの、聞き取れるほどではない。

 それから三十分ほど経過した頃、ようやく襖が開いて水嶋先生が顔を出した。


「終わったよ」


 手招きされて部屋に行くと、クロードは薄いガーゼの上から大きめの黒い眼帯を嵌められていた。


「悪いんだけどね、キヨちゃん。これ、洗っておいてあげて?」

「え、あ、はい」

「持って帰るって聞かないのよ、洗えばまだ使えるからって」


 奥さんに渡されたのは、ずっしりとした包帯の束。薄手ではあるものの、綿で織られた包帯はしっかりしている反面、重い。


「あの、具合は……」

「ああ、大丈夫。ちょっと処置が乱暴だったから、少しやり直して洗浄ね。まあ傷ついた眼球がそのまま残ってたらここじゃどうにもならなかったけど、すぐ取り出したのはいい判断だったんじゃないかな」

「ちょ、先生、なに喋ってるんだよ」


 慌てるクロードとは反対に、のんびり穏やかに喋る水嶋先生の言葉を理解するのに、たっぷり五秒はかかり、その後ざあっと血の気が引く。


「あ、言っちゃ、まずかったかな?」

「あなたったら……デリカシーに欠ける人でごめんなさいね、潔子さん」


 いたたまれないといった風に、謝ってくれるのは、看護師でもある水嶋先生の奥さん。


「あー、気休めに薬も塗っておいたから」

「あ、ありがとうございました」


 水嶋先生は穏やかな顔で頷くと、奥さんから荷物を受け取って帰ろうとする。私は慌てて財布を持って、呼び止めた。


「先生、待ってください支払いがまだです」


 すると水嶋先生はきょとんとしてから、「ああ」と大事なことを思い出したのか、ひとつ頷いた。


「支払いはいいよ、貰ってあるから」

「は?」


 しかし水嶋先生の返しは予想外だった。私は驚いてクロードを振り返るが、彼も当然、何のことか分からないという顔だ。


「違う違う、亀蔵のやつからだよ、先払いで貰ってるから。どうせ彼はお金持ってないし保険もないんでしょ、適当に処理しておくから、預かってるのが無くなるまでタダだ」

「……じいちゃんが、お金を? 死ぬ前に?」

「まあ、あいつも孫が増えたくらいに思ってたんだろうよ」


 水嶋先生はそう言うと、祖父の遺影に目を移す。

 祖父と水嶋先生は、幼馴染みの兄と弟のようなものらしい。だから、身元の定かでないクロードを、こうして今でも診療してくれているのだ。


「ま、そういうことだから。またいつでも電話して。じゃあ」


 そう言って手を振りながら帰っていく水嶋先生に、私は頭を下げて見送った。

 また、祖父に助けられた。

 いつまでたっても祖父にはかなわない、そんな気持ちにさせられたのだった。

 

 部屋に戻ってみると、クロードは貰った痛み止めの薬を飲んでいた。それから包帯を抱えて洗面所に向かうので、彼から包帯を奪う。


「私がやるから、休んでなよ」

「いやでも、キヨの手が汚れる」

「……なあに、今まで何度、うちで血を洗い流してもらってると思ってるのよ」


 今さらな言い分に何を言い出すのかと思うと、クロードは私の姿を頭の上から下まで見てから、顔を背ける。


「今日のキヨは綺麗な格好してるから、悪いと思って」

「は?」


 確かに、今日はスカートだし、でもタイツ履いてるし、ちょっと柔らかいセーターだけど、薄いけれど化粧も多少はしてる。でもそれは人と会うからで、そんな大した格好じゃない……でも考えてみれば、クロードと会ってる時って、家でくつろいでるからジーパンだし、トレーナーだし、もこもこ靴下だし、化粧だって落としてる。

 とても他人に会う格好とは言い難い姿だったことに気づき、もはや笑うしかない。


「キヨ?」

「いいのいいの、エプロンするから」


 私はクロードを追いやり、洗面所で包帯を手洗いする。そして脱水してからストーブの近くに干そうと部屋に戻ると、ひやりと冷たい空気が頬に当たる。

 見れば、縁台に通じる窓が開いている。

 ちらちらと部屋にも舞い込む雪に誘われるように、私も縁台に出ると、クロードが庭の真ん中で突っ立っていた。真白い雪のなか背を向ける、黒い髪に黒い服のコントラストに目を奪われた。

 私に気づいて振り向く彼の目は、黒い眼帯に覆われていた。

 鎧よりよほどマシな姿なのに、舞う雪のなかに立つクロードとの間に、これまで以上の世界の隔たりがあるような気がするのは、なぜだろう。


「冷えると傷に障るわよ」

「やっぱり昼間に来れると、山の色がよく見えて、綺麗だな」


 満月に導かれてやってくるクロードにとって、こちらの世界への訪れはやはり夜が多いのかもしれない。田舎の夜は、ただ黒く、美しい緑は全て塗りつぶされてしまう。


「そうね、先月は見る余裕もなかったしね?」

「そうだったか?」


 子供のようにしらばっくれるクロード。

 空は雪雲が広がっているけれど、時おりその雲の薄れたところから、青い空も見える。それを黙って見上げていたと思ったクロードが、庭に出るために長靴を手にした私の側に来た。

 縁台に立つ私と、その下に立つクロードはほとんど同じ高さだ。

 彼の顔が、目の前にあった。


「キヨが待ってくれていると思ったら、死にたくないとがむしゃらに足掻いてた。今は、死ななくて良かったと思う」

「……お養父さんとは、決別できたの?」

「ああ。その代償が左目だったが、もう俺はあの人とは、違う道をゆく」


 先月の苦悩の顔とは違い、どこかすっきりとした表情に感じられた。

 確かめるすべはないけれど、クロードが嘘を言ってるなんて、もう疑うことはなかった。


「じゃあこれからは、危ないことはしなくてもいいんだね」


 片目になったクロードに、これまでとは違う生きる道が見つかるといい。そう思って言ったのに、クロードはあっさりと首を横に振る。


「なんで?」

「リコを助けてやりたい。リコの望みは、姫を助けることでもあるから」

「助けたじゃない、酷い父親から逃してあげたんでしょう?」

「それじゃ救われないんだ。姫も姫の国の民も」

「……まさか、国に戻って国王ちちおやを何とかするとか言い出すんじゃないでしょうね」


 クロードは困ったように笑って、ほんの少しだけ高い位置の私を見上げた。


「俺は叶えてやりたい」

「あなた一人がどうやって。他にも仲間がいるんでしょう? その人たちに任せたらいいんじゃ」

「キヨ、あっちの世界で一番の大罪ってなんだか分かるか?」


 突然問われても、首を傾げるしかない。


「親殺しなんだ」

「……親。お姫様の、父親?」

「それだけじゃない、養父もまだ国王の側にいる。王と養父、どちらも姫とリコは手にかけられない。姫は簒奪者になり、リコも晴れて女王の伴侶になれなくなる。だから」


 だから自分がやる。あえてクロードが飲みこんだ言葉は、聞かなくても分かった。

 なぜ。どうしてまたあなたが。

 せり上がる思いが、目の前の決意を固めたクロードに届くとは思えず、私はどうしたら、何を言えばいいのか分からなくなった。

 そんな私に、クロードは安心させるように微笑みながら、手をのばしてきた。冷え切った指がほんの少しだけ、頬に触れて、すぐに引き離されていく。

 私は無意識に、その逃げる手を掴む。


「そんなに、大事なの?」


 義理の兄弟であるリコと、その想い人のために、親殺しの悪名を背負えるくらいに。

 けれどもクロードはじっと私を見て、私が掴んでいた手を握り返してくる。


「俺の欲を、代わりに叶えて欲しくなったんだ……リコならまだ叶う、決して手が届かない俺とは違って。だから放ってはおけない」


 真剣に私に向かってそう言う、クロードの言葉の意味が分からず考えていると、ふいに玄関から呼び鈴の音が響いて、私は我に返った。

 日菜姉の声が続き、私はクロードの手を振り払う。


「もうこんな時間、本祭には一緒に行こうって日菜姉と約束してたの。寒いから入ってて」


 クロードの言葉と、彼が大事そうにしまった絹のハンカチが思い浮かぶ。けれども今は考えたくはないと、私は逃げるように玄関へ急いだ。

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