第8話 甘い匂いと別れ
「ほんと、律儀ね」
節子さんに見送られ、まだ熱が下がりきっていないクロードを支えながら酒屋夫婦の家をあとにする。
寝入っていたクロードは、きっちり二時間で目を覚ますと、丁寧に布団をたたんでから節子さんに丁寧に感謝を告げた。せっかく来たからには、ぜひとも亀さんに線香を上げさせてもらってから帰ることにする。そう告げて鍵を預かった私とともに、祖父宅に向かうことになった。
「なんだか罪悪感を感じるんだけど」
二人のやり取りを黙って見ていたが、祖父の家の玄関のカギを開けながら、ついそう呟く。
帰ると言っても、行き先は隣の家の押し入れなのだから、ちょっと複雑。
「帰るのは嘘じゃないし、気にするなよ」
「それって、あなたが言う台詞じゃないわ」
引き戸を開けて、クロードはまるで自分の家のように遠慮などせず、さっさと上がる。
「ちょっと待ってよ」
支えていた私の手を離れて歩き出すクロードは、どうやら右足を庇うように少しだけ引きずっていた。
慌てて靴を脱ぎ捨てて追いかけると、すでに祖父の部屋にある仏壇の前に座っている。
大きくてごつい手でマッチを取り出して、ろうそくに火をつける。それから線香の箱を探しているようなので、その隣に座って引き出しを引いて代わりに取り出してあげた。
「ありがとう」
真っ直ぐ立ち上がる白い煙を見て、クロードが両手を合わせる。
私も同じように火を着けた線香を一振りし、彼の伏せられた長いまつ毛を眺めてから、両手を合わせた。
「そういえば、押し入れから行き来するってことは、来た時はここにいたんでしょう? さっきは玄関の鍵もかかってたし、どうやって家から出たの?」
まさかクロードまで鍵を預かってるのだろうか? そんな私の疑念に、クロードは悪戯っぽい顔で立ち上がり、隣の部屋で押し入れの襖を開けて私を手招きした。
促されて押し入れの下段に顔をのぞかせてみると、奥の壁に違和感を感じる。古い家なので気にしていなかったけれど、壁に大きな修繕の後がある。
クロードがその壁の繋ぎ目をそっと押すと、薄い板が動いた。
「え、まさか……穴?」
「亀蔵殿が作ってくれたんだ。ここから家の外に通じている」
「外って、出入り口にしてるの? いつから?」
「最近だ、体の調子が悪くなってからだろう。俺がここに放り出されて何かあったら、章吾さん夫妻に頼めと」
私のことを心配していたのと同じように……ううん、それ以上に祖父はクロードを不憫に思い、自分がいなくなった後のことを案じていたのかもしれない。
しかしいつでも出入り自由だなんて、猫ならまだしもこの
とはいえ、普段は誰もいないことくらい、見る人が見れば分かるというもの。クロードには悪いが、もう出入りできないように塞がせてもらうことになるだろう。
「ちょっと、なにしてるのよ」
襖を閉めようとしたところで、がさごそと音がするので振り返ると、クロードが私の鞄から酒の瓶を取り出しているところだった。
「帰る前にちょっと腹に収めておこうと思って」
「だから、熱も下がりきってない人が何を言ってるのよ。お酒はダメに決まってるでしょう」
私が酒瓶を取り戻すと、クロードは代わりに栄養補助食品を手早く口に入れた。
「これ美味いな」
三口ほどでクッキーを口に収め、あっという間に飲み込んでしまった。呆れ顔の私に、クロードは残った包み紙を手渡しながら笑った。
「これくらい意地汚いから、生き残れたんだろうな。育ての親にも呆れられた程だから、いらん心配だったろう?」
「……だから心配なんて少しもしてないわよ」
「ああ、そうだっけ。まあ戻る前に腹に収められてよかった」
はあー、とため息をこぼす。
話すたびに、マイペースな彼には振り回されている気がする。
「そろそろ時間だっけ……うわっ、びっくりした」
祖父の古い柱時計の針が三時を回ったのを目にしてからクロードに話しかければ、クロードは作務衣の上着をいきなり脱ぎ捨てていた。
「ん? どうした?」
「どうしたじゃないわよ、なんでいきなり脱いでるのよ!」
目のやり場に困ると思いつつも、こうして目を外さないで観察してしまうのは、職業病というのもあるかもしれないけれども。
「なんでって……着替えておかないと向こうで裸になっちまうからな、さすがに変態扱いはされたくない」
そう言いながらクロードは、押し入れ前に立っていた私を押しのけて、手を伸ばした。押し入れの上段奥に隠してあったらしい、見覚えのある鎧を取り出した。金属でできた鎧をどうやって着るのだろうと眺めていると、脇の部分の留め金を外ずし、反対側の蝶番を中心にして大きく開いた。
クロードはそれを体に当てて、装着する。
「それって、裸に纏うの?」
「あっちはまだ暖かい季節だからな、たまたま昨日はそうした。冬はもちろん中に着込むぞ、そうでないと凍傷になるから」
「へえ……あ、それ」
脇に塞がったばかりだろうピンク色をした傷跡が見えた。ちょっとそこも見せなさいよと言おうとする前に、留め金をかけて隠してしまう。
そしてズボンに手をかけたところで、彼は私ににやりと笑いかけた。
「そんなに見たいなら、俺はかまわないけど」
躊躇なく下がる手にハッとして、私は慌てて振り返り、壁を目の前にする。
「そんなわけないでしょ、見せるな馬鹿!」
私の怒鳴り声に返事はないが、クックと笑う声と、金属の留め金が触れ合う音が続く。
頬が熱くなった自分に驚き、きっと赤くなっただろう耳を誤魔化すように、大雑把に留めてあった髪を下ろす。
「……だいたい、なんでいつも傷を負ってるのよ」
「ん? そりゃあ、戦争してるわけだから」
「せ、戦争?!」
傭兵のような仕事とは聞いていたが、警護やせいぜいが小競り合いくらいだとばかり思っていた。
「言ってなかったか」
「そこまでとは聞いてないわよ。まあ……聞いても聞き流したかもしれないけど、戦争なんて遠い世界のニュースくらいだし」
「あー、こっちは相変わらず平和だからな、分かる。短い時間の滞在でも、かけ離れたギャップを感じる」
本人でさえ、そう感じるほどの現実。それはいったい、どれほどのものなのか。
クロードの負ったダメージと聞かされた身の上話と掛け合わせて、見たこともない世界に思いを馳せる。
鋼鉄の鎧と、打撲を伴った裂傷。重い装備だからこそ、それを扱うための分厚い筋肉。一握りの人間にしか行き届かない食料事情に加えて、戦争まで。
日本にいたら、どれも縁のないものばかり。
「ねえ、こっちの服は向こうに行かないのよね?」
「ああ、弾かれるのだろうな、借り物の服を着ていたとしても、あちらに戻れば無くなっていたことがあった。亀蔵殿も、こっちに服だけが残されてたって言ってたから、間違いないと思う」
「じゃあその時、脱いであった鎧はどうなるの?」
「鎧もあるべき世界に戻る。俺が着ていなくとも、あちらの物は引き戻されるようだ」
「じゃあ、食べたものは?」
「食べたもの?」
「そうよ、つまりこちらで食べた物、摂取した栄養や薬は? せっかく食べたのに栄養にもならないんじゃ勿体ないじゃない」
「ああ、それなら心配はいらないな。こっちで食べて戻ると、空腹を感じないからな。おそらく体内に取り込んだものは持って行ける。いや……正しくは混ざったと言うべきか」
「……不思議ね」
平静を装いながらも、内心ほっとする。せっかく食べさせたものも意味をなさないのであれば、空しいような気もするし、そもそも飲んでいた薬が効果を発揮しないとなると、戻ったら倒れてしまうかもしれない。
そういえば、以前クロードが帰ったあとの押し入れには、鎧から伝った血が残されていた。血も一部とはいえクロードのものならば、消えてもおかしくはないのに。
なんとも法則があるようでないような、不思議なものだと感心していると。
「花の匂いがする」
思いのほかすぐ近くで囁かれた声に、思わずビクリと震えた。
壁を前に立っていた私の背後、左肩の上に太い腕が伸びて壁に手をつくクロード。そして反対側の肩にかかる髪を一筋、掬う指が耳に触れる。
「……な、にを」
「甘くて、懐かしいような」
くんと匂いをかぐ犬のようなしぐさをしたのか、肩に温かい息を感じた。
いや違う、息だけじゃない。背中全体から感じる熱を帯びた空気が、本当に熱いんだ。
今なら間に合う、もう一錠薬を飲ませて……そう思いながら振り返ると。
「クロー……ド?」
一瞬の幻のような残像だけを残し、彼の姿がかき消えてた。
「クロード?」
部屋中見渡しても、あの大きな巨体を隠す場所などどこにもない。なんともあっけない別れに、拍子抜けするとともに、右側の髪を手で撫でる。
そうして無意識に、微かに残る髪を持ち上げられた感触を確かめていたときだった。呼び鈴が鳴る。
「は、はーい」
慌てて手に持っていた髪留めを付け直しながら、玄関に向かう。するとそこに立っていたのは、祖父の家を管理している、真伯父さんだった。
「やあキヨちゃん、ずいぶん早い到着だったね」
「突然、お邪魔してすみません」
客のはずの私が室内から頭を下げると、伯父は慌ててそんなに畏まらなくてもいいからと優しく微笑んだ。
伯父は同じ集落に住んではいるものの、所帯を持って以来、祖父とはずっと同居することなく暮らしている。仲が悪いわけではないが、好き勝手に隠居生活を楽しんでいた祖父にとって、息子の家庭に手も口も出すことはなかったと聞く。
そんなわけで久しぶりに線香でもあげるかと、伯父は言い訳を使わないとなかなか来ないらしい。
「キヨちゃんに使ってもらえれば、親父も喜ぶよ」
伯父は簡単に手を合わせてから、私に向き直ってそう切り出した。
「それで、なあなあになっては駄目だと思うので、契約書は作ってもらおうと思います。母もそうした方がいいって」
「契約書かあ、うちとしてはそんなのいらないが、キヨちゃんが納得するなら、そうすればいい」
「ありがとうございます。それでいくつかお願いがあるんですが」
「なに、言ってみなよ」
「少しだけ手を加えさせてもらいたいんです。もちろん業者へは私が依頼して、見積もりから伯父さんの許可をいただいたうえで、のことですが。実は、このままじゃ仕事にならないんですよね」
「ああ、好きにするといい」
その言葉にホッとしていると、伯父は私に一冊の古びた手帳を差し出してきた。
「実は、亡くなる前に親父から預かってたんだ。もし、キヨちゃんがここに住むと言い出したら、渡して欲しいって言ってな」
「じいちゃんが?」
「最初はなに言っとるんだ、ボケたかジジイと思ったんだけどな、まあ最後だろうし何も聞かずに預かった」
私は差し出された手帳を受け取り、頁を開こうと思ったが、一度伯父をうかがう。すると伯父は促すように、頷いてみせた。
黒い背表紙に、黄ばんでしまったビニール製のカバーがつけられた手帳。そっと開いてみると、祖父らしい整った文字がびっしりと書かれていた。いくつかの段に分かれて書かれてあるその冒頭には、必ず日付が入っている。
「日記、ですか」
「そうらしいな。俺は詳しくは読んでないが、どうも毎日つけていたものじゃなくて」
「……毎月?」
ざっと見たところ、日付はそれくらい飛び飛びだ。そしてはらはらとめくった先で、ある言葉に目が留まる。
──クロード。
その名にドキリとして、思わず手帳を閉じる。
「キヨちゃんに渡せと言ったくらいだ、読んでも化けて出ることはあるまいよ。好きにするといい」
「ありがとう伯父さん、しばらくお預かりします」
仕事の合間をぬって来てくれた伯父に改めて礼を言い、帰っていく背中を見送った。
忙しいのは伯父ばかりではない。これからやることは山ほどある。まずは休日を利用してやれることは済ませておかないとならない。今日と明日、帰るまでにできることを頭で数えながら、私は手に持っていた手帳を、とりあえず祖父の仏壇の奥にしまい込んだのだった。
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