第7話 幸運といびつなおにぎり
あいつが言った
祖父が住んでいた町は山のなかの集落だ。北陸新幹線に飛び乗ったはいいものの、乗った電車によっては、目的の駅の手前で終点となってしまう場合もある。けれども私がホームに駆け込んだ時にちょうどやってきた列車が、たまたま目的の駅に向かうものだった。もしそれに乗れなかったら、田舎の電車はただでさえ本数が少ないので一時間以上は、ロスしていただろう。
あとはバスがあるかどうか。都会のようにバスがなければタクシーで、というわけにはいかない。
そう思って駅を降りた時だった。一台のバスが駅前の小さなロータリーに入り込み、停車したところだった。誰もお客さんはいないけれど、暗い山の影に囲まれた薄暗い駅前に、こうこうと灯りをともしている姿は、どこかほっとさせられる。
運転手が駆け寄る私に気づき、ドアを開けてくれた。
「良かったなお姉さん、これ逃すと次のバスは二時間後だ。どこまで?」
私は運転手さんに目的地を告げてから、大きく息を吸い込んで、運転席から三つほど後ろの席に座った。
そんな風にここまでの道のりは、幸運というしかないタイミングばかり。まるで何かの力が、私を祖父の家まで運ぼうとしているかのよう。これまで幾度となく繰り返した祖父を訪ねる旅程でも、ダントツに最短時間の移動だったに違いない。
これが、
山道をゆくバスの中からは、家影もない山の緑一色だ。ときおり山道を走る車とすれ違うくらいで、ろくに家もない。
外の深い緑が光を遮り、窓のガラスは車内のライトを反射し、そこに自分の顔が映る。少なからず不安が浮かんだ表情に、目線を反らした。
どうしてここまで来てしまったのかと、自問を繰り返す。
今さらだけど、あいつに会ったら何を言えばいいのか分からない。
「お客さん、着いたよ」
はっとして顔を上げると、バスは停車していて運転手さんがこちらをうかがっている。慌てて鞄を肩にかけ、席を立った。
暗闇に走り去るバスを見送り、時計を見る。昼時なせいか、小さな町の商店街は人気がない。ちょうどバス停前の酒屋は店内の灯りはついておらず、私はいつもの細い路地を登る。
酒屋の横の路地沿いに節子さんの家の玄関があり、そこを横切ろうとしたタイミングで玄関の引き戸がガラリと音をたてて開いた。
「キヨちゃん!」
「節子さん?」
「やっぱり今のバスで来たのね、珍しくこの時間に停まったみたいだったから、そうじゃないかって思ったの」
驚いている私の手を掴み、節子さんは自分の家に押し込める。
「今、クロードさんはこっちに寝てもらってるの。どうぞ入って」
「いえ、あの、私は別に……」
あいつに会うために来たわけじゃなくて。そう言おうとしても節子さんは聞く耳を持たず、そんな私たちの声に章吾さんまで奥から顔を出してきた。
「お、いらっしゃいキヨちゃん。遠慮せんと、入った入った」
にこやかな夫妻にこれ以上何を言っても迷惑かと思い、言葉を飲みこんで頭を下げた。
「すみません、こんな突然にお邪魔して」
「いいのいいの、気にせんで」
節子さんに促されるまま、私は玄関からまっすぐ奥にいった突き当りの部屋に入る。そこは畳敷きの部屋で、大学に行ったまま帰らなかった息子さんの部屋だ。いくつか荷物の入った段ボールが隅に寄せられ、部屋の真ん中に布団が敷いていある。そこに横たわって目を閉じているのは、いつかも見た作務衣姿のクロードだった。
寝ているらしく、クロードは静かに寝息をたてている。
「じゃあ悪いけど、ちょっと見ててくれるかしら、お茶を用意するから」
節子さんが小さく囁き、私を置いて出て行ってしまった。
仕方なしに私は布団の側に座る。
相変わらず日に焼けた肌に、乱雑に切ったような髪が汗で貼りついている。その額の側に落ちてしまった濡れタオルを見て、彼の額に戻してあげる。
かすかに指に触れた額が、熱い。
改めて手の甲で彼の首筋に触れてみると、かなりの高熱であることがうかがえる。
動揺して引っ込めようとした手を、一回りも大きな手で掴まれた。
「……○※×?」
何語か分からない言葉を呟くクロード。
薄く開いた彼の目は、私の姿を捉えきれていないのか、しばし彷徨う。そしてさらに強まる力に、掴まれていた指の関節が軋む。
「ぃった……」
掠れた声に、クロードがハッとして手を離した。
「キヨ?」
「……まだ寝てなさいよ」
今度こそ目をしっかりと開けて、その黒い瞳をこちらに向けたクロードは、驚いたような表情をしたあと、小さくため息をついて視線を外した。
「来なくていいって、伝えてもらったはずだが」
「あんたに会いに来たんじゃないわよ、自惚れないで」
天井を眺めていたクロードが、再び私の方を向く。
「なによ?」
頬をふくらませて身構える私に、クロードは小さく笑った。
「いいや、俺にも幸運が訪れる日がきたのかと思って」
どういう意味?
私が首をひねっていると、襖が開いて節子さんが入ってきた。
「起きたのね、ちょうどいいわ、お薬飲める?」
節子さんが薬を用意しているのを見て、私はクロードに手を貸して起き上らせる。いくつかの錠剤とともに水を受け取ると、クロードは一気に煽った。
「いつも助かります、節子さん」
「気にしなくていいのよ、長い付き合いじゃないの。それじゃゆっくりね」
そう言って節子さんは、私に湯気のたった湯呑がのった盆を差し出し、すぐに部屋を後にした。
その盆には湯のみだけではなく急須、それから薬の袋がひとつ。
「……今度はどこを怪我したの」
クロードは答えにくそうな顔をしたまま、再び横になる。
「黙秘で」
「そういう言葉はよく知ってるのね。まあいいわ」
私は持ってきた鞄を引き寄せ、中身をあさる。
栄養補助食品の箱をいくつか出して、それから小さめのビニール袋も。それから布製の巾着袋を並べてから、問いかけた。
「いつまで?」
私の唐突な言葉の意味をつかみきれず、クロードは豆鉄砲くらったような顔で私を見返す。
「ここにいられる時間よ。いつまでなの?」
「……ああ。今回は長めだと思う……とはいえ、あと三時間くらいかな」
「食べられる?」
返事も聞かずに、私はクッキーの入ったパッケージを破り、ドリンクの蓋を開ける。そして作り直して詰め込んで来たタッパーを広げて、クロードに差し出した。
「あっちは、たいした食糧がないんでしょ? 吐いてもいいから詰め込みなさいよ」
「吐いたらもったいないだろうに。しかしずいぶん、用意がいいんだな」
「だから誤解しないで。こっちはね、町を歩いてたらどこにでもコンビニがあるし、二十四時間だし、キヨスクにはこんなのいくらでも置いてあるの。私みたいにブラックな職種で働いてたら、これくらいいつでも鞄に入ってるわよ」
クロードは再び起き上り、私が差し出したタッパーと、同じく鞄の内ポケットから出てきた割りばしを受け取ると言った。
「これに、酒があると最高だよな」
「頭、やられてるの?」
「いや、今回は違う。だけど亀蔵殿はいつでもそうだったから」
今回という言葉に反応して、自分の眉間がぴくりと動いた。
そんな私の様子に気づいてか、曖昧に笑ってみせるクロードに、がさごそと鞄をあさってからもう一つの瓶を取り出してみせた。
一人でする晩酌にはちょうどいい三百ミリリットル瓶。
「さすがキヨ」
嬉しそうな顔で伸ばしてきた手から、酒瓶を遠のける。
「あげるとは言ってないわよ」
宙をつかんだ手を引っ込めて、クロードは肩をすくめて箸を割った。
「では、それもよこせ」
巾着の中に残されていた塊を、目ざとく見つけていたようだ。
私はラップに包まれたいびつな形のおにぎりを彼に手渡した。
「キヨは器用なのに、にぎり飯だけは変な形になるのだと亀蔵殿が言っていたが、本当だったんだな」
「うるさい、文句いうなら食べるな」
「はは、味はちゃんと美味い」
私の刺々しい声などまったく意を介さず、勝手におにぎりを食べ始めているクロード。
けれども一つを食べきると、その手も止まる。
「わるい、残りは後でもらう」
測ってはいないけれど、さっき触ったときにはかなりの高熱だった。
無理はないという思いと、言いようもない不安が胸に沸き上がり、私はただ頷く。
「米はいいよな、やっぱり俺は日本人だ、そう思わせられる」
沈んだ私に、クロードの方が気を使っている。
「まあ、その、なんだ。これくらいじゃ死なないから」
心配なんてしてないって言おうとするのに、声が出せない。空元気を見せられるほど、かつて帰ってこなかった祖父と重なる。
無理にしゃべろうものなら、口からではなく目から何かが出てしまいそうだ。だからごまかすように、節子さんの入れてくれたお茶をすすった。
「食ったから、喉乾いたな」
「酒はダメよ、薬を飲んだ後だもの」
「なんだよ、生殺しか」
すねたような声を出すが、無理だとは分かっているのか、それ以上はごねてくる様子はなかった。そのまま天井を向いたまま、クロードはまぶたを伏せる。
そんな様子を眺めていると、さほどの時間もたたずに、クロードから寝息が聞こえてくる。
「あら……寝たかしら?」
そっと襖を開けて、節子さんが声をかけてきた。そして私に手招きをする。
そんな節子さんに誘われるまま、クロードのそばを離れて、章吾さんのいる居間に行くと、そこで鍵を渡された。
「これって」
驚いて節子さんを見ると、微笑みながら頷く。
「そう、亀蔵さんの家の鍵、キヨちゃんが来る前に届けに来てくれたの」
「伯父さんが?」
「ええそうよ。あなたが来るから、渡してあげてって」
私は節子さんから鍵を受け取った。
「実は、
「しばらくって、キヨちゃんが? この前みたいな、休暇じゃなくて?」
節子さんは驚いた様子で章吾さんと顔を見合わせる。
「伯父さんには母から伝えてもらってあるんですが、しばらくこっちで住まわせてもらうつもりなんです」
「じゃあ、本当にこっちに滞在するってことは、そんなに体調が悪かったのか?」
章吾さんが心配するのも無理はないかもしれない。前回は本当に心も体も限界を感じて逃げ込んでいた。つまり前科があるようなものだ。
「心配しないで、章吾さん。そうじゃないの、実は……」
私はここに来る列車に揺られながら、ある決意を強めた。
ずっと考えていたけれど、先延ばしにしてきた思い。それを偶然だけれど後押ししたあいつの眠る部屋にほんの少しだけ意識を向けたあと、夫妻に詳細を告げた。
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