七の月、それから

第31話 孤独な月夜と小さな兆し

 クロードが再び向こうの世界に戻ってから、二週間が過ぎた。

 気づけば七月に入り、ここに越してくる時に買った花模様のカレンダーは、もう半分を消費してしまっている。

 あの日、クロードが私の制止を振り切り、祖父の月鏡の石を持ち去ったあと、智晴さんと朝まで泣き明かした。

 彼もまた兄からの頼みを、断腸の思いで成し遂げたのだ。そして最後の言葉を今でも守ろうと、頻繁に顔を出すようになった。

 今日も宮司さんに挨拶をしてから、私の元へやって来て、かつて兄がそうしていたように縁側で庭を眺めていた。


「どうぞ、向かいの節子さんから、水ようかんをもらったんです。冷えてるうちに食べてってください」


 座る縁台の横に、お茶と水ようかんを乗せた盆を置いた。


「お仕事中だったのに、お邪魔してすみません。いただきます」

「それは気にしないでください、ちょうど色々と重なっただけで、いつもこんな風じゃないんですから」


 水ようかんを手に取った智晴さんを置いて、私はパソコンの前に戻って作業を再開する。

 クロードが去り、二度と会えないのではと呆然自失となっていた私の元に、数日後にはいくつも一度に仕事が舞い込んできた。仕事はよく示し合わせたように、あれもこれもと一度にやってくる時があるものだけど、まさかフリーとなって間がない私に? という魅力的な仕事ばかりで、とてもじゃないがこなしきれない。それであちこちに頭を下げて厳選させてもらうという、信じられない状態にある。いくつかの社は、それでも待っているからと、とんでもなくありがたいお言葉までもらっているのだ。

 何がどうなっているのやら。もしかして、これがクロードの言う幸運なのだろうかと、目の回る日々のなか、漠然と考えていたところだった。

 十五分ほどで手をつけていた仕事をまとめ、約束していた所にメールを送り終わり、とりあえず休憩を取ることに。智晴さんの横に、水ようかんを持参して、よっこいしょと座る。

 庭はすっかり夏の景色に様変わりし、葉の青がまぶしい。梅雨も明けたと昨日ニュースで言っていたけれど、それを知っていたのかと思うほどに、急にセミの声が聞こえ出した。


「しばらくまた、出張に行かなくてはならなくなりました」


 智晴さんが、心配そうに私を見る。


「大丈夫ですよ、独りなのはいつものことだし、智晴さんがそんなに責任を感じる必要はないって、何度も言いましたよね」


 石を持ち去ってしまうことには反対したけれど、元々クロードをあちらに還すことには、私は反対していなかった。ただ、最後にはちゃんとこっちの世界に戻って欲しかっただけ。もちろん、生きて。


「……どこに行くんですか?」

「タイに」

「わあ、素敵。私も一度、行ってみたい場所です」

「観光のひとつも出来ればいいんですが、教授に付き合されると、道路はない、電車もない、言葉も通じない、槍が飛んで来る、そんな所ばかりです。全然素敵じゃありません」

「でもさすがにタイなら、槍はないでしょ」

「甘いです、潔子さん。タイも奥地は少数民族の部落などがあり、場合によっては排他的なんですから」


 力説する智晴さん。そんな忙しい日々の合間にも、こうして訪ねてくれて、なお自分の研究もしなくてはならないのだから、せめて私のことで心配はかけたくない。


「じゃあ、危なくなりそうだったら、迷わず逃げてくださいね」

「そうします」


 私たちは笑い合って、お茶をすすった。


「満月の日には、電話しますから。必ず出て下さいね」

「そうですね、万が一でもクロードが戻ってくる可能性もあるし」

「そうじゃありません、あなたが心配だからです」


 驚いたことに彼は真剣な顔だった。


「兄からの願いです。満月の日は出かけず、カーテンを閉めて部屋に閉じこもっていてください。あなたの中に、石の欠片があると兄は言ったのです。万が一にも、潔子さんまであちらに行ってしまったら、僕はもう一生兄に許してもらえません」

「そんなこと言われても……」


 あの日以来、ぱたりと胸を締め付けられることも、どこかに引き寄せられそうな感覚も一切ない。あの時はどうかしていたのではと、思うくらいだ。

 それは包み隠さず智晴さんには伝えてある。けれども、智晴さんは疑っていないようで。


「約束してください、せめて今月の満月だけでも、用心してください」

「分かったわ、約束します」


 それで智晴さんは安心したようだった。出国のための準備もあるようで、今日はまた大学に戻るようだ。

 玄関で見送ると、少し思い詰めた様子で、私を振り返る。


「潔子さん、僕は諦めてません。だからあなたにも、諦めて欲しくないんです」

「……智晴さん」


 気持ちは嬉しいけれど、私には「はい」とも「いいえ」とも言うことはできなかった。ここにはもう、彼を呼び込むための月鏡の石はないのだから。


「そんなことより、智晴さんこそ気をつけてくださいね。あなたも鏡家の血を引いているんですから」

「大丈夫ですよ、僕は。兄が生きてくれている限り、大丈夫です」


 私は言葉を失う。


「すみません、不謹慎なことを言いました」


 私は「いいえ」と首を横に振った。自分と兄を天秤にかけさせるような話を持ちだす私の方が、不謹慎だった。


「潔子さん、仕事をしすぎないよう、体には気をつけてくださいね」

「はい、智晴さんも」


 彼はしっかりと頷き、帰っていった。

 その後も仕事に追われ、定期連絡のように来る智晴さんのメールに三度ほど返信をした頃、再び満月の日がやってきた。

 智晴さんの言った通り、その日はずっと部屋にこもっていることになった。なにも彼に言われたからではなく、本当に忙しくて出る暇すらなかったのだ。

 ようやくひと段落して休もうかと、大きく伸びをして時計を見ると、夜の七時。

 もうそんな時間かと、立ち上がってキッチンに向かう。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、喉を潤す。飲み干したコップを置いてふらりと部屋に戻り、壁掛けのカレンダーを見つめる。

 びっしりと予定が書きこまれたカレンダーの、日付の下にある満月のマークを見てから、窓を振り返る。

 カーテンの隙間から、明りが漏れていた。

 私は窓に近づき、カーテンの端を掴み、隙間をつまんで合わせた。そして窓を背にしてしまえば、満月のことなんて忘れていられる。

 そう思ったのに、そこからちょうど正面にあるのは、いつもの押し入れで。

 ぴったりと合わさった襖は、もう勝手に開くことはない。

 大きな体が落ちてくることもなく、家だって揺れることはない。

 ご飯だって、いつもの三倍も炊かなくていいし。最近は仕事のストレスなのか胃が痛いこともあり、酒もすっかり飲む気にもなれず、足す必要もない。

 私は窓にもたれかかっていると、お腹が盛大に鳴った。


「お腹すいたな、ご飯にしよっか」


 気を取り直してキッチンに戻る。作り置いていた煮物を出して、買い足してあった春川さんの山女魚を魚焼き用の網で炙る。ご飯を盛って移動する。

 煮物は明後日までありそうだし、春川さんの山女魚は五匹からの販売だ。炊飯器には、冷凍でもしておかないといけない量が残ってる。

 馬鹿だなと、自嘲する。

 いつかの彼ほどではないが、美味しいご飯を、鼻を啜りながら食べた。

 泣いてはいない。ただ少し蒸気で湿っているだけ。

 寂しいのも、切ないのも、私だけじゃない。それだけは信じてあげようと思う。


 そうしてご飯を食べ終え、少し落ち着いたところに電話が鳴る。智晴さんからだった。


「本当に国際電話をしてくるとは、思わなかったですよ」


 そう言って笑えば、電話口の向こうの智晴さんは、ほっとしたような声で「もちろん約束ですから」と答えた。


『どうですか、体調の方は? また痛みや変な感覚はしますか』

「いいえ、なんにも。きっと勘違いだったんじゃないかと思うんですよね」

『……そうですか。それでも、月の下には出ないようにお願いしますね』

「はいはい、忙しくてそれどこじゃなかったんで、大丈夫ですよ」


 それから、ほんの少しだけ互いの近況を伝えあって終わった電話。

 それでもやっぱり、私は恵まれてると感謝せずにはいられなかった。誰かに心配されるのは、申し訳ないという気持ちもあるが、でも案外嬉しいもので。

 明日も頑張ろう、そう思えた。




 そうして独りだけの満月の夜は過ぎ、しばらくすると世間は夏休みを迎えた。

 相変わらず仕事は順調で、まるで嘘みたいな状況になっている。ダメ元で応募したコンテストで、賞をもらってしまった。

 それほど大々的に宣伝していたコンテストではなかったものの、業界では通知されていたせいか、元同僚たちから祝いの連絡をもらったり、仕事の打ち合わせで東京に出る日にも、会う約束を取り付けられたりと、なんだか騒がしい。

 いくらなんでも、これはちょっと眉唾だわ。そう思えるほどに、信じられない幸運に恵まれている。もしかしたら、本当に私の中に欠片があるのかしら。そう思い始めた時だった。

 懐かしい人からも電話がきた。


『もしもし、吾妻です、久しぶりですね』

「はい、ご無沙汰してます、吾妻さん。先日は新規事業の立ち上げ、おめでとうございます」

『ああ、ありがとう。わざわざ花を贈ってもらって、すまなかった』

「いいえこちらこそ、ずっとお世話になりっぱなしだったので」


 予定通り、四月からは吾妻さんは親会社に戻り、新規事業の立ち上げの責任者となった。都内とはいえ、元の会社からはずいぶん離れた場所になり、業種も違うことから、今後は疎遠になっていくのだろう。最後くらいはと、感謝の気持ちから花を贈ることにしたのだ。


『元気にしているようで安心したよ、賞も取ったんだって? びっくりしたよおめでとう』

「ありがとうございます、本当に幸運でした。吾妻さんが紹介してくださった方から、出してみないかって誘われたんです」

『きみには才能と、努力できる力があるから、当然の結果だと思うよ』

「いや、誉めすぎないでください、これからが大変なんですから」

『ははは、それはまあそうだな。ところで、例の彼氏は元気?』

「彼氏って、クロードですか」

『そうそう。彼の力も大きいんじゃないか?』

「そうかもしれませんね……何度も失礼な電話をすみません。いまちょっと遠くに仕事にいってるので、彼からはお礼を言えないんですけど」

『そうか、それは寂しいね』


 吾妻さんはそれ以上、クロードについて話すことはなかった。電話をしてきたのは、どうやら花の件と私への祝いだったみたい。重ねてお礼を言い合い、電話を切った。

 懐かしい声が聞けて良かった。仕事に戻ろうかと振り向くと、そこに日菜姉がいた。


「わ、びっくりした」

「ごめん、呼んだんだけど、返事がなかったから。電話中だったのね」

「うん、元上司だった人がね、お祝いの電話をくれたのよ」


 日菜姉は大きなお腹を押さえながら、私が差し出した座布団の上に座った。


「クロードさん、遠くで仕事してるって本当なの?」


 聞いてたんだ。私は苦笑いを浮かべながら「そう」と返事をすると。


「どこ? まさか外国?」

「そうね、なかなか帰ってこれない遠い外国」

「ええー、ショック」

「なんで日菜姉がショックなのよ、仕方ないよ。三年は戻ってこないって」

「三年?!」


 なにやら顔を歪めて指折り数えている。


「三十越えちゃうじゃない」

「誰がよ」

「キヨちゃんよ。あのね、今回思ったんだけど、三十越えるとね、重いからだが身にしみるのよ。生んだとしても、そのあと重労働だっていうじゃない、三時間もまとめて寝れないのよ、今から不安なのよ」

「うん、そうね。でも日菜姉は逞しいから、きっと大丈夫よ。浩介さんもいるし」

「だから、キヨちゃんの心配してるの。早くクロードさんと結婚しなさいって言いにきたのよ」


 ……ん?

 首をかしげてると、日菜姉も首をかしげる。


「居ない人と結婚は無理でしょ」

「だからショックだって言ったの」


 頬をふくらます日菜姉が可愛くて、私はつい噴き出してしまった。

 そして日菜姉は持ってきた篭を寄せて、その中から綺麗な封筒を取り出して、私に差し出した。


「なに、これ?」

「お祝い返し。ほら、出産祝いもらったでしょ、面倒くさいからご近所さんや遠い関係のところには、体が動く今から配って回ってるの。商品券よ」

「いやいや、生まれてないのに返すの?」

「ううん、普通は後ね。でもほら、集落の中だけだし、世間話をして回れるし。そこでまあ、怖い話も聞いちゃって後悔してるけどさぁ」

「……ははは」


 きっと私にはお返しを口実にして寄っただけなのだろう。そう思って日菜姉に、お茶とお菓子を用意して出す。


「もうあと一カ月くらい?」

「一カ月と少しかな」

「楽しみね、生まれたらお見舞い行ってもいい?」

「うん、来て来て。個室だから遠慮いらないし」


 食欲が増して困るのよね、そう言いながらお菓子を口にする日菜姉につられて、私もおせんべいを口にする。

 するとまた胃がキリキリとして、ついお腹をさすってしまう。


「どうしたの?」

「うん、最近仕事がたくさんきて嬉しいけど、責任が重いせいか胃にきちゃって」

「お薬は飲んでるの?」

「うん、胃薬は飲んでるよ」

「……そう、仕事大変ね」

「やりがいがあって、やめられないってのもあるんだけど」

「楽しい?」

「うん、賞をもらうとね、さすがに嬉しい」

「……キヨちゃん」


 じっと日菜姉が私を見る。

 どうしたのだろうかと日菜姉が喋り出すのを待っていると。


「妊娠、してない?」


 突拍子もない問いに、しばし固まる。


「いやね、私も最初はそうだったから。なぜか、胃が痛かったの。ほら、お薬飲むととりあえず胃痛って、治るでしょ。でもそうでもなくて、たまたま結婚してる友達に会ったときに、薬を持ってたから聞かれたのよ、同じことを」

「妊娠してないかって?」

「うん、まさかって思ったのよ。でもその子にいいからいいからって、薬局で検査薬を買わされて調べたのよ」

「そしたら……」


 私は日菜姉のふっくらとしたお腹を見る。


「そゆことよ。まあ、可能性のひとつだけど、そういうこともあるから、思い当たることがあれば調べてみたら? つきあってるんでしょ?」

「……うん、まあ」


 それから日菜姉はお菓子を二つほど食べて、次の訪問先に歩いていった。

 私は平静を装い手を振りながら、日菜姉を見送る。

 内心、瀧のように冷や汗をかきながら。

 

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