第32話 命
八月になり、盆祭りの季節がやってくる。祖父が亡くなったのはその盆を数日後に控えた日だった。あれから一年、色々なことがあった。仕事の人間関係に躓き、クロードに出会い、フリーの仕事をこなせるようになり、そして……
「本当にキヨがお世話になって、せっちゃんと章吾さんにはなんてお礼を言ったらいいか」
「ゆきちゃんってば、なに言ってるのよ、かしこまって。こっちこそ、キヨちゃんが来てくれて本当に楽しくて、ついお節介ばかり焼いちゃって、ねえ?」
東京銘菓な菓子折りを手に、向かいの章吾さん夫妻に頭を下げる両親は、祖父の一周忌に続いて初盆まで立て続けにある法要のため、やって来ている。
この祖父の家で仏壇を預かっていることもあり、法要などはすべてここで行うことになっている。私は仕事道具をいったん片付けて、急ぎの仕事連絡だけはスマホで受け取ることになっている。
久しぶりの休暇、でもある。
「仕事が順調みたいで安心したわ、田舎でもできる仕事があるんだから、時代なのかしらね」
母はそう言いながら、祖父宅にしつらえられた法要のための派手な仏壇に、果物の篭を並べて、祖父母の写真に父と並んで手を合わせた。
「父さんも、キヨを心配してたから、元気な姿を見せれて安心してるかもね」
「そうだといいけど」
祖父はどう思っているだろうかと、ここ一週間ほど、考えない日はなかった。
日菜姉に指摘されてから、すぐに遠くのドラッグストアで検査薬を買って調べた。結果は陽性。驚きはしたけれど、素直に嬉しかった。
けれどもまだ病院でしっかりとした検査は受けていない。お盆休み前の仕事のスケジュールもあったけれど、躊躇している間に法要の予定やら祭りの手伝いなどからとで、行く暇がなくなってしまった。休みが明けらたすぐにでも行くつもりだけど、両親にこの状態で告げるかどうかはまだ迷っている。
私のなかで、産まないという選択肢はない。だからこそ反対されないようにと、慎重になってしまっていた。
それから私と両親は一緒に真伯父さんの家に向かい、翌日からの法要に顔を出すことになった。そう親戚が多くはないので、昼間のご近所さんへの挨拶や、訪問客への対応、それ以外はそれほどやることもない。両親たちが真伯父さんたちと歓談しているのを側で聞いていてもしかたがないので、空いた時間は祖父宅に戻って過ごした。
その間も、日菜姉からは心配そうに顔色を窺われるが、何も聞いてこない。
数日が過ぎ、初盆の行事も今日で終わりという日を迎え、安心していた時だった。
日がかげり、縁側でうたた寝をしてしまっていた。
あのクロードと別れた朝に、夢の中で出会った天人様が、再び夢に出てきたのだ。
あの日の続きだろうか。
胸を真っ赤に染めて倒れた娘を、天人様が抱きとめていた。おんぶ紐から落ちたのか、側で赤ちゃんが泣き叫ぶ。
けれども天人様は獣のように叫び声をあげ、白い髪を振り乱して娘を、妻だった人を抱いて泣いているようだった。
もう一人、側に立ち尽くしていたのは翁だろうか。一人の老人が持っていた斧を落とし、泣き叫ぶ赤ちゃんを拾い上げる。そうしてようやく子供の存在に気づいたのか、天人様が子供に手を伸ばす。けれども子供に手が触れようとした時、天人様の身体が淡く光り、消えてしまった。
残された老人と周囲の人を残し、呆然とする人たちを照らす満月が、とても印象的だった。
「……キヨちゃん?」
呼ばれてハッと起きると、日菜姉の心配そうな顔があった。
「ごめん、ついうたた寝しちゃった。東京と違ってここは日陰だと涼しいから」
「体調、悪いんじゃない?」
「そんなことないよ、日菜姉こそ動き回って大丈夫?」
「私はもう動いた方がいいのよ」
「そうなの?」
「そうそう。それよりキヨちゃん、私に相談することないの?」
じっと見つめる日菜姉に、笑って首を横に振る。まさか臨月に入った日菜姉を不安にさせるようなことを、言えるわけがない。いずれは話さなければならないが、今ではない。
「ないよ、胃痛も治ったし、仕事も順調だし、絶好調だから」
「本当?」
「本当だって、でもそうだね、困ったことがあったら相談に乗ってもらうかも」
「……うん、いつでも待ってる」
そう言うと、日菜姉は親戚たちの方へと戻っていった。
今晩はそうめんと天ぷらだそうで、狭いキッチンは既に伯母と母に占領されていて、そこにお腹の大きな日菜姉まで参戦するのなら、私の出番はない。
それなら散歩にでも行こうかと思ったところで、スマホが鳴動する。見ると智晴さんからのメールだった。
──潔子さん、体調はその後どうですか、元気でしょうか。僕はようやくタイから帰国できました。五体満足です。
いつも同じ文言で始まる彼のメールに、私はクスリと笑みがこぼれた。
そして返信をする。私も元気ですと。
◇◇◇
お盆休みが明けて、バタバタとしているうちに、九月に入ってしまった。
病院に行った結果、しっかりと卵のうと胎児の影を見ることができた。「おめでとうございます」という女医の言葉に、不覚にも涙が出そうだった。そのエコー写真をお守り代わりに、いつも持ち歩いている。
母子手帳をもらいに行き、そこで保健師さんにシングルマザーとなることを確認され、補助制度などの説明を受ける。そろそろ、両親にも告げなければならない。産むと決めているのだから、しっかりしないと。そう考えて電話をすると、電話口の向こうで、母が絶句していた。とにかく早まらないで、そう言ってこちらにまた来ると聞かない。どうやら、反対されているのだと分かり、ありえることだと思う反面、悲しさが募る。
エコーの写真を見て、その小さな命に胸が詰まる。
そんなとき、少し早いけれども、日菜姉が無事に出産を終えたという連絡をもらった。母子ともに健康、驚くほどの安産だったと言われたようだった。
「かわいいでしょう?」
訪ねていった病室で、小さなベッドに寝かされている赤ちゃんと対面した。
おもちゃのように小さな手と足、それからぐっすりと寝ているのに、時おり動く唇が、可愛らしかった。
あんまり見つめすぎたせいだろうか、寝ていたと思った赤ちゃんがぐずり、声を上げる。
「あらあら、さっきミルクを飲んだから、おむつかな?」
てきぱきと肌着を外しておむつを替える日菜姉。すっかりお母さんだった。
「ちょうどいいから、抱っこしてみる?」
「いいの?」
「そんな簡単に壊れないから大丈夫」
そうしてぎこちない仕草の私の腕に、日菜姉は赤ちゃんを預けてくれた。
ふわりと漂う甘い香りに、信じられないくらい軽い身体。それなのに、全身からその命の重みを感じて、私は赤ん坊を抱っこしながら涙がとまらなくなった。
「かわいい、かわいくてたまらないよ、日菜姉」
「うん。産まれて顔を見た瞬間にね、もう私この子のために何でもしたくなっちゃった」
鼻をすすりながら、私は赤ちゃんを日菜姉に返す。再びとろんとした顔でベッドに入れると、赤ちゃんはすぐに満足して寝てしまう。
「今のところはよく寝る子で助かるわ」
ティッシュで鼻をかむ私に、日菜姉は笑いながら聞いてきた。
「で、キヨちゃんは、何カ月になったの」
驚いて日菜姉を見る。
するとちょいちょいと手で私を招き、そばの椅子に座らせた。
「悪阻は?」
「あんまり、ないみたい」
素直に答えた。それを皮切りに、色々と問い詰められる。
子供の父親はクロードであること、彼はあてにはできないから、一人ですべてをやり遂げるつもりだということ、今はまだ結婚はできないということを。
こうして並べれば、思ったよりも状況は酷いかもしれない。
それでもあの羽のように軽くて柔らかくて、重たい命を抱いてしまった今では、絶対に譲れないものが心に湧いてくる。
「それでも産みたい。一人でも育ててみせる」
ゆるがない私の決意に、日菜姉は「しょうがないね」と最初の協力者を名乗り出てくれたのだった。
それからは、当然だけども大騒ぎだった。
親族だけじゃなくて、章吾さん夫妻までが驚き、心配してくれた。
かけつけた両親は、まず私がすぐに伝えなかったことに不満そうだった。今の週数からすれば、お盆に分かっていたことは、経験者ならばすぐにることだという。それからクロードのこと。彼の存在についていちばん知らないのは、なんと両親だった。篠原さんの件で世話になった、祖父の知人。それくらいの認識だった。
しかしそんなクロードの人柄についてフォローをしてくれてのは、なんと章吾さん夫妻だった。彼が祖父と五年も友人関係だったこと、誠実だけど事情があるらしいことなど、知っている限りのことを伝えてけれた。そして真伯父さんと、祖父繋がりで浩介さんも。あとは噂を聞き付けた水嶋先生が、祖父との関係を口添えをしてくれて、そして宮司さん経由から智晴さんを両親に会わせることになってしまった。
ここには居ないはずのクロードを、知ってる人が大勢いる。彼が過ごした歳月が、決して無駄にはなっていないのだ。例えこの世界にいなくとも、彼は確かにいるのだと、だからめげている暇はないのだと、私は勇気づけられた。
そうして何とか私の決意を伝えて、両親を説得することができた。
それでも両親は、「親だから心配はする。でも応援もしていくから」と、最後には協力を申し出てくれるほどに。
みんなに望まれて産まれてくる。そんな幸せを子に与えてあげられることに、私はほっと安堵する。
狭い町だから、あっという間に私のことは噂になり、詳しく知らない人にまで「大変ね」と言われたが、それも時間が経てば気にならなくなった。
自分でも、こんなに肝が据わるとは思ってなかったけれど、母は強し、かもしれない。
ただ……私がクロードとの子供を宿したことを告げたとき、智晴さんだけは少しだけ皆と違う反応だった。
タイから帰国後も研究をまとめる作業にかかりきりで、なかなか来られなかった彼に子供のことを告げると、ただ言葉を発することなくさめざめと泣いたのだ。そしてひとしきり泣いた後で、「ありがとうございます、潔子さん」と頭を下げられた。
彼は、このことを予想していたのだという。
私の中に欠片が移ったのは、クロードの電話の様子から、そういうことだったのではと、予感がしたのだという。でもだからといって、私には決して強要できない。彼らの一族の因果を拒むなら、それを受け入れようと考え、決して口にはしなかった。もし相談されたなら、産まない選択肢を与えよう。そう心に決めてもいたという。
でも私は、はなから産むことを決めてから、智晴さんに告げた。
だから「ありがとう」と泣いたのだ。
兄を救ってくれてありがとう。そう繰り返す智晴さんと、私は一緒になって泣いた。
それからの日々は、あっという間だった。
相変わらず私の元には、一人で子供を育てるのに必要な仕事が確保されていく。きっと子供を守るために、この幸運が続いているのだと思う。
それなのに体調もさほど崩すことなく、順調にお腹は大きくなっていった。
それから、両親はにも変化があった。あれほど仕事が好きだった母が、定年を前に早期退職をして、私の元に通ってくれることになったのだ。父はまだ仕事があるので残り、母だけが東京と長野を行き来している。もしかして「孫」に、仕事に代わる大きなやりがいを見つけたのかしら。
そう聞けば、実はそれだけじゃないと話してくれた。
「私はね、本当は、もっとお父さんのお世話をして生きたかったの」
意外な言葉だった。仲のいい夫婦だとは知っていたけれど、母も若い頃から働いていたし、いかにも傍目には自立した女性に見える人だ。
「潔子のお世話だって、そうよ。だからちょうどいい機会だったのかもね。時間はもう戻せないし、それなら今のやりたいことは今やっておこうと思って。先は短いのに同じような後悔はしたくないもの」
子育てが終わったのに、いつまでも変わらずにいた自分達の生き方を、変えるいい機会だったと、母が言う。
そうして今さら……いいえ、今だからこそかもしれない。母娘の距離を縮めることができた。
そうして過ごして迎えた、二月の寒い夜。
私は愛しい娘を無事に産むことができた。
父親譲りの凛々しい顔立ちに、これまた父親譲りの元気いっぱいの声で泣く。その娘の手には、小さな美しい欠片が握られていた。
あかりと名付けた。
暗闇のなかの希望のような命。私たちの
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