第4話 朝霧と決心
ふと目が覚めたのは、少し肌寒かったせい。
さすがに高原、朝晩はよく冷える。ぼんやりと目を覚まして、辺りを見回す。
薄暗いものの、明かりをつけなくとも部屋の様子が見える。夜明け前だろう。
布団から起き出すと、ズキンと頭に痛みが走った。
久しぶりに飲み過ぎたかもしれない。
よろよろと起き出して水を求めて祖父の遺影の前を通り、そして居間を抜けて行こうとしたところで、ゴソゴソと物音を聞いた気がした。
音のする場所は、押し入れ。
また何か出てきたりしないよね、なんて思いながら戻って押し入れを開けると、真っ暗な仕入れには何も入っていない。
いや……黒っぽいシミが、中段の杉板に残っている。これは昨日、
「ったく、拭いて帰りなさいよね……鎧はさすがに持って帰ったようだけど」
ふと見れば、下段の足元に落ちていた作務衣。また置いていったらしい。
さすがに裸というわけにはいかないから、着替えて鎧姿で外を歩いて帰ったのだろう。それはまたシュールな光景だ。
だが落ちていたのはそれだけではなかった。白いガーゼとテープが一体となった、絆創膏だ。ガーゼには赤い染み。どうしてこれまで剥がして帰るのよ、あんなに酷い傷だったのに。
まさかそれとも──
私は襖をじっと見つめ考える。本当にこの襖を通って、見知らぬ世界へ去ったとでも言うのか。屍の晒されるような、修羅の世界に──
「それこそ、まさかよね」
私は畳まれた作務衣を掴み、襖を閉めた。そして脱衣所に向かい、作務衣を洗濯機に放り込んでスイッチを押した。
そうしてからキッチンで水を飲む。
ああ、喉を通る水が冷たくて、生き返る。
ほっとしたその時、再び物音がした。今度は、聞きなれた着信音。こんな時間にまでかけてくるのは、家族かもしれない。そう思って祖父の部屋に戻り、鞄をあさって画面を見れば、表示された名前は会社の上司、吾妻さんの名。
思わず画面を触れようとした手を止めて、スマホを置いて背を向ける。
設定してある通り、その後コール三回ほどで、留守電に切り替わって鳴り止んだ。
元々畑違いの部署から転属してきたこの上司は、どの部下も均等に扱い、ちょっとした相談にも向き合おうとする生真面目な人だった。けれどその反面、仕事後の飲み会などでも羽目を外すのを見たことがない、過度の馴れ合いは好まない人だ。だから辞表を出して仕事を放棄する意思を固めた部下の話を聞いてくれはしても、引き止めるようなことをする人だとは思っていなかった。
でも一応まだ在籍はしてるわけだし、せめて電話くらい取るべきだったろうか。
そんな風に悩みながら、祖父の文机に目線を落とせば、そこに小さなメモ書きがあった。
何かの紙の端を手で破いた紙片に、鉛筆で書かれたひらがなが並ぶ。
お世辞にも上手とは言えない文字。
「……き、よへ」
私宛て?
手にとって紙片を傾けて解読すると、こう書かれてあった。
──きよへ。あずまさんと、よくはなせ。あきらめるな。
「あずまさんって……!」
私は飛び付くように鞄に手を伸ばした。
夕べ、祖父の机にはメモなんてなかった。いや考えなくとも、このメモを書いたのはクロードだろう。そしてあずまさんとは、上司の吾妻のことだ。
スマホを手にして、電源を入れて履歴を調べる。
するとずらっと並ぶ着信に紛れて、一件だけ通話の記録が残されていた。
時間は深夜、一時頃。相手は吾妻さん。
「あの
何を勝手に。
いいえそれより何を喋ったの?
焦る指をスワイプさせて履歴からメッセージ機能に移動して調べれば、十三件ほど記録が残されていた。そのうち二件が吾妻さんの番号だ。
とにかく、古いものから再生してみる。
──吾妻です、先日から問題になっていた案件でのデザインだが、先方の担当者からあのデザインを元に、イメージキャラクターとして宣伝展開させていきたいと話をもらった。だが具体的に打ち合わせをしようにも、篠原が抱えきれなくなり、事情を聞くことになった。そこで今回の件が元はきみの発案した企画で、しかもデザインまでそっくり流用していたことが、篠原の証言で判明した。どうやら常務には事実と正反対のことを、あらかじめ証言していたようだ。すまない、私が常務にもう少し強く言っていれば……いや、それこそ言い訳にもならないな。もう一度、話をさせてほしい。また連絡します。
思ってもみなかった内容に、私は動揺していた。
だから操作をし損ねて、続けて入っていたメッセージを再生してしまう。履歴の名前は『篠原』
──ちょっと、なんで連絡くらいよこさないの? あなたのせいで私が悪く言われてるじゃない。さっさと会社に電話くらいしなさいよ、いい年した社会人なんだか……
私は慌ててメッセージを停止させる。
たった一年の経験の差。いや、一年も先輩なのだ。彼女は口にはしないけれど、言葉と声、表情、すべてにその圧を乗せて後輩に接する。
この爽やかな朝の空気に、これほどそぐわない人もいないだろう。残る十二件すべてに、同じような言葉を繰り返しているに違いない。
聞く価値を見いだせず、とりあえず吾妻さんからのものを除外して、すべて消去してから、残る一件を再生させる。
──何度もすまない、吾妻だ。常務にかけあって、きみにキャラクター著作権使用料を払いデザインを外注する形で頼むことにした。もしきみがこれ以上関わりたくない、退社の意思が強いのなら権利の買い取りで決着させてもいい。だが、なるべくなら案件をきみの力で継続させてほしい。社の信用のためだけじゃない、きみの実績にもなると思うんだ。九時までに、返事をくれないだろうか。いや、迷うようなら一度電話してくれ、いつでもいい。それと、親戚の男性には礼を言っていたと伝えて欲しい。彼が電話を取ってくれなかったら、僕もいつものように諦めていたかもしれない。上司失格だった。きみには改めて謝りたい。
再生を終了して、消去を選択する文字の点滅を眺めながら、私はしばし呆けていた。
同僚である篠原が私のデザインと企画案を流用したのは事実だ。けれどそれはまだ粗削りの状態だった。それをそのまま提出して、プレゼンの結果を私に吐き捨てるかのように、こう言ったのだ。
『恥をかかされたわよ、なにこのくだらない企画。せっかく使ってあげようとしたのに』
だから……採用されることなく、没となったとばかり思っていた。
企画とデザインを無断で使われ、あげく箸にもひっかからないどころか、詰めの甘さで恥ずかしいと言われた。せめて私のデザインが使われるのなら、彼女に使われたとしても我慢が出来たかもしれない。でも結果はさんざんだったと罵られ、自分はしょせんその程度なのだと、ぽっきりと心が折れた。
激昂して彼女に酷いのではないかと訴え、ことの経緯を上司に伝えて改善を求めたけれど、私の主張はとりあってもらえなかった。所詮、落ちた企画だからなのか。つまるところ、これが自分の実力だったのだ。
そうしているうちに、ストレスから過呼吸をおこして倒れた。
心だけでなく、いつしか体も悲鳴をあげていたのだと思う。
それなのに、企画が通っていた?
私の作ったデザインを元に、イメージキャラクターとして広告を展開?
私はスマホを握りしめたまま、朝もやのけぶる縁台に出る。
迫る山に日は遮られていて、庭はまだ薄暗いけれど、見上げる空は青く澄んでいた。
「……どうしたら、いいのかな。こんな展開になるなんて、思ってもみなかった」
呟きは、冷たい空気に溶けていく。そんな気がした。
そのとき、再び高い電子音とともに、左手の中で振動するスマホ。指を開いてみれば、吾妻の文字が。
「……はい、もしもし」
条件反射のように、気づいたら電話に出ていた。
あんなに出たくなかった電話なのに……
私はどこか他人事のようにそう思いながら、吾妻さんの声を聞く。いつもの彼らしくなく、たどたどしい声。気づけば、その声に「はい」と何度も頷きながら返事をしていたように思う。
嬉しいのか、悲しいのか、はたまた驚いたせいなのか、頬に涙が伝っている。
そんな私を、祖父の遺影と不思議な襖が、笑いながら見ているような気がした。
──祖父の田舎から帰宅するためにバス停前に立ったのは、それからたったの二日後だった。
当初は、有給休暇が終わる二週間後ぎりぎりまで滞在するつもりでいたのだけれど、予定を変更することにした。吾妻に請われただけではない、もう一度仕事に向き合って決断したいと思ったからだ。
しかしなんだか、祖父とおせっかいな祖父の友人に背を押されたかのよう。
特にあの
「急に帰ることになって、本当に残念だわ」
見送りに来てくれたセツさんが、そう言いながら幼馴染みである母へ、紙袋の手土産をよこす。もちろん酒屋、袋の中身は酒。
「
「ありがとうございます」
「キヨちゃんも飲み過ぎないようにね」
私はその言葉に苦笑いを返す。
「節子さん、クロードに会うことがあったら、伝言お願いしていいですか?」
「クロードさんに? それはいいけど……」
なぜか躊躇するような節子さん。
「商店街では見かけなかったけど、外れにでも住んでるんじゃないんですか?」
「ここの町に? いいえ、彼は月一くらいで亀蔵さんの家を訪ねに来てただけよ。詳しくは教えてくれなかったけれど、住んでいるのは遠くみたい。亀蔵さんから、自分の不在時に彼が来たときには、世話を頼むとは言われていたけど、肝心の亀蔵さんはもういなくなってしまったから、次はいつ来るのか……」
「そう、なんだ」
節子さんなら彼が頑固につきとおした嘘を、冗談だよって吹き飛ばしてくれるかと思っていたのに。意外な返答だった。
「でももしまた会えたら、伝えておくわよ?」
そう申し出てくれたセツさんに、遠慮なく伝言をお願いすることにした。
「おせっかいなところはじいちゃんとそっくり。類は友を呼ぶのね……でも“ありがとう”って、言っておいてくれますか?」
吾妻さんからの電話に私の代わりに出たクロードは、とんでもないことを彼に伝えたのだ。
──私が仕事に未練たっぷりで、割りきれないから田舎に逃げたんだ。だからしつこいくらい電話して、言葉を伝えてやって欲しいと。
それを吾妻さんから聞いた私は、恥ずかしさのあまり穴を掘って隠れたいくらいだった。
節子さんはクロードへの伝言を仏頂面で伝える私に、驚いたようだ。けれどもすぐに、ふわりと笑って頷く。
「わかったわ、必ず伝えるわね」
ちょうど目の前にバスが停まる。
私は節子さんにひとつ頭を下げてから、バスに乗り込んだ。私が座席に座るのと同時に、ゆっくり出発する。
小さな町の短い商店街をバスはあっという間に走り抜けて、くねくねとした山道から峠を目指す。
小高い峠にさしかかると、木々の合間から小さな集落が見えた。
まさか祖父の田舎を目指した三日前には、こんなことになるとは思わなかった。私を案じた祖父の計らいだったのだろうか。
今はただ偶然に感謝して、流れに逆らうことなくもう一度頑張ってみようと思う。
それがあいつのおかげでもあると思うと、少々悔しい気がするけれど。
「はい、辻です」
『吾妻だが、今いいか?』
「お疲れさまです。私はバスで移動中なので大丈夫ですが、明日には出社する旨をメールしたはずですが……もしかして急ぎですか?」
『ああ、すまないな。実は向こうの担当者が……』
季節外れの短い夏休みを終え、私は再び都会へと帰っていく。
それは満ちた月がほんの少し欠けた、九月のある日のことだった。
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