十の月
第5話 電話と小言
かなり肌寒くなってきた、十月下旬のある夕刻のことだった。
それまで残業続きだった日々に一区切りつけて、帰り支度を始めたところへ、声をかけられた。
はい何でしょうか。そう言いながら振り向いた先にいたのは、直属の上司である吾妻さんだった。
「せっかく早く帰れる時にすまない。すぐに終わらせる、少しいいか?」
長身の彼を見上げれば、その細面の顎が示したのは、フロア入り口近くの応接スペースだった。
私は頷き、上司とともにそちらに向かい、パイプ椅子を引く。
「担当している案件でなにか問題でもありましたか?」
「そうじゃない……いや、そうでもあるか」
どっちよ。
心の中でツッコミを入れつつ、吾妻さんの言葉を待つ。
だが彼は黙ったまま腕を組み、細く形のいい眉毛を寄せて、言いにくそうな顔をしている。彼はよくこんな一連の動作をした後、頭をがしがしと掻きむしる。黙ってぼうっとしていると、それなりに整った顔立ちなのに、このやぼったい仕草のせいで、女性社員からは影で減点をくらっている。
予想通り頭を掻きむしった後、彼は切り出した。
「篠原が辞表を出した」
私はその言葉に驚きを隠せず、上司の顔をまじまじと見つめる。彼は真剣な表情で、私の反応をうかがっているようだった。
「先輩は……篠原さんは、どういう理由で」
言いかけてから、はっとして口に手を当てた。上司である吾妻の立場で、理由など私に口外していいわけがない。
「いや、きみも一部ではあるが当事者だから、伝えておく。会社が彼女に下した処分は、配置替えだった」
「配置替えって、どこにですか?」
「声が大きい」
今度こそ両手で口を押さえて、周囲を見渡す。少し離れたカウンターの向こうに、受付の女性社員の背中が見えた。終業時間すぐのせいか、玄関を通る社員の姿はあるものの、私たちのことなど気にしている人はいない。
私は小さな机に身を乗り出して、声を潜める。
「処分ってことは、本人の希望ではないですよね? 今私が担当している仕事は、会社にとっては最初に交渉した篠原さんの功績と受け取ってもおかしくないはずです。それに配置替えっていっても、そもそもうちじゃ営業か事務職くらいしか彼女が移動する部署なんて……」
「常務が決めたことだった。トラブルがきみとの一件だけだったなら、社として動く必要はなかったんだが」
私とのトラブル以外にも何かあったってこと?
あんぐりしている私に、吾妻さんが説明を続ける。
「調査を始めたら、他にも同じような件が出てきた。ほら、去年入った新人の荒木、覚えてるか?」
「はい、年末で辞めた彼ですよね」
「彼が篠原と同じ大学の出身だったんだが」
「ええ覚えてます、あの篠原さんが結構可愛がってましたから。後輩だからって仕事のチェックもしてあげていたみたいですし。まあ、本来の教育係だった大野くんは、それにいい顔してませんでしたが」
吾妻さんは苦笑いを浮かべる。
当時トラブルの仲介をしていたのが、長野さんという女性社員。既に彼女は別部署に移っているが、吾妻さんももちろんその経緯は把握しているという。
「荒木くんがなにか?」
「いや彼というか、教育係だった大野との間に、問題があってな……」
予想外に広がりを見せた問題に、私は再び言葉を失う。
つまり吾妻さんの説明を要約すると、期待の新人だった荒木くんに目をつけた篠原さんが、教育係だった大野くんを抱き込み新人にもアイデアを出させて、それを本人に無断で流用していたというのだ。当然篠原さんだけの業績となったかわりに、大野くんに金銭の見返りを与えて、二人で新人を言いくるめていた。けれどさすがにおかしいと思った荒木くんは、逃げるように退社。つまり被害者だった新人が逃げたことによって、明るみになるのが遅くなったと……
正直なところ、私はしばらく頭を抱えるしかなかった。
社としては、誰がアイデアを出そうがかまわないだろう、大きな仕事はチームとして動くのが基本だ。だがどんな小さな仕事でも、アイデアを出せば終わるものではないし、一人だけで簡潔させるものでもない。いくら口と小手先の器用な篠原さんであろうと、常に上手く客を誤魔化し続けることなんて不可能なのだ。だから今になって、あちこちにボロが出て明るみになったのか。
「そういう事があって、社としてはあまり使いたい手ではないが、彼女に転属を言い渡すことになった」
「理由は分かりましたが、どこの部署に?」
「隣県との境に、倉庫があるだろう?」
「え、な、あそこですか?!」
思わず出た叫びに、慌てて口を押さえ、声を潜めながら続ける。
「でもあそこは、本当に僻地で、不便すぎるからって来年には閉鎖する予定だって言ってませんでした?」
「だからだよ。積極的には解雇するまでには至らないから、自主的に」
「そういう、ことですか」
なかなかにえげつないやり方だ。
私はそれでようやく、篠原さんが辞表を提出した理由を察した。
自分とのトラブルで篠原さんが辞めると言い出されたのなら、非常に目覚めが悪いとは思っていたが、まさか他にもあったとは。
それにしたって、顧客に被害を与えたわけではないので、廃棄が決まった僻地の倉庫への移動は、少し酷すぎる気がする。
「大野と、当時事情を察していながら申告しなかった長野に対しては、評価を下げて次の賞与のみ減給。俺も全ての件の責任を取って降格になる」
「……は?」
最後の言葉が理解できず、吾妻さんをまじまじと見返せば、彼があまり見せることのないような柔らかい笑みで返された。
「当然だろう、業務内容は不馴れとはいえ、部署内の責任を取るために俺はいるんだから」
「で、でも」
「気にする必要はない、近いうちに流通部門を作るらしいんだ。そこに移動になるだろう」
「配送?」
元々、吾妻さんは会長が資本を出して業務提携をしている、印刷会社から来た人だ。だから移動先としてはおかしくはないけれど……
責任って、そんな。
「まあ、まだ先の話だ。きみこそ、これから先のこと考えているんじゃないのか?」
「え?」
吾妻さんの言いたいことがよく理解できずにいると、彼はかまわず続ける。
「独立、一度は考えたんじゃないのか?」
「……それは、あのときはそれしかないかなって思ってましたから」
退職願いを提出したときは、なかばヤケになっていた。とはいえ負けて逃げるのは嫌だし、篠原さんの件で長年夢見てきたデザインの仕事から手を引くことなんて、選べなかった。だから同じようなデザインの仕事をするなら、今の会社とはなるべく競合しない分野でのデザインをできる会社を探して再就職するか、完全にフリーとして自分のアイデアを売り込んでいくか。先のことを考えれば、選択肢はその二つしかないと思っていた。
けれど結果的には相変わらず会社を辞めることなく、済んでしまったのだ。すっかり将来の地図は未完成なままとなっている。
「諦めるのか?」
「いえ、諦めるとかそういうことじゃ」
じっと私を見返す吾妻さんの表情は、いかにも真剣だった。
今辞められたら困るだろう、せっかく再構築を終えて本格的に動き出したプロジェクトがあるのだから。不安要素は摘み取っておきたい、そう考えているのかと思えば。
「独立する気があるのなら、応援する」
「……へ?」
「きみなら大丈夫なんじゃないかな、自信を持っていい」
思わぬ言葉に唖然としていると、私の鞄から着信音が響いた。
もう帰宅するばかりだから、マナーモードを解除してあったのだ。
「すみません」
謝ってから一旦留守電に替えようと持ち上げて、着信表示の文字に目を止める。
名前は「節子」、戸惑う私に、吾妻さんは「出てもらってかまわない」と。その言葉に小さく頭を下げてから出ると。
「もしもし」
『キヨか?』
節子さんからかと思えば、聞き覚えのある男の声。
『おーい、聞こえてるのかキヨ?』
「……クロード?」
『なんだ聞こえてるんじゃないか、元気か?』
「元気かじゃないわよ、なんであんたが節子さんの携帯から電話してくるの」
『なんでって、気になったからさ。ここ来たらあの後、キヨがどう過ごしていたのか聞けると思ったのに、セツさんはお前は早々に帰ったと言うし』
「有給休暇を切り上げるはめになったのは、あんたが余計なおせっかいをしたからでしょ!」
『お、もしかして辞めずに済んだのか』
私が何を言っても、のらりくらりと返してくるところは、先月会ったときと同じ。
「っていうか、あんたまだじいちゃんの家に行ってるの」
『ああ、満月にはさ、俺に選択肢はないんだよ。なあ、もうこっちには来れないのか?』
「まだそんな事言ってるの。私は今百キロ離れてるわよ、行けるわけないじゃん」
クロードの笑い声が耳に痛い。少しだけスマホを離して眉をひそめると、その向こうで私を見る吾妻さんと目が合った。
「大した用事がないなら、切るよ?」
『まあまあ、怒るなよ。仕事を辞めなかったんなら良かった、それだけ聞けたら満足だよ』
「満足って、なんであんたが」
再び大声で笑うから、早々に切ろうとすると、吾妻さんが手を差し出してきた。
「代わってもらえるかい?」
「え? でも……」
「大丈夫、お礼を言いたくてね。あのとき電話に出てくれた人だろう?」
私と吾妻さんの会話が聞こえたのだろうか、電話の向こうからクロードからも「代われ」とせっつかれて、ついスマホを吾妻さんに渡してしまった。
「もしもし、吾妻です。ええ、そうです……こちらこそ」
吾妻さんはいつもの低いトーンで、淡々と会話を交わしている。クロードの無駄に大きな声が漏れてくるけれど、話の内容までは聞き取れない。そのまま会話が終わるのを待っていると、吾妻さんがちらりとわたしの方を見る。
なに?
「いや、そういうつもりではなかった。仕事を続けてもらいたいのは、もちろん本心で……ええ……なるほど。それは大丈夫」
そんな調子でしばらく会話を続ける吾妻さんとクロード。
しかしあの不審人物であるクロードと、常識人である吾妻さんが、こう長々と離していることに違和感しかない。いったい何の話をしているのだろうと思っていると、ふいに吾妻さんが笑った。
「きみは、ずいぶんストレートだな。いいや、悪くない」
「ちょっと、クロードが何か失礼なこと言ってますか、本当にすみません、野蛮人なんです、本気にしないでくださいね」
慌ててスマホを取り返そうとする私の手から、するりと逃げる吾妻さん。
「もちろん、僕としては感謝しています。……はい、伝えておきますよ、それじゃ」
そう言って通話を切り、私にスマホを返してくる吾妻さんは、とても楽しそうに微笑んでいた。
「あの……」
「彼は面白い人だね、親戚と言っていたけれど」
「いいえ、
「まさか、そんなことはないよ。きみを心配していた、ちゃんとご飯食べて仕事行ってるかって。酒は飲み過ぎないよう伝えてほしいと」
「は、はあ……」
あいつが? 本当に、そんな母親のような小言を言っていたのかしら。
胡散臭いと顔に出ていたのだろうか、吾妻さんが苦笑いを浮かべているのに気づき、姿勢を正す。
「すみません、私的な電話に出させたあげくに、失礼な態度で。それと、誤解のないようにお願いします、いつもお酒ばかり飲んでませんから」
私が軽く頭を下げれば、吾妻さんはわかってるよと笑う。
「電話はこちらから代わってもらったんだ、気にしないでくれ。それに彼のおかげで、大きな仕事と部下を失わずに済んだ。上司として礼を言いたかったんだよ。悪かったね、せっかく定時に上がれたところで時間を取らせてしまった」
ふと受付カウンター横の時計を見る。どうやら三十分も話していたようだ。
仕事に戻らないと。吾妻さんはそう呟きながら、いつも通りの事務的な無表情に戻る。
「色々と教えていただいてありがとうございました」
「お疲れ様、気をつけて帰ってくれ」
そうして私はエレベータに乗る吾妻さんの背を見送ってから、帰路についた。
電車に揺られて五つ目の駅で降りると、小さなベーカリーで明日の朝食用のパンを買って、マンションに入った。
そして洗濯物を取り込もうとベランダに出たところで、ビルの合間から昇ったまんまるの月を目の前に息をのむ。
そういえば、あいつと会った日も満月だった。
電話を受けた状況が状況だけに、喧嘩腰でいくつか言葉を交わしただけで、クロードとはろくに話をしなかった。あのとき手当てした傷は、もう癒えたのだろうか。
──ううん、気にすることじゃない。
そう思い直して、見上げた月から逃げるように、ほんのり冷たくなった衣服を抱えて戻る。
もう一度、節子さんの携帯にかけ直したら、彼は出るだろうか。もしかしたら私にしたように、酒屋の夫婦に臆面もなく、酒や夕飯をご相伴に預かっているのではないか。
頭の隅にそんなことを想像しつつも、
そして窓を閉めて、厚手のカーテンが月明かりを遮ぎる頃には、今晩の夕食の段取りへと関心は移る。彼のことはもう、すっかり気にもならなくなっていた。
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