第23話 祖父の手帳と最後の願い

 使い込まれた手帳には、祖父の文字がびっしりと、細かく書きこまれてあった。

 最初の日付は、五年前の秋の頃だった。

 出だしはこう書かれてある。


 ──不思議な男がこの家に突然現れるようになって、四カ月が経った──と。

 つまり、繰り返されるクロードの来訪を、振り返る形で始まっている。


 ──最初にクロードがこの家にやってきたのは六月の長雨の続く日だった。妻の仏壇の上にいきなり降って沸いたその男は、線香の灰と花を巻き込んで、畳に突っ伏していた。ちょうど台所で夕飯を作っていたところで、起きたその男にほとんどを食い尽くされる。言葉は理解している様子なのに、うまくしゃべることができず、奇妙な外国語を話す。ほんの三時間ほど滞在した後に、忽然と消える。

 次にやってきた七月の時も、仏壇に落ちる。一度は許しても、二度はない。こっぴどく叱ろうと思ったが、わき腹にひどい怪我を負っていてそれどころではなかった。水島先生に診てもらうが、どうも普通の傷口ではない。訳を聞こうにも、意識が戻らず布団に寝かせておったところ、再び三時間ほどで消える。

 八月にも男がやってくる。この時は、寝室の箪笥の上。落ちた拍子に頭をぶつける。移動した原因は、どうやら仏壇の引き出しの中の整理をしたためではないかと思うが、詳細は分からず。男はクロードと名乗る。どうやら頭は悪くない。傷の手当てと食事の礼をきっちりと受けた。

 九月になり、クロードが満月の日にやってきていることが分かる。子供の手習いのような、ひらがなの本を与えるとそれで会話が成り立つようになった。どうやら、神隠しにあった子供の末のようだ。不憫に思う。

 十月になり、満月の日には外出を控え、孫を待つようにクロードのために食事と治療の用意をするようになった。何度かテレビを見せたりすると、格段に言葉による意思の疎通がよくなった。これからは聞き取ったことを、記録を残すことにする。


 淡々と箇条書きにも近い記録だが、祖父がクロードの存在に驚きはするものの、案外早くから馴染んで楽しんでいたようにも読み取れる。そこが祖父らしくて、なんだか懐かしい気持ちになった。

 続く記述は満月ごとの、クロードの言葉を切り取ったように書き連ねてある。

 十歳のときに異世界に渡ったこと。それから養父に拾われて、ひたすら訓練と生死を分けるような戦いの日々についてが書かれていた。ただ同時に、祖父はクロードが好んで食べたもの、晩酌に付き合せたことも書き加えることを忘れていない。

 そういう記述が、その後一年くらいは続いたろうか。

 次に目が留まったのは、クロードが祖父の家に来るようになってから二度目にあたる、一月の項目だった。


 ──神楽を見た。どうしてここに来るまで思い至らなかったのか。


 そんな嘆きで始まる一月の記述を、逸る気持ちを抑えながら目で追った。


 ──祭りのあと、宝物庫に確認に行って確信した。二年前、最後の仕事から持ち帰った石が、あれが月鏡といわれていた物、そのものだった。宮下の息子、佐智乎さちおに代替わりして十年ほどだが、宮司となってよく勉強をしているようだった。古い書物を調べ、バラバラになっていた宝物目録を集めて修繕していた。

 あの石は、百五十年前に鳥が巣に持ち帰り、恐らく近くに雷かなにかが落ちたのだろう。裂けた幹に石が入り込み、損傷した箇所を覆うように枝が伸び、そして誰も手をつけない高木にまで成長したのだと思われる。実際、出てきた石の周囲の幹は変色していた。それを白上くんが伐採し、処理をしているときに、珍しい縁起物と思い持ち帰った。最初は仏壇に、クロードが倒した後は箪笥に。確める必要がある──


 読んでいるさなかも、心臓の鼓動が耳に痛い。落ち着いて読まないと、大事なことを読み落としてしまいそう。おそらくもっと、祖父は大事なことを残してくれているに違いない。

 確信めいた気持ちとともに、私は頁をめくる。


 ──二月。石を押し入れの床下に納めると、クロードはそこに現れた。やはり、この場所にやってくるだけの、意味があったのだ。この事実を、本人に告げるかどうかまだ迷っている。せめて石を家族に渡せば、救いとなるだろうか。いや、石の伝えがあるこの土地を出たら、そもそも帰還が無に帰すかもしれない。その可能性を考えると、あまりにも本人に酷な気がしてならない──


 私はそこでようやく手帳から顔を上げ、大きく息をついた。

 やっぱり、あの石。押し入れの床下から出て来た石が、クロードが転移してくるための特異点なのだ。

 そう考えなければ、なぜクロードが縁もゆかりもない祖父の家に飛ばされてくるのか、理由がつかない。そしてなぜ五年前だったのか。石の存在を知れば、納得がいく。

 でもまだ分からないことが、たくさんある。どうしてこちらの世界に来るのが、他の誰でもなく、クロードだったのか。

 私は手帳を握りしめ、無意識に首を振る。

 クロードでなくてもいい理由なんて、ない方がいい。たまたまだったとしても、彼でなければ、きっと祖父も私も、ここまで心を寄せていたかどうかわからない。

 そもそも、元からこちらの世界の人間だった彼が、どうしてあちらの世界に?

 月鏡の石とは、いったい何? 

 ひとつ疑問が晴れても、次から次へと疑問が湧いてくる。


「じいちゃん、私はどうするべきなの?」


 手帳の黒い背表紙を撫でながら、途方にくれる。

 知りたいと思ったけれど、やっぱり私にできることなんて、なにも無いのかもしれない。そう思うと、心がずんと重くなる。

 それでも、私は手帳を毎日少しずつ読み続けることに決めた。

 クロードがいない間、毎日仕事が終わるたびに、手帳を開く。毎日、祖父とクロードに出会っているかのようだった。

 月が再び欠けてゆき、日菜姉の結婚式を迎え、慌ただしい日々も変わらず、手帳を読み続けた。祖父の記述は、毎月の酒と肴とクロードから聞いた話を書きとめるものに戻っている。それはまるで実の孫を見守るように、祖父らしい温かで、優しい視線だった。

 訪れていない間に、大きな怪我を負っていないか。食べ物に苦労してはいないか。腹を空かせた大男に、次は何を食べさせようか。仲間と喧嘩したままやってきた時には、慰め、そして負けるなと叱咤する言葉まで。

 満月の日、たった数時間だけのやり取りとはいえ、五年という歳月はとても長く。二人が絆を築くのには、充分すぎるほどの時間だったろう。


 そうして現実が四月に入った頃、読み進める手帳では、祖父が亡くなる年に入った。

 時おり震える字が混ざることから、祖父の体調がすでに、崩れ始めているのではないかと気づく。病院に行くようになったのは、まだまだ先だ。祖父でも、自分の体の変化に気づかないものなのかと、老いとはそういうものかと思っていたのだけれど……。


 ──二月。昔の仕事先の社長に、身辺調査会社のようなものを紹介してもらうことになった。クロードの家族を探しておきたいと思う。これまで話しに出てきたいくつかの言葉から、十九年前の子供の行方不明記事をいくつか探し当てた。それらから連絡先を調べてもらうつもりだ。家に帰してやれなくとも、己が亡きあと、心の支えとなれば。


 ──三月。調査会社からの報告から、家族が分かった。両親は離婚、弟は父親に引き取られている。母親の姓と身を寄せた出身地を見て、手が震える。パズルのピースが、あるべきところにはまるかのようだ。このままにはしておけない。


「どういうこと?」


 空白三行を残して切られた文章に、慌てて頁をめくると、そこに書かれたのは次の月の日付。戻ってもう一度読み返すが、四月の記述はそこまでだった。

 どうして、祖父はここに書けなかったのだろう。そう思ってハッとした。

 慌てて仏壇の引き出しから、名刺を取り出す。黒田智晴の名。彼はなんと言った?

 『ちょうど一年前にお会いしました』

 その言葉に間違いがなければ、祖父は弟さんと直接会っているのだ。けれども、両親のどちらかとは、電話口での会話をクロードが聞いている。祖父のことだから、まず直接会いに行き、何らかのトラブルになったのではないだろうか。


 ──四月。心残りがいくつもあるのは、良い爺ではなかった証拠だろうか。特に今後は、水嶋先生に多大な迷惑をかけることになろう。来月からは家を空ける。しばし独りにすると言えば、聡い男だ、察した様子だ。伊達に、生き死にの際で生きているわけではないのだろう。ただただ、血も繋がらないこの孫が、不憫でならない。どちらにも根を張れず、さ迷いながら生きるなら、いっそ月鏡の石を渡してやればよかったのかもしれない。家族に失望し、儂もまたいなくなる今なら、未練なく向こうを選べるだろう。


 いつの間にか、涙が溢れていた。

 鼻をすすりながら手帳を閉じると、カバーの折り返しから、ひらりとメモが一枚落ちた。拾い上げると、そこには祖父の走り書きが。


 ──キヨへ。

 この手帳を読んだキヨに、頼みがある。クロードを、向こうの世界に還してやって欲しい。方法は、宮司の宮下佐智乎に聞け──


 最後は手に力が入らないのか、文字が崩れていた。

 これが、祖父の死の間際の願い。

 五年という時を過ごし、孫とも言いえるクロードへの、祖父からの願いが……あちらの世界に還すこと。

 

 私は呆然と座り込み、その遺言ともとれる祖父からの言付けを、ただ眺めることしかできなかった。

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