月が満ちれば

宝泉 壱果

九の月

第1話 美味い酒と月明かりと……誰?

 スーツケース一つに収まるだけの荷物と、財布と手帳が入った小さなバッグ。それが今の私に必要なものすべてだった。

 都心から電車とバスを乗り継ぎ、かれこれ三時間。山間の小さな集落に降り立ったのは、夏の暑さも和らいできた過ぎた九月なかば。

 職場には貯まっていた有給休暇を申請した。ついでに辞表も……

 上司は渋い顔をして受け取ってくれたものの、受理は有給が終わる二週間後だと告げられた。

 気が変わっても変わらなくても、一度連絡を寄越せ。そう押し切られた。

 彼の見た目はクールで、言葉も少ない。何を考えているか分からない人だと思っていたが、案外お節介な人だったんだと今更ながら認識を改めることになった。

 ため息をついて、バッグを肩にかけ直すと、肺には山から吹き下ろす澄んだ空気が染みる。


「んー、やっぱりこっちは涼しい」


 苔の香りを孕む空気は、清流の水音とともに涼しさを運んでくれる。


「あらキヨちゃん、二年ぶりくらいかしら、よく来たわねぇ!」


 町で二つあるバス停のうちの一つ、その前にあるのが酒屋さん。そこの奥さんは母の幼馴染みだ。酒屋の向かいにある豆腐屋の奥さんと、井戸端会議の最中だったみたい。


「まあしばらく見ないうちに、大人になっちゃって!」

「こんにちは、しばらくお邪魔します」


 私が頭を下げると、酒屋の奥さん節子さんは大袈裟に手を振り、こっちはいつでも来てくれるだけで嬉しいのよと言いながら笑う。

 ここは母方の祖父の家がある、山の上の田舎町。小さい頃からよく親に連れられて、祖父の元に遊びに来ていた。誰も知らない場所に行くよりは……そう思って逃避場所にここを選んだ。それに──

 私は節子さんに挨拶した後、その酒屋の脇にあるくねくねと曲がった細い坂道を入った。ほんの少し登った先にある平屋の家、そこが祖父の住んでいた家だ。

 私はジーパンのポケットから鍵を取り出し、玄関を開ける。

 一歩足を踏み入れると、むっと蒸した空気とともにどことなく漂う埃の臭い。


「ほんの三ヶ月人が住まなくなっただけで、空き家らしくなってくるものなのね……」


 引き戸を越えて土間から玄関を上がり、最初にあるのは六畳ほどの何もない畳敷きの居間。台所を横目に真ん中を突っ切り、襖を開けた先の一間へ。


「じいちゃん、遅くなったけど……来たよ」


 仏壇に向かって座り、線香に火をつけて、鈴を鳴らす。

 飾られた写真のなかの祖父は、先に亡くなった祖母の隣で照れたように笑みを浮かべていた。

 線香が灰に落ちきってから、私は「よっこらしょ」と立ち上がる。閉めきってあった窓をすべて開け放ち、空気を入れ換えてから、押し入れ下段にしまってあった布団一式を出して縁側に干しておく。

 そして玄関にあったつっかけを履いて、来た道を戻り酒屋の暖簾をくぐった。


「いらっしゃい。まっ先にうちに来るあたり、キヨちゃんも亀さんの血をしっかり引いてるんだな」


 そう言って笑顔で迎えてくれたのは、酒屋の主である章吾さん。バス停前で会った節子さんの旦那さんだ。

 亀さんというのは私の祖父、笹平亀蔵のこと。


「こんにちは、じいちゃんと飲もうと思って。何かいい酒、入ってます?」

「ああ、ちょうど以前に亀さんが飲みたがってたやつ、仕入れといたで。いい機会だし、お供えしてやってよ」

「これを欲しがってたの?」

「そう、入院する前にね。快気祝いはこれがいいってさ」


 章吾さんが出してきたのは、岡山県にある小さな酒蔵で造られた地酒だった。まさか、入院前に注文していくなんて……


「どんだけ酒好きなのよ」

「そうよ、亀さんらしいじゃないの」


 心底呆れる私をなだめる酒店店主の章吾さんは、祖父が求めていた酒の説明をしてくれた。

 なんでも食い意地の張った祖父のために、食中酒に向いた純米酒を探してくれたらしい。美味い酒には、美味い飯があってこそ。それが祖父の口癖だった。

 祖父は大酒飲みだが、そう酒癖は悪くなかった。私も成人してから嗜むようになり祖父の相手をした。

 普段は口数が多くないくせに、飲むとようやく人並みくらいには喋る祖父。つれあいだった祖母を亡くして長かったのもあり、つまみもその場でちょちょっと作ってくれる、とても器用な人だった。

 祖父が機嫌よく語る話の多くは、愛妻である亡き祖母のことだったが、たまに出る雑学や過去の友人との話、やんちゃだった若い頃の無謀な冒険譚など、それは興味深いものばかり。長期休暇でもないかぎり訪れることができなかったが、祖父との晩酌は楽しい思い出だ。

 章吾さんから酒についての説明を一通り聞き終え、財布を取り出すと。


「代金はいいよ、香典だと思ってくれていいから」

「香典はもう貰ってるでしょ、ダメよ章吾さん。ただで貰ったりしたら、きっと化けて出るよ、こんの大馬鹿者ぉ~! って」

「そりゃ、怖い……じゃあ悪いけど、もらっておくかなあ」


 章吾さんもかつて大声で怒られたことがあるのだろう、大げさに身震いをして見せてから、代金を受け取ってくれた。

 祖父の亀蔵は、普段は温厚だったが、いったん怒り出すとそれはもう怖い。仕事で培った腹の底から出る大声と、相手が誰だろうと譲らない胆力に、勝てる人がいるとしたら亡くなった祖母だけだろう。

 私は酒屋を出て、当面必要な食料を買い集める。買ったのは三キロの米と豆腐、いくつかの香味野菜と山菜の瓶詰め。醤油などの調味料と、あとはさきいか。町の商店街、約七十メートル範囲で全てが揃うのだから、さすが田舎。


「さて、ちょっと待っててねじいちゃん」


 帰りつくと布団を部屋に戻してたたんでおく。

 祖父が亡くなってからは、近所に住む伯父がこの家を管理している。築五十年もたった古い家なので、取り壊すのか、誰かに貸すのか……今後どうするかはまだ決まっていない。好きに使っていいと許しが得られるのはそんな状況の間のみ。

 祖父は亡くなる半年前に入院して、ここに一度も帰ることなく亡くなった。四十九日が終わってまだ間もない。

 居間は片付けられているけれど、祖父の部屋はほぼそのままだ。生前使っていた文机や、好きだった将棋盤。お土産を並べた戸棚、古い本ばかりが収められた棚。昔から私が使わせてもらっていた、お客さん用の布団までも……。

 その布団が入っていた押し入れのふすまに、布が挟まっているのに気づいた。

 布団を出すときに落としたのだろうか。

 襖を開けて端を引っ張ってみると、出てきたものを広げてみて驚いた。


「なにこれ……作務衣?」


 紺色の、渋い絣柄の作務衣だった。

 祖父のものかと思ったけれど、やけに大きい。祖父は私とほぼ同じ身長なのに、これはどう見てもそれ以上。祖父の友人かお弟子さんの誰かの忘れ物だろうか。まあ考えても仕方ないと、簡単にたたんで押し入れに戻す。

 それから食事の支度だ。ご飯を炊いている間に、山菜を醤油と出汁で辛めに煮た。いわゆるお茶漬けでご飯をいただくつもり。あとは冷奴などの酒のつまみがあれば充分。

 一通り作り終われば、もう外は夕闇が濃くなっていた。山間の町は夜が早い。

 私は縁台に立って、空を見上げる。


「……ここは、いつまでも変わらないね、じいちゃん」


 今夜は満月だったらしい。ちょうどじいちゃんの部屋から、まんまるいお月様が見える。

 田舎で見る満月は、驚くほど明るい。月の光が庭の草木をこうこうと照らしているにもかかわらず、空には都会では見られないほどの星々が瞬いている。

 標高が高く、山に囲まれて車の往来が少ない田舎町。「星じゃ腹も欲求も満たされないのよ」とぼやいていた従妹には悪いが、これは宝だ。

 私はご飯が炊き上がるのを待ちきれず、おちょこを二つ出してきて、一升瓶とともに縁側へ移動。そしてさっそく酒を開けた。


「どーぞ、じいちゃん。しばらくお世話になるよ」


 ──しょーがねえな、キヨは。

 そんな言葉が聞けないのは寂しいけれど、自分のおちょこをじいちゃんのと合わせてから、ぐいっとあおった。


「……っはー、美味い! やっぱり冷奴を先に食べちゃおう」


 酒は章吾さんの紹介通り、深みがありつつも甘すぎない、すっきりとした後味が、いかにも祖父好みだった。

 手酌で酒を継ぎ足し、おちょこを掲げてお月様にも乾杯。刻んだ茗荷を豆腐に乗せ、さらにおかかと醤油をかけてまずは一口。そして酒で流し込む。


「たまらんね、じいちゃん」


 もちろんだけど、返事はない。聞こえるのは虫の声と、コポコポと炊飯器の蒸気が踊る音くらい。

 

「まいったよね……相談したい事があるのに、いないんだからさ」


 窓を開け放ち、背もたれにして酒を飲む。美味い酒と肴、ひんやりと心地よい風、優しい月明かりと煌めく星たちに癒される。

 祖父の葬儀すら犠牲にしてまで働いたのに、傷ついて、今さら何もかも投げ出してきた。

 そんな自分には、贅沢すぎるほどの時間だった。

 ……ふと、台所の炊飯器よりも近くで、物音がすることに気づく。

 なんだろう。

 耳を澄ませば、確かに聞こえる風のような音。

 ついに立て付けでも悪くなったのだろうか。確か押し入れの向こうは外壁、古くなった壁に亀裂でもできれば、すきま風が入ることはあるだろう。

 放っておけばすぐに家が痛むし、修理を頼むことにもなるだろう。そう考えながら私は、音のする押し入れを開けた。

 そして荷物もなにもなく空になっているはずだった押し入れの中に、想定外のものを見て、私は固まる。


「……やあ、夜分に邪魔をする」


 私は、数度まばたきを繰り返す。

 だって、目の前には鉄の鎧のようなものを着けた大柄の男が、押し入れの上段にあぐらをかいている。

 なにこれ? 幻?

 てか、あんた誰よ?


「聞こえてるか?」


 大柄なその男は、男性らしい低い声で問う。

 いや、大柄どころではない。どこのプロレスラーかと思うほどの、ガチムチ筋肉マッチョ男だ。しかも眼光鋭く、顔や露出した腕などに傷痕がいくつもあって……

 私に出来ることといえば、そのまま襖を閉めることくらいで。


「……まだ二合目だった気がするけど、酔ったかな、久しぶりだし」


 そう呟き、まだあまり減っていない一升瓶を眺めながら、しばし呆然としていると。

 なんと、触りもしないのに襖が再び開いた。


「おい、閉めるかよ普通」


 再び現れた鎧男を前に、私は現実に引き戻された。

 本物だ、幻じゃない。

 私は本能に従って、断末魔の叫びを上げた。


「ぎゃあああああーー! 不審者あぁ!!」


 そして再び襖を閉めようと、両手でがっしりと襖を掴み、ぐいぐい押し戻す。


「お、おい、話をきけって!」


 私が閉めようとする襖を手で阻もうとしてくる。


「なんで変質者の話をきかなくちゃならないの、このバカ! 変態コスプレ野郎ぉ!!」


 悪態をつきながら尚も必死に閉めようとする襖を、筋肉マッチョ男が片手で掴み押し開こうとするではないか。私は周囲をキョロキョロと見回し、布団叩きを足で拾い上げた。

 そして布団叩きをつっかえ棒にして、襖を封印してしまう。

 するとどうだろう、男は諦めたのか、押し入れからはもう物音がしない。

 よし、勝った。

 うん、もう一杯飲むか。

 現実逃避というか、もう一杯酒をつごうとしたところに、玄関を開ける音がガラガラと響いた。


「おい、キヨちゃん、どうした大声出して!」


 私の断末魔の叫びを聞き付けた章吾さんが、様子を見に来てくれたらしい。

 そうだ、酒を飲んでる場合じゃなかった。ようやく冷静さを取り戻し、私は祖父の部屋から逃げ出して、玄関へ向かう。


「ああ、よかった無事だったか」


 心配そうな顔をした章吾さん。その後ろには節子さんまでいる。

 祖父の家はちょうど酒屋の裏手、坂を上がった先にある。おかげで障害物もなく一段下にある彼らの母屋に、私の叫びが筒抜けだったらしい。

 

「あの、ちょっと酔ってしまったみたいで、不審者が出た幻覚みちゃって」

「はあ? 幻覚?」


 あ、ちょっと言葉の選択を間違えたみたい。

 章吾さんと節子さんが、青い顔をして互いに顔を見合わせている。そして節子さんが章吾さんの影から出て、私に言った。


「キヨちゃん大丈夫? また倒れたのかと思って心配したのよ」


 その言葉に、私は凍る。


「ご、ごめんなさい、そんなに詳しく聞いたわけじゃないのよ、ゆきが……」

「だ、だいじょうぶですから」


 つい、声が震える。

 そりゃあ、知らない訳がない。ここは母の故郷で、祖父の家なのだから。働き盛りの若い娘が一人、亡くなった祖父の家に週の真ん中、盆休みでもない平日に泊まりにきたとなれぱ、誰もが疑問に思うだろう。

 言い訳を考える余地もなく、固まっていると、ふいに後ろから野太い声が。


「おお、章吾さん、節子さん、こんばんは」


 驚き振り返ると……そこに立っていたのは、さっきのガチムチコスプレ男。しかしその格好は鎧ではなく、見た覚えのある紺色の作務衣で……


「やあクロードさん、亀さんが恋しくなってまた来てたのか?」

「ああ、そうなんだ。しばらくはいつも通りに訪ねるのは、亀さんとの約束だから」

「なるほど。不審者って、キヨちゃんが驚いたのはお前か、あんまり突拍子もないことはしないでやれよ、年頃の娘さんなんだから」

「わかってます、心配をかけて申し訳ない」


 何が何だかわからない私を放置したまま、談笑するガチムチ作務衣と、酒屋夫妻。

 知り合いってことは、町の人間だったのか。

 でも、クロード?

 どこからどう見ても、黒髪黒目の平坦な日本人顔の彼が?


「じゃあ、あんまり長居するなよ」

「キヨちゃんも、飲みすぎないようにね」


 何故か全てに納得した夫妻が、笑顔で帰っていく。

 まって、私を独りにしないで。

 そんな思いで伸ばした手の先で、玄関がぴしゃりと閉まる。


「さあ、ちょっとばかり話をしようか、キヨ?」


 振り返ると、大きな口をにんまりと歪ませ、腕組みをしている筋肉鎧男あらため、作務衣男。

 明かりに照らされた彼の顔は、やっぱり傷痕だらけで、普通じゃない。

 なんで章吾さんたちは、コレに普通に接してられるのか。

 ねえ、じいちゃん。こいついったい誰なの?

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