第2話 弔い酒と傷

 荷物がさほどあるわけではない部屋なのに、大きな体であぐらをかいて上座に居座られると、六畳の部屋がかなり手狭感でいっぱいになった。

 筋肉マッチョ男は、にこにこしながら私の動きを目で追っている。

 私は酒盛り途中だったおちょこと酒を横にずらし、縁側を背にして彼の前に座る。


「あなたは誰ですか、祖父と知り合いだったことは分かりましたが、いきなり家に侵入していたことと、それとは別でしょう?」


 筋肉マッチョな彼は、私に向かって真顔になって背を伸ばし、それから深々と頭を下げた。

 曲げた膝の脇に両拳を握り畳につけて、背筋を伸ばしたまま頭頂を躊躇なく向けるその姿勢に、内心で「侍か」とツッコミを入れる。


「俺の名は、クロード。ここの襖を隔てて繋がる異界から来た、傭兵だ。キヨ殿の祖父である亀蔵殿には五年前から、月に一度ほど訪れて世話になっていた。亀蔵殿が亡くなられたのは、すでに聞き及んでいる。どうか俺にも弔いの祈りを捧げさせてもらえないだろうか」

「え、は……はあ」


 異界って……傭兵って。

 私は相当胡散臭いものを見るような目をしていたと思う。事実、彼が最初に着ていた鎧を思い出して、なんて手の込んだものかと呆れていたのだから。

 最近はコスプレイヤーも社会的地位が上がり、イベントの際にはよく見かけるようになった。そのような事を専任している人だろうか。

 だけど目の前のマッチョな作務衣男……もとい、クロードは、真面目な表情を崩すことなく私を凝視している。

 その姿に、私は生前の祖父の姿を重ねてしまう。

 いいだろう、今は詮索することはやめておく。目の前の彼にどういった理由があるか知らないけれど、頑固でありつつ人が真剣に取り組むことを嗤うことはなかった、そんな祖父の顔を立てる。

 亡くなった祖父を通じて、こうして顔を合わせただけ。ならば、今だけやり過ごせばいい。


「祖父と知り合いなのは、理解しました。章吾さんたちの反応を見れば、疑う余地はないもの。どうぞ、あなたの後ろにあるのが祖父の位牌です」

「かたじけない、先月も訪れたが、手を合わせることが叶わなかった」


 彼は振り返り、仏壇の前まで進み、そっと手を合わせて目を伏せた。

 四十九日が終わるまで、ここにはまだ祖父の位牌は置かれていなかった。葬儀に参列していないのなら、今日が久しぶりの祖父との再会となるのだろう。


「亀蔵殿、あなたと過ごした日々は、俺にとっては救いだった。あなたに出会えねば、俺は孤独に押し潰され、あの異界で独り狂っていたろう。忘れかけた言葉を教えてもらい、己を知ることができた。ありがとう、どうか安らかに」


 そう言って、遺影を見上げる彼の目には、涙がにじんでいるようだった。

 私は黙って蝋燭に火を灯し、箱から出した線香を一本、彼に差し出す。受け取ったものの戸惑った様子に、私は自分の分としてもう一本出して、火をつけた。そして振って炎を払い、煙が立ち昇るのを確認してから、灰に差す。鈴を鳴らして手を合わせて見せると、男は見よう見まねで繰り返して祈る。


「ありがとう、もうすっかりやり方を忘れていて……線香の香りも、懐かしい」


 感慨深い様子でいる彼に、私は疑問をぶつけてみる。


「ええと、クロードさんは、どういう経緯でじいちゃんと知り合いに?」

「さん付けはいらない、クロードでいい。亀蔵殿とは、かれこれ五年ほど前に出会った。この家で」

「五年って、ずいぶん前からなのね……そのわりに私と会ったことなかったわね。家? 町のどこに住んでいるの?」

「……異界だ」


 クロードは後ろの襖を指さし、そう言ってのけた。

 ああ、そう。まだその設定続けるんだ。私は肩をすくめながら、心の中でそう呟く。


「その作務衣、あなたが忘れていったんですね、じいちゃんのにしては大きいと思った。持って帰ってよね。ここはもう無人の家なんだから」

「無人? キョはここに住まないのか?」

「……なんで私の名前知ってるのよ」


 私がムスっとして聞けば、クロードは破顔しながら祖父が教えてくれたのだと告げた。


「自慢の孫娘だろう? キヨは才能があって東京でバリバリ働いてんだぞ、と亀蔵殿から聞いている」

「……そう」


 バリバリ働いていたのは、もう過去のこと。……というか、なにバリバリって、古いわよ。

 クロードは私の動揺には気づかなかったようで、大きな体を持ち上げて私の横を通り抜け、縁側に出た。そして私には背を向けたまま、あぐらをかいて月を見上げた。


「いずれ、孫娘に家を譲りたいと言っていた」

「それはないわ。私は、二週間お世話になるだけ。その後にこの家をどうするかは、伯父が考えると思う」


 話題を変えようと、祖父とあなたはどういう関係だったのかと、改めて問う。


「ここには満月の夜に来て、酒を酌み交わし、互いの愚痴を語り合った。最初こそ警戒しあったものだが、すぐに亀蔵殿は俺のためにこの作務衣と温かい風呂、それから酒と肴を用意して、待っていてくれるようになった」


 私は、避けてあった盆を引き寄せた。

 よせばいいのに。そんなこと考えながらも、じいちゃんを思い出して涙してくれた怪しい男に、杯を差し出す。

 そんな私の動きを読んでいたかのように、クロードという男はゴツゴツとした手を伸ばし、断る素振りもなく杯を取った。私はそこに酒を注ぐ。


「ありがたい」

「酒は線香と一緒よ、じいちゃんだもの」

「……確かに」


 クロードは微かに笑い、一度祖父の遺影に杯を掲げ、それからぐいと酒を煽った。

 そして杯を置き一息つくと、しばらく何も言わず押し黙ってしまった。

 どうしたのだろうと見守っていると、左の脇腹を手で押さえて、小さく呻いている。


「ちょっと、どうしたの?」

「すまん、先日ヘマをしてしまった……今日は酒が少々身にしみる」


 大きな背中が微かに震えているのに気づき、彼の押さえる脇腹を凝視する。月明かりがつくる影のなか、更に濃い黒が紺の絣に広がっていた。

 何がどうしたのか分からず、私が固まっていると。


「すまん、キヨ。傷口を洗いたい、風呂場を借りられるだろうか」

「傷口? まさかあなた、怪我をしていたの?」


 私が手を伸ばすより先に、クロードは作務衣の上をはだける。隆々と逞しい筋肉をまとった肩、そして背中。裂傷の痕がいくつも走り、彼が押さえる左脇腹には黒いものがこびりついていた。

 押さえる彼の太い指の隙間から、鮮やかな赤が滲んだ。


「す、すぐに手当てを!」


 慌てて立ち上がり、救急箱を取りに行こうとした私を、クロードは止める。


「いい、まずは洗わせてくれないか? 血糊が張り付いていたところを慌てて鎧を脱いだせいもあり、傷が開いたのだろう。とはいえ、かすり傷だ」


 かすり傷と聞いて、少しだけ冷静さを取り戻す。


「わ、わかった、こっちが浴室よ」

「大丈夫、知っているから」


 のっそりと立ち上がり、躊躇もせずに居間を抜けてキッチン奥の浴室へ向かうクロード。その横顔は最初に会ったときと同じで、もう痛みに歪んではいなかった。

 驚いた余韻か、私はただクロードの傷跡だらけの背中を見送り、呆然としたままだった。

 はっとして気を取り直したのは、浴室からシャワーの水音が聞こえてきたせい。


「そ、そうだタオル」


 慌ててバスタオルを用意して、それから救急箱を探す。確か押入れの下段奥になにかあったような。

 そう考えて押入れを開けると、真っ先に目に入ったのは、無造作に置かれた鎧。


「ここに脱いだものを置いていたのね」


 呆れつつそれらを押し退ければ、思っていたよりも重く、びくともしない。本当に金属でできているらしく、細部の金具が所々錆びているし、ご丁寧に土汚れもついていた。


「最近のオタクは、ずいぶんな懲りようね。よいしょっと」


 思いきり力を入れて押し退ければ、手にはぬるっとした感触が。

 今度は何? そう思って掌を広げれば、べっとりと赤黒い液体。

 ……これって、血だ!

 今度は悲鳴すら上げられず、私は真っ青になって浴室へ走った。

 磨りガラス越しに黄色味の明かりが透ける、すりガラスの扉を開けた。


「ちょっと! なんて酷い怪我してるのよ!!」


 傷口を洗うってレベルなの? 場合によっては救急車……いいえ、この山間部じゃ下手したらドクターヘリのお世話にならないと間に合わないかもしれない。

 しかし扉を開けた目の前で、素っ裸で脇腹にシャワーをあてる筋肉マッチョが、きょとんとした顔でこう言ったのだ。


「どうした、キヨも風呂に入りたくなったのか?」


 シャワーヘッドから出る水が、彼の大きな傷に触れて、赤い色水となって逞しい太腿を伝い、タイルから排水溝へと流れている。

 もう一度視線を上げた先に、ざっくりと割れて晴れ上がった傷口が。


「いやぁ……むぐ!」


 あまりの状況に悲鳴をあげようとしたら、大きな手で口を塞がれた。


「大丈夫だから、騒ぐな。また章吾さんとせつさんがやってくるぞ」

「……ふごむご!」


 持っていたバスタオルを彼に叩きつけて、濡れた手から逃れた。


「驚かせないでよ、もう! 本当に大丈夫なの?」

「ああ、いつものことだから。それより傷だけじゃなくて、全身洗わせてもらってもいいか? 一週間ほど風呂に入ってないんだ」


 はあ?

 にこにこと微笑みながら、そう言うクロードに、首を横に振る。


「や、止めた方がいいって、傷に石鹸はよくないし」

「大丈夫だって、こう見えてもふさがり始めてるし、濡れてるから血が多く見えるだけだから。心配ならキヨも一緒に……」

「っ、入るか、馬鹿!」


 私はバスタオルを彼に投げつけて、浴室の扉を勢いよく閉めた。

 なんなの、ふざけて! 

 怒りのこもった足音をたてながら、私は祖父の部屋に戻って、ドサリと座る。そして酒を注いで、一気に飲み干す。


「心配させといて、なにあの態度! とんだエロマッチョじゃないの」


 鼻息荒く杯を置いたのと重なって、炊飯器が陽気な音を奏でる。

 引き寄せられるようにキッチンに向かい、炊きたてのご飯を茶碗によそう。そこに煮詰めた山菜をかけてから、お茶を用意する。それらを盆にのせて、縁側に戻り私は遠慮なく手を合わせた後、ガツガツとご飯を口にかき込む。

 お客? 知ったものですか。

 何があってもお腹は空くし、ご飯は美味しい。開き直りともいうけれど、食いしん坊の亀蔵の孫だから、しかたない。

 最後の米粒ひとつまで口に掬い入れ、お茶を飲み干したところで、みしりと畳を踏む気配。


「美味そうなもの食ってるなあ」


 振り向けば、クロードがタオルで頭を拭きながらやってきたところだった。

 下は作務衣のズボン、上半身は裸のまま。


「薬箱、借りていいか?」

「どうぞ!」


 彼は出してあった救急箱を持って座ると、箱の底の方から大きめの透明な傷用シートを出した。すると慣れた手つきでシートを切り、脇腹の傷を覆うように張り付ける。

 そんな便利なものが祖父の救急箱に入っていたとは……所詮ガーゼに包帯くらいしか入っていないだろうと思っていたのに。


「ずいぶんと手慣れてるのね、異界の戦士さんなはずなのに」

「使い方は亀蔵殿に教わった。怪我を負ってここに来ることが多かったから。常時用意してくれるようになってたんだ、この世界の道具は、実に便利だな」

「……ふうん」


 いったい何をしたらあんな傷を負うっていうのだろうか。まさかヤのつく危ない職種の人間だったらどうしよう。

 そんな心配がもたげたところで、救急箱を閉じたクロードが、再び私に頭を下げた。


「服は血で汚してしまった、すまない」

「いいよ、すぐに落とすから」


 私は彼の手元にあった箱からオキシドールを出して、彼が差し出した作務衣の上着を持ってキッチンに行く。血で汚れた部分にオキシドールをかけて、しばらく泡立つそれを眺めていると。


「凄いな、なんだそれ?」

「血は、消毒液でよく落ちるのよ」


 泡立ちが収まったのを確認して、その部分だけを水でゆすぐ。軽く指で摘まんで絞ってから、ドライヤーで軽く乾かしてクロードに渡す。


「もう綺麗になったのか、凄いなキヨは」


 喜んでクロードは作務衣を羽織る。

 善意なんかじゃない、放っておいたら着るものなくて裸でいるしかないからよ。このマッチョが着れるような服なんて、他にないもの。

 目に毒なのよ、その筋肉は。

 それに……と、浴室での一糸纏わぬクロードの姿を思い出し、慌てて頭を振る。忘れろ、キヨ。あれは事故だから。

 私がドライヤーを片付けに行って戻ると、すっかり怪我の痛みが引いたのか、キッチンをうろうろしている筋肉マッチョ。ふらふらと、炊飯器から立ち上る湯気に顔を寄せる。


「美味そうな匂いがする、食っていいか?」

「……図々しいというか、なんというか。もう少し悪びれたらどうなの?」

「遠慮なんかしてたら、飢え死にする世界に暮らしてるからなぁ」


 まだ言うか、それ。

 呆れつつも、私は戸棚からもうひとつ茶碗を取り出す。それを了承と受け取ったクロードは、慣れた様子で引き出しから箸を持って、盆に置く。

 箸もスプーンも長いものはみな、立てずに引き出しへ仕舞う癖のある祖父だった。その場所を探すどころか、あまりにも迷いのないクロードに、私は降参するしかない。

 孫である私の知らないうちに彼は確かに、祖父とここで幾度ともなく時間を共有し、心を交わしたのだろう。

 私は湯気のたつ白米を茶碗によそい、山菜の煮物をのせる。それから余っていた豆腐を皿に分けて、自分にしたのと同じように、茗荷とおかかを振りかける。それらを持って、縁側に出たところで、私の鞄から着信音が鳴り響いた。


「なんだ?」

「電話、そのうち切れる」

「……出なくてもいいのか?」

「いい」


 留守電にすぐに切り替わり、音は止まった。音信不通にするとよけいに煩いと踏んで、留守電設定にしておいたのだ。

 私が無視して縁側に座ると、クロードもまた横に並び、茶碗にお茶をかけ回す。

 きっちりと手を合わせ、茶碗にむしゃぶりつく、筋骨隆々な自称傭兵のクロード。

 私はというと、この珍客を横目に、月見酒だ。

 昨日まではイレギュラーな客、クレーム、鳴り止まない電話と、繰り返される不毛な打ち合わせ。そんな思い通りにならない日常から逃げてきたのに、目の前の筋肉マッチョの世話を焼いているこの状況は、どうなのか。

 今までも、自分の思うようにいかない事なんて、山ほどあった。

 そんなことは仕方ないと、割りきっているつもりだったのに、あの日はどうにも我慢がならなくて……許せなくて爆発してしまった。

 もうなにも我慢したくない、私は私のためだけに生きる決意をしてここに来たのに、また振り回されてる。

 この、にっこりとおかわりの茶碗を私に差し出す、筋肉馬鹿に。

 でも──今はなぜか、それを許してしまっている。

 どうしてだろう。

 まあるい満月の下、勝手に酒のおかわりを注ぎ始めた彼の手をはたきながら、私はそれがとても不思議でならなかった。

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