第11話 軒先の主と正しい線引き
「ところで、なんでキヨはここにいる? 仕事は?」
涙と鼻水と米粒を顔につけた男に、そんな言い方をされるいわれはない。
私は手にしていたガラス製のお猪口を置いて、彼に説明する。
「三日前に越してきたの、今はここが私の家。もちろん賃貸だけどね」
クロードは驚いた様子で周囲を改めて見回した。祖父の簡素な部屋は、私が持ち込んだ荷物ですっかり様変わりしていたのだが、今まで気づかなかったらしい。
祖父母の仏壇は一旦隣の居間に移り、木製文机の隣には、パイプ棚を設置して作業用のPCやらプリンターが収まっている。資料用の棚も並べてあるから、ただでさえ狭くなった部屋に私と
クロードは口元を袖で拭い、側に置いてあったファイルからはみ出していた、確認のためにプリントアウトしてあったイラストを眺めた。
「まさか……仕事、辞めたんじゃないだろうな?」
「会社は辞めたわね。でも仕事は続けて……」
クロードは私の言葉が終わる野を待たずコタツを出て、襖を隔てた隣に見える、祖父の仏壇の前に行き正座をすると、そのまま頭を下げてた。
いわゆる土下座だ。
「すまない亀蔵殿、俺が愚かだった、申し訳なかった!」
「ちょっと、なにを言い出してるのよ?」
祖父の写真に向かって手を合わせるクロード。
「やっぱり俺は、ここでキヨに会うことがないようにするべきだった。そうすればキヨはまだ東京にいたはずだ」
「べ、別にあんたのためにそうしたわけじゃないわよ、自分のため。勘違いしないで」
振り返るクロードの黒い瞳が、本当なのかと言いたげにじっと私を見る。
「いつかは独立して、自分で仕事をしたいと思っていたのよ。タイミングが思っていたより早くなったけど。それを後押ししてくれるような仕事の流れもできて、思い切れたの。幸い、ここでも私の仕事はできる」
「でもそれは、最善ではないだろう?」
クロードの言葉に、胸を突かれた気がした。
「そりゃあ、そうだけど。私が住まなかったらすぐに取り壊されてたかもしれないんだよ、この家。クロードはそれでもいいの?」
「そうなったらなったで、仕方がない」
動揺する様子もなく、言葉を返された。
「嘘よ、この家がなくなったら、二度と帰ってこれなくなるかもしれないよ?」
それだけじゃない。クロードも私同様、祖父との思い出を大事に想っていてくれていたのだと思っていた。それはここが転移の拠点であってもなくても……
でもそれは、私の独りよがりだった?
「私は、じいちゃんの思い出をまだ失くしたくない。だから今回のことは、ちょうどいいと思った。少しの間でもいいから、時間が欲しかったの。そうしたらもっと納得のいく形で、じいちゃんと別れられると……でもあんたは違ったんだね。じいちゃんの家なんて、どうでもいいんだ」
いつの間にかクロードのことを、祖父と時間を共有した仲間のように、勝手に思っていた。
「キヨ、そういうつもりで言ったわけじゃない」
クロードは仏壇の前から戻ってくると、ふて腐れるように俯く私の側にやってきて、空いた私のお猪口に酒を注いだ。
「亀蔵殿の家は、俺にとってもかけがえのないものだ。でも俺に口出しをする権利はない。もう充分だ。五年、亀蔵殿には返せないくらい良くしてもらった。この家は、亀蔵殿の家族に一番いいようにするべきだ。亀蔵殿もそう望んでいる」
「でもじいちゃんはあんたのこと、章吾さんと節子さんに頼んでいったよ、それって……」
「温情でできることと、そうでないことがある」
祖父は私たちのことだけでなく、クロードのことだって心配していた。けれども食べ物には遠慮ひとつ見せないくせに、それ以外での線引きは正しすぎて、かえって苛立ちが募るも返す言葉が見つからない。
クロードは自分の盃にも酒を注ぐと、窓の外、暗い雲の隙間から見える月に掲げてから、一気に煽った。
「でも、ありがとなキヨ。この満月も、おかげで命を繋げられた。キヨがいてくれたから、また戦える」
そういうクロードの表情は、いつもの人懐こく明るいものに戻っていた。
涙と鼻水をこぼしながら、声を殺してご飯を口に掻っ込んだクロードは、どこにも見えない。あれはきっと、私の知りえない世界のクロード。
ほんの刹那の訪れだから、剣だけでなく心も、こちら側に持ち込むつもりはない、そう告げられたような気がした。
そうよ、彼はすぐ帰るんだもの。
私は立ち上がり、キッチンに向かった。
炊きあがった炊飯器の蓋を開け、自分の茶碗に炊き立てのご飯をよそう。真白い米と湯気を眺めながら、私は気持ちを切り替えることにした。
「私はあんたのせいで、お腹空いて倒れそうよ」
私はご飯を盛ってコタツに戻り、少しぬるくなった茸汁をその上からかけた。湯気を立てていたご飯をほどよく冷ましつつ、とろりとした汁が白い米の上を滑っていく。
クロードが目を輝かせてこちらを凝視しているのを分かった上で、箸と茶碗を持って口に放り込む。朝から時間をかけてとった出汁がよく効いていて、ご飯がすすむ。
次々と口に運ぶ私に釣られて、クロードの喉仏が大きく上下した。それを見ていたら、なんだか溜飲が下がる。
「……欲しいなら、自分でよそいなさいよ」
空になっていた茶碗を抱え、大急ぎでキッチンに向かう大きな背中を見送り、自然と笑いがこみあげてくる。
真剣に考えてしまった自分が、馬鹿みたい。
祖父に倣うのがいいのだ。雨に降られた旅人と、軒先を貸す家主。雨が止むまで世間話をして、雲が晴れれば振り返りもせずに別れる。それが正しい関係なのだ。
♢♢♢
ふと気づくと、コタツの上はすっかり綺麗に片付けられていて、そこに突っ伏して寝ていたことに気づく。
あれから魚と章吾さんが用意してくれたにごり酒をクロードと飲み合い、相当酔っぱらった末に寝てしまったようだ。どうも最近は、酒を飲みすぎると眠くなってしまう。
片づけられた部屋には、クロードの姿はない。もう帰ってしまったのだろうかと見回していると、縁側のガラス戸の向こうに人影が見えた。
私は丁寧に肩にかけられていたカーデガンに袖を通し、縁側に通じる窓を開けた。
「キヨ、起きたのか」
「うん」
「どうもキヨは眠り上戸だな」
うっすらと白く積もった雪の庭に、クロードは突っ立っていた。
厚手のスウェットを着ているとはいえ、深夜の刺すような冷たい空気のなか、裸足でサンダル姿だ。
「いつの間にか、すっかり晴れたんだね」
「ああ、いい満月だ」
私はカーデガンの合わせを抑えながら、高い位置の月を見ようと、縁台から身を乗り出す。
「そんな格好だと風邪をひくぞ」
「コタツとストーブで少しのぼせたみたい、空気が気持ちいい」
「そうか」
クロードもまた、空を見上げる。
電灯もろくにないから真っ暗な山と、散りばめた星と輝く月が対照的な田舎の夜空。耳が痛いくらいの静寂に溶け込むクロードとは違い、静けさに耐えられなくなるのは私が都会育ちだからだろうか。
「……そういえば、戦争は終わったの?」
静寂を破るための会話は、何でもよかった。答えたくないことは、きっと彼ははぐらかすだろうから。
でも案外、すんなりと返事が返ってくる。
「ああ、快勝といっていいだろうな。あの後すぐに終結した」
「それなのに、今は逃げてたの?」
聞き返してから、私は口にしたことを後悔した。
けれどもクロードは嫌がる様子もなく、小さく笑った。
「俺たちがついた国が勝ったんだが、そこの王様がうちの傭兵団をいたく気に入ったらしくて、しばらく常駐することにしたらしいんだ、
「あなた、やっぱりまだ育てのお父さんと一緒にいるのね」
胸糞の悪い養父。クロードにとっては命の恩人になるのだろうけれど、私の印象は最悪だ。
「常に行動を共にしているわけじゃない。あちこちに兵を派遣する元締めみたいなものだからな。だが今回取引した国に、養父は腰を落ち着けることにしたらしい」
「その傭兵団をやめて、引退でもするつもり?」
「そうだったらよかったが、むしろ逆だな」
どういう意味なのか分かりかねていると、クロードは言葉を選びつつ続けた。
「俺たちは紛争地を渡り歩くし、仕事をひとつこなせば、
「じゃあ気に入ったなんて言われたら、喜んじゃったってこと? 案外かわいいとこあるんじゃない、お
するとクロードは苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「俺たちを気に入るってことは、使い道があるという意味だ。まだ続ける気なんだ、その王様は」
「何を……って、まさか戦争を?」
「そうだ。そのために、何でも利用する。うちの
「じゃあクロードを追ってきた相手って……」
「正確に言うと逃げてるのは俺じゃないけど、追っ手は
クロードの話はいつだって現実離れしていて、私の
「俺はもともと養父にとって、都合のいい道具だったろうし、俺にとっての養父も似たようなものだ。なにされても、まあそんなもんかと思ってた。だが……」
「なにが、あったの」
「養父は狂った。傭兵をやめてあの好戦的な王を操り、小国を乗っ取る気だ」
突拍子もない展開に、私は返す言葉もない。
クロードはそんな私の様子に気づいて、縁側に戻ってきて横に座って黙り込む。あまりにも
「この際だから、話してすっきりするなら、話しなさいよ」
私は彼の袖をつついて、続きを促す。
ここは真実、雨の日の軒先と同じ。雨の代わりに降り続けるのは月の明かり。
彼が苦痛でなければ、通りすがりとして聞いてやってもいい。まったくあちらの世界とは利害関係のない私だからこそ、できることなのだから。
「国王には、一人だけ姫がいる。彼女を養父の養い子のだれかに差し出させて、結びつきを強めるつもりだったらしい」
「養い子?」
「養父の子は、俺を含めて五人。どれも拾い子だ。もっと本当は大勢いたらしいが、生き残って養父の仕事をしているのは、五人。俺は特に待遇が良かったと思う、幸運の持ち主だからな」
周囲を幸運に導く不思議な子供。それが事実なら、そりゃあ戦争では大事にされるだろう。クロードの意思がそこになくとも、養父は離さないに違いない。
そこまで考えて、はっとする。
「まさかその相手って」
「俺が、姫の伴侶に選ばれた。だが俺は拒否するだろうと思われてたのか、気づいたらまんまと城に幽閉されていて、姫を無理やりでも自分のものにするよう言われた。それまで一切知らされてなかった。そのとき養父は言ったよ、ここで役に立たなければ俺はいらないと。飢えて死ぬか、傀儡として姫の横に立って生きるかどちらかだと」
「……ひどい」
「養父は恐れているんだ。自分が年老いて、俺の幸運や養い子の力に頼らずに、新しい戦場で生きていくのはもう無理だと悟っている。だからこそ今持っているものは、人に渡したくない。渡すくらいなら、自分の手で潰すつもりなのかもしれない」
「なんて勝手な人」
私の憤りに、クロードは白い息を吐きながら笑った。
「姫はさ、なんであの
「じゃあリコって人がその姫……?」
「いや、違う。リコってのは仲間の傭兵で、養父の子の一人。俺は監禁されてる間、ろくに飯食ってないから、姫さんの護衛はそのリコに任せて、追っ手を引き付ける役を買って出たんだ。だが、やはり踏ん張りがきかなくてな。馬もろとも雪で滑って落ちた」
いやあ、危なかった。俺じゃなきゃ死んでるな。そう笑うクロードに、私はあきれ果てる。
そしてクロードがやつれて見えたのは、本当に何も食べてなかったせいだと分かり、ため息しか出ない。大怪我の次は、飢え死にの危機って、どんな人生よ。
「でも、どこに逃げてるの、行先のあてはあるの?」
「山を越えると国境がある。その先には理性的な王が治める、比較的治安のいい国がある。そこで姫をいったん保護してもらうつもりだ」
あてもなく逃げまどっているわけではないと知り、関係ない立場ではあるけれども、ほっとする。
「じゃあ、無事に戻って合流すれば、逃げ切れるのね」
「まあ、簡単じゃないが、そういうこと」
簡単じゃない?
「俺の仲間はリコだけじゃない、簡単に捕まることはないとは思うが、同時に追ってもまたかつての仲間だ。互いに手の内を知り尽くしている」
「ねえ、そんな状況ならクロードは一刻も早く、仲間の元に戻りたいんじゃない? なんとかならないの?」
驚いたように私を見るクロード。
「どうしたの?」
「いや……キヨは無茶を言うなと思って」
「なにそれ、心配してあげたのに」
私が声を荒げると、クロードは「寒い、寒い」と逃げるように縁側を上がってしまう。
なにか都合の悪いことでも言ったかしら、私。
考えてみてもよく分からない。だがふと疑問がわく。クロードはいつもこちらに来てから、どこに戻っているのだろう。もし決まった場所ならば、自ら罠にかかりに行くようなものじゃないだろうか。
「冷えるから、キヨももう入ってこいよ」
ストーブの前で背を丸めるクロードに促され、私は窓を閉めた。
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