五の月
第27話 友の死と絡みつく運命
五月の連休が終わって数日後に、満月がやってきた。
その日は珍しく暖かく、そろそろ暑い季節のための準備をと、あさがおの種を鉢に植えた。伸びてきたらすだれ代わりに、ツルを誘導するのもいいかもしれない。
そういえば、クロードが最初に来たのが六月の梅雨の時期とあった。彼がこの家に来るようになって、六年ということか。
そんな物思いにふけっていると、押し入れの奥から大きな音がした。
きっとクロードだろう。
縁側から部屋に入ろうとすると、うめき声が聞こえた。慌ててサンダルを脱ぎ捨てる間も、襖は開く様子がない。
「クロード、開けるよ?」
襖を押し開けると、私は絶句する。
傾きかけた日差しの影になった押し入れの中で、うずくまっていた赤い塊が顔をもたげ、光る隻眼が私に向けられた。
「……クロード?」
彼のまとう鎧は赤黒く染まり、体を伝って押し入れの板に血だまりをつくり、ぽたりと私の足元まで滴っていた。
「ひっ……」
私はその姿に叫びそうになり、両手で口を覆い、必死に耐える。
「い、いま、水嶋先生を……」
ふらつきながら後ずさりすると、影の中から大きな手が伸びて、私の腕を掴んだ。
「いい、呼ぶな」
「でも、怪我が!」
「俺の血じゃない!」
ギラギラと燃え盛るようだった右の目が、揺れる。そして同じ言葉を繰り返した。
「俺の血じゃない。リコの……血を浴びた」
「……え?」
私をつかむ手から、震えが伝わる。そして私を離し、クロードは血だらけの手で頭をかきむしる。
「守れなかった……俺のせいだ。リコが……俺をかばって、リコが」
「な……」
悲しみと後悔でいっぱいなのか、クロードはうずくまったまま動こうとしない。ただリコの名を呼び、すまないと謝り続ける。
そんなクロードを放っておくことなどできず、近寄ると。
「触るな、キヨまで血で汚れる」
止めようとする言葉など聞こえないふりをして、私は両手を広げ、血まみれのクロードを抱きしめた。
「キヨ、よせっ」
むせかえる血の匂いは、生理的嫌悪とともに、喉に酸いものをせりあがらせる。彼に触れる腕が、寄せる頬が、服が赤く染まっていくけれど、そんなことは全部どうでもいい。
彼を絶対に離してはいけない。そればかり考えていた。
「やめろ、キヨ」
「汚れない。この血があなたを守って流れたものなら、私も一緒にかぶるから」
「……キヨ」
驚いたように私を見るクロード。今度こそ、ようやく目があった気がする。
「とにかく、このままでいてはいけない。洗い流そう、来て」
まだ震えるクロードの手を引き、風呂場に移動した。
とにかくシャワーから湯を流しながら、二人とも突っ立ったまま彼の血を流す。かけてもかけても溶け出してくる赤に、どれほどの血を浴びたのかと悲しくなる。
彼の鎧の外側だけでも流し終えた頃には、私の体についた血もすっかり落ちてしまっていた。
「鎧、外すね」
そう言って彼の脇部分の金具に触れると、ようやく大きな手が動き、自ら外していく。中の服があらわになると、そこからまた新たな血が流れ、再び濃い色の水が排水溝に流れていった。
人間は、どれほどの血が流れても生きていられるのだろう。
「もうこのまま全部いっぺんに洗っちゃおうか。手早く済ませて、ゆっくり休もう?」
私は笑顔を作りながら、シャンプーを手に取って、背の高い彼の頭に手を伸ばす。
「すまない、キヨ」
「なあに、謝ることなんて一つもないじゃない」
泡をたてた髪にひっかかる眼帯を、そっと外した。すっかり癒えてはいるけれど、まぶたを裂いた傷はそのまま痕となって残っている。そしてシャワーで流せば、服の方もかなりに血が落ちてきていた。
そうして目につく血が薄れる頃、クロードがぽつりと呟く。
「リコは首をやられた、きっともう助からない」
彼が受けたであろう血の量で、それはさすがに私にも察せられた。
私が黙って頷くと、クロードは続ける。
「裏切者が入り込んでいて、最初は俺が狙われた。不意をつかれて、俺が死ぬはずだったんだ。キヨのことが頭に浮かんだが、正直もうダメだと思った。でも気づいたらリコがかばってて。剣が、まるで狙っていたかのように、リコを斬り裂いて。なんで俺のことなんかって、ふがいないのは俺なのに。どうしてリコが死ぬんだと」
「うん、悲しいね」
どんなにクロードは悪くないと言っても、彼ははきっと受け入れないだろう。
「誰も死なないのが一番いいのに。悲しいのは、辛い」
「キヨ」
「でも同じくらい、私はリコに感謝しようと思う。勝手だと思われるかもしれないけれど、私にクロードを返してくれた」
濡れた服のまま、クロードが私を抱きしめた。
出しっぱなしのシャワーがクロードの背を濡らし続け、彼から伝う水が私に落ちる。そんな滴が、彼の涙のようで私も辛く、ただ抱き返すくらいしかできなかった。
それからしばらくしてクロードは落ち着きを取り戻し、顔を赤く染めながら私に背を向ける。その間に私は服を脱いで、自分の身をきれいに石鹸で洗い清める。そしてクロードを残して、風呂場を後にした。
クロードが出てくるまでに、急いで押入れなどの滴った血を古いタオルでふき取り、消毒をする。赤く染まったタオルは、そのまま捨てるとさすがに問題がありそうなので、いったん洗ってから、明日にも庭で焼却してしまわないと。幸い、剪定した枝を焼却するための祖父の簡易炉が、まだ残っている。
それから食欲があるかはわからないけれど、クロードに食べさせるものを簡単に用意しようとキッチンに立つと、思っていたよりも早く出てきたクロードに捕まった。
またしても軽々と抱えられるようにして、部屋に移動する。
「ねえ、ごはんは?」
「いらない」
「お酒は?」
「今はいい」
「髪の毛、乾かしてこなかったの?」
「そういうキヨも濡れてる」
仕方なくドライヤーを持ってきて、部屋で互いに乾かしあう。
冷えた部屋も身体も温まって、二人で身を寄せ合うようにして座ると、ぽつりぽつりとクロードが話しはじめた。
周辺国への根回しも済み、南側と北側との両方から攻め入り、かなり戦況がよかったこと。それから養父との最後の話し合いで眼を失ったときに、助けてくれた仲間とも合流できたこと。その仲間のうちに裏切者がいたこと。裏切者は当初クロードに襲いかかったはずが、リコがクロードを庇ったとたんに、最初から狙っていたように刃をリコへ向けたことなど。
時おりクロードは、窓の外に登った満月を、苦しそうな顔で見上げた。
リコは首を切られてほぼ即死だという。逃げる裏切者を追いかけ、捕まえたはいいが毒を飲んで死んだ。ただ、クロードを苦しめる言葉を残して。
「養父はまだ、俺を諦めてないんだそうだ。俺を苦しめ自分の元におびき寄せるために、大事な物を奪う。それだけのために、騙して信用させて、俺を襲うふりをしてリコを殺したんだ。獲物を狙うまさに
「サーウィス? ……赤い、鳥」
それまでずっと聞き役に徹していたが、その言葉にひっかかりを覚えた。
「どうした?」
「ねえ、養父がクロードに執着しているのは、なぜ? リコだって養子にした一人で、お姫様の伴侶になったのなら、リコを味方にした方がいいじゃない」
「……分からない。俺が幸運を持つ者だから、としか」
「どうして幸運を持つの? 異世界人だから?」
「それは……」
「月鏡の伝承と縁があるから?」
クロードは驚いた顔をして、私を見る。
「実は、神社の宮司さんから見せてもらったものがあるの」
私はスマホを持ってきて、保存してあった写真を開いてクロードに見せた。
それは最初の鳥の面を描き写した図。赤く塗られた嘴をもつ顔。大きくくりぬかれた目をもつ、木彫りの鳥。
「これが、最初に使われた鳥の面だったの。たぶん、天人様の持ち物だったんじゃないかって」
クロードは画面を凝視したまま、言葉を失っている。私はそんな彼の目の前で、次の写真を出す。裏面の写し絵だ。
それを見た彼が、ひどく困惑しているのが分かる。
「読める?」
そう聞けば、クロードは声を震わせて言った。
「愛する妻と息子にこれを残す。二人にすべての幸運が与えられることを望む……サーウィス……王?」
きっと天人様が向こうの世界の住民だったのではと、疑ってはいた。けれども、まさかここでクロードの養父の一族の名が出てくるとは、夢にも思ってはいなかった。
だから聞き返さずにはいられなかった。
「それ、間違いない?」
「少し、スペルが違うところはあるが、間違いなくそう読める。なんなんだ、これは……本当に、この世界にあったものなのか?」
「ずいぶん昔に、実物は焼失してしまったけれど、古い写しの記載があったのを、宮司さんが見つけてくれたの」
クロードは「そうか」と言って、再びスマホの画像に目を落とし、考えこんでしまった。
そういう私も、混乱したままだ。だってクロードが読んだ言葉の通りなら、天人様と翁の娘との間に、息子がいたということになる。もしその子が生きて、子をもうけたのが各務家なら、クロードも天人様の血を引いていることではないか。
「昔から、養父が酔うと口癖のように繰り返す言葉があるんだ。『俺は幻の国の王の血をひく。いずれ国が再興され俺の前にすべてがひれ伏す』と。なんの妄想に取りつかれているんだと、誰も本気にはしていなかった」
「幻の国?」
「ああ、昔のことではっきりしてないらしいが、一夜で滅んだ国があったそうだ。不思議な力に守られた国で、とても繁栄していて、争いもなく、平和な国だったらしい。だがあるとき国王が亡くなった晩に、国も滅んだらしい。童話のような伝説しか残っていないらしくて、幻の国。誰も本気にはしていないようだった」
だが──とクロードは呟く。
「最後にあるこの文字は、王を示す言葉なんだ」
クロードはスマホの画像を拡大し、見たこともない文字の綴りを指で示した。
「もしその亡くなった王がサーウィスで、死んだのではなく、不思議な力とともに世界を越えていたら……養父の言葉は嘘とも言い切れない」
月を見上げるクロードの顔が、再び険しくなる。
「やはり、直接会って、確かめなければならない。これ以上、あいつの思い通りにならないためにも」
「クロード……罠かもしれないのに?」
「それでもだ。養父には、知っていることを、洗いざらい吐かせる。この世界との繋がりも、三百年前のサーウィスを名乗る男のことも、すべて。そしてリコの命を奪った罪を、贖わせる」
そう強く言い切ったクロードの心が、異界に傾くのを肌で感じ取り、ふいに不安にかられた。
今は大事な親友を失ったばかりで、クロードが冷静でいられないのは、当然のことだ。彼の抱える喪失感と後悔は、痛いほど分かる。けれども彼をこちらの世界に戻そうとする私を嘲笑うかのように、運命は彼を離してはくれない。
気づけばしがみつくように、彼を掴んでいた。
そんな私の不安を読み取ったのか、クロードが私を覗き込むようにして顔を近づける。
「キヨ……不安にさせてすまない。だが、必ずケリをつける」
「ううん、分かってる。私はずっとここで、変わらず待つから」
私は大丈夫。そう自分に言い聞かせて、クロードに唇を寄せた。そしてクロードの露わになった、二度と開かない左目をそっと撫でる。
「今なら、鏡を隠した娘の気持ちが、分かる。天人様は、そんな娘のこと、愛してたのかな」
クロードに手を引かれ、頭を支えられながら、そっと組み敷かれる。
「分からない。だが妻と子を残して、もし元の世界に戻ったのならば酷い男だろう。娘の家は罰まで与えられ、村に住めなくなった。男は恨まれても仕方がない」
クロードは、天人様と自分の境遇を、重ねているのかもしれない。
私は、しかめ面なクロードに再び手を伸ばす。
「きっと、わけがあったのよ、今のあなたのように」
もう本当のことを知る術はないけれど、妻子を想う言葉まで疑いたくない。
「俺もそう思いたい」
「……うん」
いつの間にか私たちの間に距離がなくなり、抱きしめ合う。
ドキドキと強く打つ鼓動が、自分のものなのか、それともクロードのものなのかわからなくなった時だった。
「キヨちゃーん、いる?」
玄関の引き戸が開く音とともに、節子さんの声が家中に響いた。
反射的に離れて起き上がり、私たちは互いを見比べて、苦笑いだ。
「キヨちゃん、いないの~?」
私は乱れた髪を整えながら、玄関に向かって声を張る。
「います、今行きます」
「せつさんなら、俺が出るよ」
そう言って、クロードが素早く立ち上がり、玄関に向かう。それを、いまだ鎮まらない拍動に胸を抑え、見送る。
すぐに、遠くで二人が談笑しているのが聞こえてきた。きっとたくさん煮たゼンマイを、お裾分けに来てくれたのだろう。
あのまま、節子さんが来なかったら、どうなっていたのだろう。そう考えるといたたまれなくなり、私は逃げるように洗面所に向かう。そして濡れたままで放置していた服を、洗いはじめたのだった。
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