第3章

七織/廃屋に来訪者、涙は雨粒に

 三葉エレクトロニクス――名前をそのままに表す三つ葉のロゴマークのついたトレーラーの運転席で、フロントガラスに当たっては砕ける雨粒がワイパーに掻き消される様を眺めながら、四宮雄一は幸福な気分だった。


 同僚達からは上せている、惚気の極みなどと散々揶揄されるが、それで幸福が揺らぐことはない。雄一は今紛れもない人生の絶頂――幸せの中にあった。


 理由は月並みで、特別なことなどまるでないありふれた出来事。


 子供が生まれたのだ。


 実際に体験してみるまで雄一自身もそれは大したことでは無いと考えていたのだが。それは大間違いだった。


 ハンドルから手を離し、財布を取り出す――完全に自動で運転されるナビゲーションシステムの搭載されたこのトレーラーは、雄一が一切操作する必要もなく安全に目的地まで送り届けてくれる。それでもハンドルを握るのは癖のようなもので、だから手を離してもまったく問題ない。


 財布を開き、そこにある一枚の写真――生まれたての赤ん坊を抱いた女性の笑顔の写真を見る。


 宝物だった。ただ見ているだけで幸福が続くようで、自然と顔がにやけてくる。今まではただ自分のためとどこか投げやりにこなしていただけの仕事も、家族の為となれば身が入るものだ。


 三葉エレクトロニクス――アンドロイド産業の大手で生産から修理までを一手に引き受ける一大企業だ。雄一はその経理部の人間であり、どちらかと言うと外回りよりもデスクワークがメインだったが、今日は珍しく、”故障しているアンドロイドの回収”という極めて末端的な仕事が回されてきた。


 経理部はいつも座っているだけに見える――そんなやっかみ以外の何物でもない文句を人の良い上司が真に受けてしまい、現場を知るなどと言う手垢のついた言い訳で受けてきてしまった仕事を、入社数年経っても後輩が入ってこないせいで未だ経理部の下っ端である雄一が請け負う羽目になってしまったのである。


 これまでの自分――子供が出来る前までの自分であれば断りはしないものの皮肉の一つは言っていたところだろうが、今はまったくそんな気分にならない。


 子供が出来て、自分は変わった――そんな感傷を、雄一は日夜感じていた。今回もその一つだ。末端の仕事を回されようと、これも経験――いずれ息子に笑って話す日が来るかもしれない。


 お父さんは故障したアンドロイドを捕まえたことがあるんだ――そんな脚色の混じった武勇伝として。


 窓の外の景色が、時代が逆行するように変化していく。ビルの多い都市部から、廃屋、自然の見え隠れする景色に――。


 少子化、戦争によって人口が大幅に減少し、復興の優先順位は都市部が上だった。在りし日の大都市の復興を……そんなスローガンで都市部ばかりを中心に再編が進んでいくうちに、やがてお決まりの政権交代やら経済事情の悪化やらで再編計画は途中でストップしていき、都市部の外は住む者がいないままにそのまま放置されることになったらしい。


 雄一の物心がついた頃にはもう都市部の外は廃墟街同然だったから、あくまで聞いた話でしかないのだが。


 とにかく、今回故障したアンドロイドがいる――その場所もそんな都市部の外の廃屋だ。あるいはそれすらも武勇伝に彩を与える舞台装置に思えて、だから雄一はいずれ話す日を楽しみに待ちながら、今日この日の仕事をこなそうと、緩んだ顔で気を引き締めた。


 *


 窓の外では、流線型で無色透明の液体が次々と落下しては、水溜りに波紋を広げている。

 そんな景色を眺めながら、七緒は少し残念そうに呟いた。


「雨降っちゃったな」


 その声に答える者はいない。この二人の画廊のもう一人の主は、先ほど部屋を出て行ってしまったのだ。どこへ行くのかと聞いても”待っていて”と返されるだけで、だから七緒は首を傾げながらも言われた通りに部屋で少女を待っていた。


 そうして雨を眺めている内に、やがて部屋の戸が開いて少女が踏み込んでくる。

 部屋を出たとき、彼女が着ていたのは飾り気のない白いワンピースだったが、今は着替えて、別の服に身を包んでいた。白い肌が良く映える黒いドレス――それもワンピースだろうか。


 フリルが多くついていて、どこか子供っぽい服装でありながら、赤い瞳は神秘性と妖艶さを醸し出している。頭に赤い髪飾り――ひなげしの花を模した髪飾りがつけられていた。普通は到底似合いそうもないゴシックロリータのような服装が、少女には極めて良く似合っていた。


 七緒の視線を受けて、照れたように目を逸らし、少女は問いかけてくる。


“似合う?”

「うん。似合ってるよ」


 七緒が素直にそう告げると、少女は嬉しそうに微笑んで、七緒へと駆け寄ってきた。


“あの人が選んでくれた”

 あの人――ハウスキーパーだろうか。確かにあのハウスキーパーは七緒にもたまに服を差し出して来ることがあった。きっと前の主の服を選んでいたのだろう。

 そんな事を考えた七緒の手を取って、少女はノートを見せていく。


“描きに行こう”


 本当に絵を描く事を気に入ってくれたらしい。それは確かに嬉しい事だが、窓の外を見て七緒は困ったように微笑んだ。


「……駄目だよ。雨降ってるから」

“平気”

「でも……紙も濡れちゃうから。その服だって濡れちゃうし。外にはいけないよ」


 そう告げると、少女は拗ねたように唇を尖らせた。そうしていると本当に子供の様で、七緒はその事に微笑んだ。


「……そうだ。家の中でも絵は描けるよ。雨の日はいつもそうしてるんだ」


 七緒の言葉に少女は小首を傾げ、それから部屋の中――画廊をぐるりと見まわした末に、湖畔ではない風景――窓枠とその向こうの景色の絵や、何でもない部屋の一室の絵、ハウスキーパーの描かれた絵を見つけて、それを指差す。


「そう。その絵。家の中で描いたんだ」


 一応の納得をしたのか、少女は一つ頷いて、それから思案顔で問いかけてくる。


“何を描くの?”

「何でも良いんだ。好きなものを描けば良い」

“好きなもの?”

「うん」


 少女はしばらく七緒の顔を眺めた末に、椅子と画版、それから紙を持ってきて、七緒と向かい合って腰を下ろした。そして真剣な面持ちで七緒を見詰める。


「えっと……何を描くの?」

“貴方”

「僕を?でも、僕なんて描いたって」


 その言葉を遮るように、少女はペンを走らせる。


“描きたい”

「けど……」

“駄目?”


 小首を傾げ、上目使いにそう問われて、七緒が断れるはずもなかった。


「駄目じゃないよ。……なら、僕も君を描いても良い?」


 そう言われて、少女はプイとそっぽを向き、さっきと同じ文句を見せた。


“駄目?”

「えっと……駄目なの?」


 困ったようにそう問いかけた七緒に、やがて少女はペンを走らせる。”駄目?”というその文字に大きくバッテンを書き加えて、それを七緒に見せた。


“駄目じゃない”、そう言う意味だろう。そう受け取って、七緒もまた画版に手をのばした。



 *



 すぐ近くだからと傘も差さず、雄一は雨の中を速足に歩み、廃屋の戸をノックした。


 ”故障したアンドロイド”がいるのはこの廃屋のはずで、あるいはノックなどはするべきでは無い行為なのかもしれないが、廃屋であろうと勝手に入るのは抵抗があったのだ。


 しばらくして、その戸が開き、中から現れたのは、旧型のアンドロイドだった。


「はい。どちら様ですか?」


 不自然さの残る合成音声――容姿は骸骨のように骨格が見えていて、各部の汚れが長く稼働している事を示している。


 故障したアンドロイド――動きに不自然さはないし、そうは見えない。それに雄一が回収するように言われたのは、もっと新しい時代のそれであり、これは多分、この家の前の主が使っていた家具の一つだろう。


 家番、家事役、子守――そう言う用途の旧型のアンドロイドだ。


「三葉エレクトロニクスの四宮雄一です。……この家のご主人は?」


 そう雄一が名乗り、問いかけると、旧型のアンドロイドはぎこちない動きで身を引いて、合成音声で言った。


「お入りください」


 *


 二人の画廊――静かな空間は、不意に開いた戸によって打ち破られた。何事かと視線を向けた七緒と少女の目の前で、その部屋にはハウスキーパーが入ってきて、その向こうからは見知らぬ男が踏み込んできた。


 スーツを着こんだその男は、聡く同時に愛情深そうな顔をしていて、七緒と少女に気付くと目を見開いた。


「……これは。……そうか」


 そしてその男は、ぶしつけに部屋の中を眺め、飾られている絵をつぶさに観察していた。


「……えっとどちら様ですか?」


 沈黙に耐え切れずそう問いかけた七緒に、男ははっと我に返った。


「三葉エレクトロニクスの四宮雄一だ。ここに故障したアンドロイドが暮らしていると聞いて回収に来た」


 その言葉に七緒と少女は顔を見合わせて、そして少女は画版を置くと逃げるように七緒の影に隠れた。


 故障したアンドロイド――その言葉が指し示すのはこの少女の事だ。自分を連れ去りに来た――そう考えて、少女は怯えたのだろう。七緒は優しく、肩に置かれた少女の手を取ってやった。


 雄一はその仕草を観察し、やがて部屋を見回してから問いかけてくる。


「この絵は、君が描いたのかい?」

「……そうです」


 警戒をしながらもそう答えた七緒に、雄一はさらに言った。


「今描いている絵を見せてもらっても?」


 七緒は頷いて、描きかけの絵――真剣な面持ちで見る者を眺めている美しい少女の絵を見せる。そこに技術以外の何かを見て取った気がして――それから雄一は少女が置いた絵に視線を向けた。


 そこには優し気な雰囲気を醸し出す少年が描かれていて、その瞳はまっすぐ見る者を貫く。

 やがて雄一はため息をついて、こう呟いた。


「……年をとったのかな」

「あの、……この子を連れて行くんですか?」


 不安を隠し切れずに七緒はそう問いかけた。雄一はしばしその視線を正面から受け止めた末に、フッと肩の力を抜いた。


「……いや。このハウスキーパーを回収していくよ。良いかい?」


 その言葉に、七緒と少女は顔を見合わせる。それから、少年は言いかけた。


「でも、その人は……」


 その言葉を雄一は遮る。その後の言葉を聞いたら、このハウスキーパーですら回収したくない気分になってしまう。それでは、会社に言い訳すらできない。


「悪いようにはしないよ。もっと別に活躍できる場所があるなら、その方が良いだろう?」


 大人のずるい言い方――その嘘を七緒は見破ること無く、言葉通りに受け取った。


「……はい」


 そして、そう頷く。抵抗されたらどうしよう――そんな不安を抱いていた雄一は素直な返事に感謝して、ほっと息をついた。


「良い子だ。お邪魔したね。お幸せに」


 そして、ハウスキーパー――旧型のアンドロイドに向き直る。


「新しい居場所に行くんだ。来てくれるかな」


 雄一の言葉を吟味するように、旧型のアンドロイドは雄一の顔を眺めていた。

 このアンドロイドはボディも旧型ならAIも旧型なはずで、創造的な思考は出来ないはずだ。けれど雄一はその視線に思案―自分の末路と置かれた状況の意味を理解しているような光を見た気がした。


 思えば、この家で最も長く”生きて”いるのは、このアンドロイドなのだろう。アンドロイドの容姿が完全に人に似たのは、20年以上も前で――このアンドロイドはそれより前から”生きて”いるのだ。


 親心――それに近い何かが、このアンドロイドの中にある。……それは多分、雄一が自身の心情を投影した結果に過ぎない。


「お別れを言ってもよろしいでしょうか?」


 やがて、合成音声がそう告げた。ハウスキーパーのアンドロイドの一つの定型句ではあり、プログラム通りの台詞ではあるのだが、胸をつくセリフだった。


「……ああ。外で待ってるよ」


 そう言って、雄一は一足先にその部屋を、そして屋敷を出た。

 これ以上この場で聞いていたら、本当に同情してしまう気がする。


 武勇伝になるはずが、まるっきり悪者になってしまった。そんな気分だった。

 余り間を置かずに、ハウスキーパーは雨の中へと現れた。


「どこに行くのですか?」


 合成音声で問いかけてきたハウスキーパーは、胸に紙を抱えていた。多分それは絵なのだろう。どんな絵かはわからないが、濡れてしまわないように自身のスーツをかけてやって、雄一は答えた。


「……近々、ハウスキーパーが必要な家があるんだ。子供が生まれたばかりでね」


 口をついて出たその言葉――雄一はその真偽が、もはや自分でもわからなかった。


 *


『もう、寂しくないですね』


 それが、あのハウスキーパーが七緒に最後に告げた言葉だった。

 ずっとこの家に居て、七緒はずっと世話をしてもらっていて、けれど定型句以外の言葉を聞いたのはそれが初めてだった。だから、ありがとうと告げて、この家の一部―雨の日に描いた絵をハウスキーパーに渡した。


『ありがとうございます』


 それは、少女に向けられた言葉だ。少女は頷き、ハウスキーパーに抱き着いた。

 そして、ハウスキーパーは去って行った。雨の音にエンジンの音が混じり、水溜まりをはじく音が混じり、やがて雨だけが聞こえる。


 七緒は、寂しかった。仕方のないことだとはわかっている。少女を連れて行かれなかっただけ、七緒がこの家を追い出されなかっただけよかったのかもしれない。


 けれど、どうしようもなく寂しかった。


 と――不意に少女が七緒の顔に手を伸ばして、七緒の口の両端を釣り上げる。


「うわ……なに?」


 問いかけた七緒の前で、少女は一端腰に手を置いて、それから描きかけの絵――七緒の描かれた絵を指差した。


 その絵で、七緒は優しく微笑んでいた。


「表情が違うって事?」


 少女はうんと頷く。


「けど……寂しいんだ」


 そう呟いた七緒に、少女はノートを差し出した。少し汚い字――普段よりもほんの少しだけ揺れた字で、こう書かれていた。


“寂しくない”

“私がいる”

“だから、あの人はいった”


 そして少女は、また七緒の口の端を釣り上げた。少し震えた――優しい手付きで。


「うん。……そうだね」


 ぎこちない微笑みを浮かべた七緒に、同じ笑みを返して、それから少女は七緒の頭を撫で、それから抱きしめた。


 涙は―――窓の外で降り続いていた。


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