第2章

七織/廃屋に廃少女を

 風がそよぎ、果てしない草原を揺らし、陽光に照る草が金色の波を起こす。


 金色の草原――それは、少年の心の奥底にいつも浮かんでくる風景だった。


 それがどこで見た風景で、いつ見た風景か――それは、わからない。ただ思い返そうとすればその景色はすぐに眼前に浮かび上がり、瞼の裏にはいつもその場所が焼き付いている。


 綺麗だった。とても綺麗な景色だった。ほかには誰もおらず、たった一人少年が記憶の奥に持っている風景。


 瞼の裏の情景をそうして眼に焼き付けて、それから少年は瞳を開ける。

 目の前にはキャンパス。イーゼルに掲げられた紙があり、紙には今見たばかりの――遠い昔の事だけれど確かに今見たその風景が描かれている。


 ――ただ、その風景はモノクロだった。

 たった一本の鉛筆で描き記された風景には、黄金が宿ることはなく、ただモノクロの草原が続いているだけ。


 不出来な絵に少年は肩を落とし、そこで僅かな身じろぎを聞いて振り返った。


 何枚ものモノクロの絵の飾られた部屋。湖畔が幾つも飾られたその部屋の隅のベットには、何より絵になる存在――白い髪をした少女が眠っている。


 片目を覆い隠すように包帯を巻き付けられたその少女は、今ようやく永い眠りから覚めたらしく、その瞳を開いた。


 その瞳はルビーのようだ。ただただ綺麗だと見とれた少年に、横になったままかぶりを振って、少女は気が付いた。


「あの……おはよう」


 照れたように、そんなどこか場違いな言葉を口にした少年に、少女はただただ赤い瞳を向けて、やがて身を起こす。その拍子に毛布がはだけ、少女の白い裸体が露になり、少年は咄嗟に視線を逸らした。


 赤い瞳の少女は身体を隠す素振りも見せず、ただただ不思議そうに少年を眺めていた。


「その……服、置いておいたから。それ、着て」


 その言葉とともに少年が指差した先――ベットサイドの机には白いワンピースが畳んで置かれていた。


「あの……もしデザインが気に入らなかったら、奥の部屋に他のものもあったから……」


 言い訳の様な口調でそんな事を言う少年を、やはり少女は不思議そうに眺めて、それからワンピースを手に取った。そしてそれを着ようと立ち上がりかけた所で、少女はクラりとバランスを崩し、ベットの上に転ぶ。


 それから転んだ理由を考えて、少女はそこで片目が見えていない事に気が付いた。確かめる様に指で触れ、包帯が巻かれていることに気付き、その奥に大きな穴が開いていることを知った。


 特に顔色を変えることもなく、ただそれを確かめた少女はワンピースに袖を通した。


 そして部屋の中を見回して、その一角に姿見があることに気付く。

「君は、その……捨てられてたんだ。湖の近くの森に。ずっと眠ってて……でも、起きて良かった。あの……」


 もう服を着ただろう。そう思って視線を向けた少年が見たのは、ワンピースを着て姿見の前に立った少女が、自身の顔の包帯を解いている姿だった。

 そして、少年が止める間もなく、包帯はゆるりと落下し、その奥の姿を晒す。


 少女は、姿見に映ったアンドロイドを眺めた。

 完璧な均整――幻想的でさえあった完成したその相貌はもはや見る影もなく、顔の半分が吹き飛び、焦げ、中にある電子部品が見えている。


 少女は表情を変えずその姿を眺めて、やがて片手を上げる。それに伴って、姿見に映ったアンドロイドも動き、漸くそれが自己であると認識した。


 何か、明確な感情などを感じたわけでは無い。痛みも感じない。悲しみもない。けれど、気付くと少女は、掌で顔の欠けた部位を隠していた。


 幻肢痛でも感じたように――ないはずの部位が痛むように、何も感じてはいないはずの少女の身体は僅かにこわばっていた。


「包帯は……その、痛そうだったから。ごめんね。……僕には顔は戻せなくって」


 痛そうだった。そんな言葉を口にして、何も悪くもないのに謝っている少年に、少女はまた不思議な物を見るように赤い瞳を向けた。それから、掌で顔を隠したままに包帯を拾い上げると、それを少年へと手渡し、少年に背を向けてベットサイドに腰を下した。


 また、包帯を巻いてくれ――そう言うことだろうと少年は納得し、少女の顔に優しい手付きで包帯を巻いていく。


「僕は七緒って言うんだ。君の名前は?」


 七緒。女性的なその名前だったが、しかし少年はその名前を好いていた。何を恥じるでもない自身の名だ。嫌えるはずが無い。


 包帯を巻かれたまま、少女は七緒の問いに応えようとして口を動かすが、しかし声が出ない。


 やがて包帯を巻き終わると、少女は七緒へと振り返ってまた口を動かし、何も言えぬまま困ったように首を傾げた。


「……もしかして、喋れないの」


 その七緒の問いに、少女はこくりと頷いた。少女は大怪我――人ならば間違いなく死んでいるだけの大きな欠損を電脳部位に受けている。目覚めはしたが、幾らかの不備はあるのだ。


 それでも、どうにかして会話を交わすすべは無いか――そう考えた七緒は、やがて一つ思いついて、部屋の奥からノートとペンを探してきて、それを少女に手渡した。


「これ。……えっと、字はかける?」


 こちらの言葉が理解できている以上、言語系が全滅したわけでは無いだろう。

 そんな七緒の予想を裏付けるように、少女はコクリと頷いてノートとペンを受け取った。


「なら、名前を教えてくれないかな」


 七緒に促され、少女はペンを握りノートを開いて、けれど何も書き込もうとはせずに固まった。


「やっぱり、書けないの?」


 そう心配そうに問いかけた七緒に真っ赤な瞳を向けて、それから少女はノートにこう書きこんだ。


“書ける”


 奇麗に整ったその字を、少女は七緒へと見せた。


「じゃあ、名前は?」


 再び問いかけた七緒を少女は困ったように眺めて、やがてこう書き記す。


“わからない”


「……もしかして、思い出せないの?」


 七緒の問いに少女はコクリと頷いた。


「そっか。……どこに住んでいたかも、わからないの?」


 またも頷いた少女はどこか寂しげだった。記憶が欠損しているらしい。七緒は少女に同情して――けれど同時に少しだけ安心していた。


 この少女は、酷い目に合わされて……捨てられたのだ。けれど元の記憶―自分の所有者が誰かわかれば、彼女はきっとその場所へと帰ろうとするだろう。アンドロイドはそういう風に設計されていて、けれど今、彼女にはその主人の顔も名前も、居場所もわからない。


 だから、この少女がこれ以上酷い目に合うことはないのだ。

 それに、もしかしたら、この場所に居続けてくれるかもしれない。


 わずかな期待――断られたらどうしようという恐怖を胸に、七緒は少女へと提案した。


「……だったらさ、ここにいない?思い出すまででも良いから。その……ここ、僕が住んでるんだ。僕の家っていうわけじゃ無くて……前に住んでた人が出て行っちゃったみたいで。勝手に借りてるんだけど…広い家だからさ。部屋も余ってるんだ。どうかな」


 しどろもどろにそう告げる少年を、少女はただただ不思議そうに見つめていた。

 それから、少女はコクリと頷いた。


「本当?」

“ここにいる”


 書き込まれた文字と、少女の顔を見比べて、やがて七緒は心の底から嬉しそうに微笑んで、それから少女の手を取った。


「うん。……えっと、それじゃあ、家を案内するよ。結構広いんだ。来て」


 そして七緒は少女の手を引いて、我が家の中を案内し始めた。


 *


 その家はお気に入りの場所――自然公園の程近くにある空き家だった。空き家といっても家具の類はほとんど全て残されていて、だから前の住人はやむにやまれぬ事情で急遽出て行ったのだろう。その事情がどんなものか、七緒は知らない。


 ただ、今の時代、そう言う空き家が沢山あるのだ。人口減少のせいで、住む者のいない空き家が良くそのまま放置されている。


 この家も完全に忘れ去られた家屋の様で、七緒は手続きもなく勝手に住んでいるのだが今まで誰かに文句を言われた事は無かった。周囲にはほかに空き家もあるが、この辺りに住んでいるのは七緒だけで、他の人をこの近くで見たことはあまりなかった。現れたとしても、数日経たずにどこかへ行ってしまうのだ。


 だから、少女がいることが嬉しくて、七緒は引き回すように部屋の数々を案内した。


 そしてその途中のダイニングキッチンに、一体のアンドロイドがいた。

 手を引いている少女のように完璧に人間と同一の姿ではなく、数世代前――どことなく骸骨のようにひょろりと長いハウスキーパーのアンドロイドだ。


 七緒がこの家を見つけた時には既にここに居た。前の主人がこの家を後にする時において行かれてしまったらしい。


 そのアンドロイドは七緒に気付くと、世代を感じる声――電子的な不自然さの残る合成音声でこう問いかけてくる。


「お食事はいかがですか?」

「僕は良いよ。君は?」


 七緒に問われ、少女は首を横に振る。


「そっか。アンドロイドだもんね。……あ、ごめん。そう言うつもりじゃなくて……」


 悪気はなかったにせよ、傷つけてしまったかもしれない――そう考え釈明する七緒を、少女はただただ不思議そうに眺めていた。


「御用の時はお呼びください」


 ハウスキーパーはそう言って頭を下げて、何かの作業―多分掃除だろう―に戻っていった。七緒はまだハウスキーパーを少女に紹介していない事を思い出して、けれど去って行く背中を呼び止めるのも悪い気がして、だから背中を眺めながら少年は言う。


「えっと……そうだ。あの人はハウスキーパーなんだ。前に住んでいた人の頃から居るみたいなんだけど……置いていかれちゃったんだね。今でも掃除してくれてるんだ」


 少女は七緒を不思議そうに眺めて、それから手のノートにこう書きこんだ。


“人?”


「うん。…変かな、人って呼ぶの」


 少女はコクリと頷いた。

 確かにあのハウスキーパーの容姿はどうやっても人と見間違えようのない物ではあるが、だからと言って”あれ”とか”これ”とか呼んでしまうには抵抗がある。


「そうかな……」


 七緒は困ってしまってしかめ面で眉根を寄せた。するとその七緒の表情が可笑しかったのか――不意に少女が口元に小さな笑みを浮かべる。


「あ。……笑った」


 珍しい花でも見つけたような気分で七緒がそう言うと、少女はすぐに笑みを引っ込めてしまった。そして、今度は少女の方から七緒の手を引いて歩き出した。


「あ、ちょっと……」


 *


 全ての部屋の案内を終えて、七緒と少女は元の部屋に戻ってきた。七緒の描いた絵が飾られていて、けれどその絵はすべてモノクロでどこか味気ない……そんな部屋だ。


「こんなところかな。どこか気に入った部屋はあった?」


 そう七緒が問いかけると、少女はすぐさまうんと頷いた。


「どの部屋?」


 重ねて尋ねた七緒に、少女はノートに文字を書き込む。


“ここ”

「ここって…この部屋って事?」


 少女はまたコクリと頷いた。

 この部屋――七緒の描いた絵の飾られているこの部屋は、七緒が毎日過ごしている私室でもあった。ここで寝起きし、雨の日はここで絵を描いたりもして……少女は、そんなこの部屋が気に入ったらしい。

 七緒は別に嫌な気分にはならなかった。むしろ嬉しいような気もした。この部屋を気に入った。それはきっと、飾られた絵が嫌ではないということだろうから。


「そっか。じゃあ、僕は別の部屋に移るね」


 同じ部屋はきっと嫌だろう。そんな風に考えて部屋を出て行こうとした七緒のシャツの裾を少女は握った。そして振り向いた七緒に文字を見せる。


“あなたも、ここ”

「でも…他に部屋は空いてるのに」


 そう言った七緒を、真っ赤な瞳はまっすぐと見詰め、やがてこんなことを言い出した。


“興味深い”“気がする”

“観察するべき””気がする”

「僕を?」


 七緒の問いに少女はコクリと頷いた。それから、どこか不安げに眉根を寄せて、お願いでもするように小首をかしげて見せる。


「そっか。……じゃあ、良いよ。ここに居て。僕も、ここにいる」


 少女はニコリと笑みを浮かべる。今度はすぐに消してしまったりはしなかった。七緒がその笑みに見惚れていると、やがて少女は部屋の中をぐるりと見回して、それからこう尋ねてくる。


“貴方が描いているの?”

「うん。僕は絵描きなんだ」

“お仕事?”

「うん。…いや、違うかな。趣味だよ」

“趣味?”

「そう。絵が描きたいから、描いてるんだ。風景画しか描けないんだけど」

“私は何も描けない”

「そんな事ないよ」

“多分、描いた事がない”

「絵を?」


 少女は頷く。

 この少女は記憶喪失だ。記憶が無いからそんな事を言い出すのか、それとも本当に描いたことがないのか。


 絵を描くアンドロイド――そういう役割を与えられた者でなければ、あるいはアンドロイドは絵を描かないのかもしれない。


 そう、描かないだ。きっと描けないんじゃない。


「そう……あ、そうだ。なら、描きに行こうよ」


 だから、七緒はいつもの荷物を手早くまとめると、不思議そうな少女の手を引いてその家を後にした。

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