七織/静かな湖畔に腰を据え
少女の手を引いて辿り着いたのは、いつもの自然公園――見晴らしの良い丘の上だった。
湖畔の向こうには森がある。少女が捨てられていた森だ。けれど七緒はその事を口には出さず、代わりに微笑みかけた。
「ここで僕はいつも絵を描いてるんだ。綺麗な景色でしょう?」
真っ赤な瞳は、魅せられたようにじっと景色を眺めている。それから少女は一つ頷いてから、ノートにこう書き込んだ。
“上手”
何の事だろう――少しの間そう疑問に思って、それから七緒は部屋に飾っていた絵の事を思い出した。
あそこにある絵のほとんどはこの景色――湖畔の風景を描いたものだ。少女はそれを思い出して、その絵と目の前の景色を比較してそんなことを言ったのだろう。
「ありがとう。君にも描けるよ。……さあ、座って」
促されるままに、少女は芝生に腰を下した。七緒はその隣に腰掛けて、それから少女に画版を渡す。これを、どうするのか――そう問いたげな視線を向けた少女に、七緒は実演しながら使い方を教えてやった。
「それで、この紐を肩にかけて、紙を置いて……そう。それで、あとは見たままに描けば良いんだ」
そして、七緒はいつもの様に、湖畔の風景を描き始めた。
どうすれば良いか。やはりそれが分からず、少女はしばらく少年の仕草を観察して、それから見よう見まねで鉛筆を走らせ始めた。
*
ものの数分で、少年は風景のぼんやりとした概観を描き終えて、細部を描きこみ始めていた。
隣で七緒の仕草を眺めながら、少女もまた同じように概観を描いては見たが、その段階であろうと既に出来の差は明白だった。
月と鼈――雲泥の差である。
小さく眉根を寄せた少女の隣で、七緒は不意に鉛筆を掲げ上げると、直立した鉛筆を遠くに見るような仕草で片目をつぶった。
何の意図があるのか――それは、分からなかったが、とにかく少女は少年の仕草を真似してみて、けれど何をしているのかさっぱりわからない。
業を煮やし、やがて少女は鉛筆でツンツンと七緒の肩をつついた。
「どうしたの?」
振り向いた七緒に、少女は先ほどと同じ鉛筆を掲げる仕草をして、それから首を傾げてみせる。
そのジェスチャーで、七緒は少女が何を問おうとしているのかを理解した。
「これは、距離を測ってるんだ。遠くにある物は小さく見えるでしょう?こうやって鉛筆を目印に、どのくらいの大きさに描くかを決めるんだ」
大きさ――そう聞いて少女は不思議そうに小首を傾げて、……やがて意味を理解したのだろう。一端画版を脇に置いて、それからノートを取り出してこう書きこんだ。
“tan”
「た、ん?」
今度は七緒が首を傾げる。そんな七緒をまっすぐと眺めて、少女は次々とノートに書き込んでいった。
“視点から標的の距離=X”“標的の高さ=Y”“Y/X=tan A”
“腕の長さ=x”“鉛筆の長さ=y”“y/x=tan a”
“視点から画上定点pへの距離=pl”“画上標的高さ=ph”“ph=pl×tan A”
少女はそこまで書いたところで一端首を傾げて、それから確信を持った様子で力強くこう書きこんだ。
“鉛筆いらない”
「え?えっと…」
“鉛筆いらない”
少女は両手を伸ばして、その文字を七緒へと見せた。少女は、明確な答えを見つけたとでも言いたげで、どこか誇らしげな様子だった。
「でも……正確な距離とか高さは、測らないとわからないし。そこまで正確じゃなくても良いから。……ほら。例えば、最初に手前にあるあの木を描くでしょう?それで、実際のその木に、こうやって鉛筆の長さを合わせて持って、それから向こう岸の木に鉛筆を合わせると……代替半分の大きさに描けば良いってわかるでしょう。この方が簡単だよ」
七緒がそう指摘すると、少女は愛らしく唇を尖らせる。
“曖昧さは敵”
「戦ってるの?」
“有史以来”
中々壮大な物語がありそうだ。そんな事を思った七緒の前で、少女は再び鉛筆を掲げ、目を細めると、やがて一つ頷いた。
“でも、たしかに簡単”
その文字に、七緒は嬉しそうに微笑んだ。
*
「出来た?」
自身の描いた絵がある程度形になった所で、七緒はそう問いかけて少女の画版を覗き込んだ。
そこにあったのは、妙に枠線がはっきりしているが何が描かれているかわからない絵だった。風景画にしては余りにもぼんやりしていて、だから七緒はこう言った。
「えっと…抽象画?」
すると少女は恨めしそうに七緒を睨みつけて、お前はどうなんだと言わんばかりに七緒の絵を覗き込むと、出来栄えの差に拗ねたかのように唇を尖らせた。
「えっと……良く描けてるよ」
そんな事を言った七緒を少女はまたきっと睨みつけ、それからノートをめくってさっき書き込んだ字を再び七緒に見せてきた。
“曖昧さは敵”
それから、取りつかれた様な勢いで新たな文字を書き込んでいく。
“そもそも対象と対象の光学的な境目は曖昧すぎる”
“重なった部分についてどの認知を優先すべきかが不明瞭”
“森は森で一つか。それとも別個の木の集合体か。仮に集合体だとしたら木とは葉の集合体か単体としての木か。仮に集合体だとするなら葉とは細胞の集合体か”
「えっと…屁理屈?」
ついそう言ってしまった七緒は、また赤い瞳に睨まれてしまった。
“百歩譲って木に関しては物体的な実体があるから良いとして、湖には納得できない”
“あれは完全に同質な物質の集合体”
“だと言うのに光学的な反射によって中途で色が変わる。その境目が不明瞭。曖昧すぎる”
“万物は時間経過で変質するべきではない”
“太陽は止まるべき”
なにやら破滅的な事を言い出した少女に、七緒はにこりと微笑んでこう言った。
「水は難しいもんね」
同意しているのかしていないのか――それも判然としない七緒の言葉に少女はしかめっ面を浮かべ、再び七緒の描いた風景画を観察する。
使っているものは少女と同じで、鉛筆一本。だと言うのに、確かにそこには水の輝きがあり、森の囁きがあり、モノクロだと言うのに色彩に溢れて見えた。
“どうやって描いた?何をどう認知してどう選択してその情景を描いたのか”
「えっと、見たまま描いただけだよ。描きたいように」
まるで参考にならない答えに、少女はただただ自分の絵と七緒の絵を見比べた。
見たまま描いただけ――それは少女も同じだ。けれど出来栄えに大きな差が出来てしまっていて、そもそも自分と七緒では同じ風景を見ていても、見えている景色が違うのではないか――そんな事を思った。
やがて七緒は助け舟を出すようにこんなことを言った。
「えっと……そうだ。影だけ描いてみたら良いんじゃないかな」
“影?”
「うん。光の濃さだけ描いてみるんだ。境目は考えないで、影だけ見てみれば良いんじゃないかな」
影だけを描く。それもまた曖昧で、抽象的な言葉だ。そんな事をしたら、この白い紙が真っ黒になってしまうのではないか。
そうして少女はまた首を傾げ、七緒は優しい雰囲気でそんな少女を眺めていた。
――と、
「……へえ。見晴らし良いのね。たまには散歩も悪くないかしら」
不意にそんな声が聞こえて、少女と七緒は同時に背後を見た。
さっきまで誰も居なかったこの丘――そのベンチに、今は一人の女性が腰掛けていた。大学生くらいだろうか、そんなどこか幼い雰囲気を持った化粧っ気のない女性で、ラフな服装をしている。
その女性はタイトなジーンズのポケットから煙草の箱を取り出して一本口に咥え、火を付けようとしたところで、その丘に少女と七緒が腰掛けていることに気付いたようだ。
瞬時に顰められたその眉からは明確な警戒が浮かんでいて、その視線はまっすぐと少女へと向けられている。
「貴方は……」
もしかして少女の知り合いだろうか――そう考えた七緒は少女に視線を向けるが、同じタイミングで七緒を見ていた少女は、困ったように眉根を寄せていた。
記憶が無い。だから少女にもわからないのだ。
七緒は意を決して、その女性に尋ねてみることにした。
「あの…この子の事知ってるんですか?」
女性は七緒に視線を向け、ウインクでもするように一度片目を閉じると、それから言う。
「いいえ。……別の個体ね」
別の個体。どうやら、この少女と同じタイプのアンドロイドを知っているらしい。
七緒と少女はどうしたものかとまた目を合わせると、その間に女性は立ち上がって歩み寄り、七緒の描いた絵を覗き込んでいた。
「絵を描いてるの?……うまいじゃない。そっちは……」
そこで女性は、こらえきれないとばかりに噴き出した。どうも、少女の描いた風景画を見たらしい。笑われた事に、少女はまた唇を尖らせる。
「なんか、思い出すわ。美術の授業で、先生にが笑いしてたっけ」
遠い目をしてそんな事を言った女性に、七緒は問いかけた。
「貴方は絵を描かないんですか?」
「写実を飛ばした抽象画家よ。……死ぬほど下手って事」
そして、女性は肩をすくめて、ベンチへと戻って行く。
と、そこで七緒は、少女がじっと女性の事を眺めていることに気付いた。
「どうしたの?」
そう問いかけた七緒に赤い瞳を向けて、少女はノートに書き込む。
“風景画は認知対象が曖昧すぎる。けれど人間ならば既に認知部位が完成されている。相貌に関する統合的な認知は獲得されている”
「つまり?」
“人なら描ける”
そして、そう言うが早いか、女性の方に向き直り、少女は新しい紙に人物画を描き出した。断りもせずに、だ。悪いと思って、七緒は女性に問いかけた。
「あの、モデルになって貰って良いですか?」
「私が?」
意外そうに片眉を上げる女性に七緒はコクリと頷いた。
「はい。嫌ですか?」
女性は煙草に火をつけて、七緒と、それから少女を交互に見比べ、しばし思案した後、微笑みを浮かべる。
「……良いわよ。私も、時間を持て余してるから」
「ありがとうございます」
*
二人からの視線を受けて、女性はどこか照れくさそうにそっぽを向いて紫煙を吐き出す。
しばらく時が止まったように続いていたその光景は、日が傾き始めるまで続き、やがて少女が立ち上がった事で再び動き出した。
「出来たの?」
問いかけた七緒に少女は頷いて、完成したのだろう絵を誇らしげに見せてきた。
それは先ほどの風景画が嘘のように思える出来栄えだった。七緒が描いた絵と遜色がないほどに、むしろ七緒よりもうまいくらいに完成された絵だった。完璧な写実――モノクロの写真の様に完成された人物画。
驚いた七緒に気を良くしたのか、少女はそれを嬉しそうに女性へと見せた。
女性もまたその出来栄えに目を丸くして、それから優しく目を細める。
「へえ。良く描けてるじゃない」
手放しで褒められて、少女は本当に嬉しそうな微笑みを浮かべた。
立ち上がった女性は七緒のもとへも歩み寄り、その出来栄えにも目を細める。
「貴方も。実物より美人になった」
「そんな事ないですよ。元々奇麗です」
「そう。……なんか、言わせたみたいね」
どこかそっけなく、けれど照れた様子で笑った女性は、それから意外な事を言い出した。
「ねえ、その絵貰っても良い?良く描けてるから」
その言葉に七緒と少女は顔を見合わせて……それから少女はコクリと頷いて、女性に絵を差し出した。七緒もまた女性に絵を渡す。
女性は二つの絵を見比べて、どこか自嘲気味に微笑んだ。
「ありがとう。大切にするわ。じゃあ、私もう行くから。貴方達も帰りなさい」
そう言って、女性は七緒と少女に背を向ける。
「ありがとうございました」
そう言って頭を下げた七緒の隣で、少女もまた頭を下げていた。
「こちらこそ」
女性はそう答え、去って行く。七緒はその背中と、オレンジ色の空を眺めて、やがて言った。
「僕たちも帰ろうか」
そしてその言葉に頷いた少女の手を取って、二人もまた夕焼けの中家路を歩みだした。
*
湖畔の風景が立ち並んだその部屋。今まで七緒一人分の絵しか飾られていなかったその画廊に、新たな絵――一目で湖畔とはわからない抽象的な絵が飾られる。
たった一人の画廊が二人の画廊になって、それが嬉しくて七緒は微笑んでいた。
けれど同じ光景、同じ画廊を見ていても、少女はどこか不満げな様子だった。
「どうしたの?」
問いかけた七緒をまっすぐと見詰め、少女はノートを開く。
“私の絵うまくない”
「そんなことないよ」
“飾らないで良い”
「でも…僕は飾りたいんだ。なんか、嬉しくて」
“嬉しい?”
「うん。ぼくはずっと一人で絵を描いていて…ここにあるのは僕が描いた絵だけだった。でも、…今は違うから。だから飾っていたいんだ。駄目かな?」
問いかけた七緒を奇麗な赤い瞳はずっと見詰めていて、やがてプイと視線を逸らした。
やっぱり、駄目なのだろうか。そう思って、七緒は絵を外そうと歩みかけるが、その服の裾を少女は摘まんだ。そして振り向いた七緒にこんな文字をみせる。
“なら、良い”
「ありがとう」
まっすぐと感謝を口にした七緒から、やはり視線を逸らしたままに、少女はノートに文字を描いた。
“明日も描きに行く”
「うん」
“もっとうまくなる”
「うん。…きっとすぐに描けるようになるよ」
七織はそう、優しく微笑んだ。
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