第1章

佐切彩夏/引き金は空蝉を潰すよう 上

 蝉の声が聞こえる―。

 夢現の曖昧なまどろみの中で、その音がやけに耳につく。

 ――ああ、まただ。またこの夢だ――。


 蝉の声はやがて景色へと変わっていく。そこはどこだろうか。”私”はその地名を知らない。実在する場所かすらも分かりはしない。ただ、蝉の声がして――湖畔に家が建っている。


 一人の少女が、一軒家のそばにある背の高い木を眺めて、その幹に手を伸ばしている。


 そっと――まるでいつくしむような手付きで、その少女は幹から何かを手に取った。

 その景色はすぐ近くのことだというのにとても遠くの景色の様で……だから”私”には少女が手に取ったものが何かを見ることが出来なかった。


 けれど、”私”は同時に知ってもいる。既に見た光景――過去の記憶の焼き増しで、だからこの後の展開を知っているのだ。


「あやか」


 優しい響きの声にそう呼ばれて、”私”と少女は同時に家の戸口へと視線を向けた。


 戸口には男が立っていた。痩せていて、少し顔色が悪くて、けれど深い慈愛の宿った顔つきの男だった。


「「お父さん」」


“私”と少女は同時にその男にそう呼びかけた。

 けれど男は”私”の方を見向きもせずに、ただ少女だけを深い愛情の宿った目で見詰めた。


「何をしてるんだい、あやか」

「不思議な物を見つけたの。ねえ、お父さん。これは何?」


 そう問いかけて、少女は掌の中身を男に見せる。

 茶色くて、渇いていて、背中に大きな切れ込みの入った殻。


「それは、蝉の抜け殻だよ」

「抜け殻?」

「そうだ。蝉が大人になったって言う証だね。…なんだか、久しぶりに見た気がするな」


 抜け殻…―うわ言のようにそう呟いて、少女は掌の抜け殻を眺めた。それから、またもいつくしむような手付きでその抜け殻を摘み上げて、木の幹の元の位置に戻した。


「持って帰らないのかい?」


 男は不思議そうにそう問いかける。


「うん。だって、なくなっていたら蝉さんが悲しむでしょう?戻る所がなくて」


 少女は無邪気にそう言った。

 一度飛び立った蝉がまた抜け殻に戻るはずなど無い。それは紛れもなく不可逆の変質で、二度と帰っては来ないのだ。


 そんなこと、誰だって分かっているはずだというのに―。


「あやかは優しいね」


 そう言って、男は少女の頭を撫でていた。優しい目で、優しい微笑みで、優しい声で―。


「さあ、あやか。お家に戻ろう。お母さんがお昼が出来たって呼んでたよ」


 そして二人は、手と手を取り合って湖畔の一軒家へと帰って行った。

 その光景は混じりけのない幸せそのものに見えて、だから一人眺めているだけの”私”は、羨ましくて―――とても恨めしかった。


 *


「……――ちゃん。嬢ちゃん。ついたぜ?」


 佐切彩夏はその同僚の声に夢から現へと舞い戻った。

 煙草の匂いの染み付いた車。助手席に腰掛けて現場へと向かう間に、どうやら彩夏は眠りに落ちてしまったらしい。


 夢の中の陽光は冷たい月光へと変わり、湖畔はただの暗闇に溶け、白い家は無味乾燥な灰色のビルへと切り替わっている。


「大丈夫かよ、嬢ちゃん。疲れてんじゃねえの?」


 長い体をどこか窮屈そうに折りたたんで、運転席に収まっている男――彩夏の同僚の橋場玄介はストレートに気遣いを示す口調で、そう問いかけている。


 ――嫌な夢を見た。気分は決して良くはない。気を使われると縋るか当たり散らすかしてしまいそうで、だから彩夏は返事をせず、戸を開けて夜の中へと踏み出した。


 月は7月。季節は真夏。けれど今年は冷夏で、こんな夜半は常に肌寒い。夜に溶け込む色をしたスーツに身を包んでも暑くはなく寧ろ寒いくらいだった。まとわりつく寒さに夢を忘れ、現を強く意識しながら、彩夏は後部座席のスーツケースを手に取った。


 無言で準備を始める彩夏に橋場は肩をすくめ、それから確認するように現状を口にした。


「…この地下だ。当たりだった。ドローンでも確認した。武装は無し。数は7」


 スーツケースの中には、2丁の銃とその弾奏――スピードローダーが詰まっていた。2丁とも拳銃で、一方は回転式拳銃。44口径の巨大な物だ。もう一方は22口径――小型の自動拳銃。

 彩夏はその両方を手に取り、冷たく重いその感触を確かめて、回転式拳銃をスーツの内側のホルダーに、自動拳銃をベルトの背中側に噛ませる。


「罪状は、非公式集会。……今月入ってもう4件目だ」

「行くわ」


 準備を終え、彩夏は端的にそう告げた。


「待てよ嬢ちゃん。一人でやんのか?」


 橋場はわざとらしくそう苦言を呈するが、運転席から降りようとはしない。いつもの事だからだ。捜査、突入の基本はペアでの行動――彩夏が配属された当初はつかず離れず基本を守ってペアで突入していた。


 だが、数度”仕事”をこなした後に、こうして別行動する役割分担が出来上がった。一方が突入。一方が入り口で、逃げる奴がいないかの見張り。


 その方が得だからだ。彩夏達の”仕事”は銃声轟く紛れもない暴力の渦への突入だが、その割に危険が少ない。一人でも十分釣りがくるのだ。だから二人仲良く突っ込んでいくよりも、一人は残って犯人が逃げないか見張った方が合理的。


 彩夏よりも長くこの仕事についている橋場は最初からその事を知っていたはずで、それでも当初基本を守っていたのは彩夏がひよっ子だったから。


 逆に言えば、一人で突入する事を許されているということは、彩夏が認められているということでもある――少なくとも荒事に関してだけは。


「武装はないんでしょ?」

「まあな」

「じゃあ、問題ないわ」


 そう言い残して、彩夏は車に背を向け、歩み出す。犯罪の現場――放棄された灰色のビルの地下へ、暗闇の洞の奥深くへと。


「…じゃじゃ馬だね」


 一人その場に残った橋場は、そう呟いて肩をすくめた。


 *


 蛾の影が大きく羽ばたく薄暗い地下室。そこには話の通り7つの人影があった。そのほとんどが大人の姿で、一様に整った顔立ち、身なりの男女だ。


 だが、それは人ではない。姿が人に似ているだけで、全て機械だ。あるいは彩夏も裸眼なら人だと考えるかもしれない。けれど彩夏の左眼には情報投影レンズ――コンタクトレンズ型の一種の情報端末がつけられている。


 もはやオフラインな場所など一か所も無いほどに無線通信が飛び交うこの国で、そのコンタクトは生きていく上で必須の端末であり、人とそれ以外を見分ける真実の瞳だ。


 右目を閉じて左目――コンタクトのみを介して彩夏は彼等を見た。すると、彼らの頭上には人ではないことを示すサイン――”A.I”と言う表示が現れる。各々の権利者――所有権を持つ者の名も。


 権利者の名が全て違っていた。それが、これから彩夏がこの場を破壊し尽くす根拠だ。


 少子化、戦争――あらゆる理由で欠乏した労働力の代わりとしてアンドロイドが一般に普及するに当たり、当然の事ながらそれを犯罪に利用しようという者が現れ、必然的に取り締まる法律も現れた。彩夏はその時代に現れた限定的で過激な法の執行者――司法局対偶像課特殊介入官。


 彼らの罪状は非公式集会。当局に通達無く、所有者の一致の見られないアンドロイドが特定地点への集合を繰り返している事――ハッキングや違法改造を目的とした犯罪への予防的な措置である。


 最も、法は人を裁くためにあるものであり、この犯罪で罪に問われるのは集会を開いている人間だ。本来、アンドロイドに罪などは存在しないのかもしれない。だが、たとえただ集められただけであろうとも、この段階で与えられる罰則は首謀した人間に対するよりも遥かに重い。


 短絡的で、刹那的で、――そして余りにも理性に欠ける罰則。この法律を作った人間は、きっと怖かったのだろう。人間などよりも、人と似た形をしたまるで別の存在の事が。


「初めまして。どちら様でしょうか」


 そう声を掛けてきたのは、階段から程近い位置に立っていた男――中肉中背、短髪、身を包むのはスーツで――頭上には”A.I”の表示。


 右目で見たら、それは紛れもなく人で、左目で見ればそれはアンドロイド。


 表示がなければわからない……それほど人に近い機械が、彩夏へと微笑を浮べていた。

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