佐切彩夏/七緒/やがて幕引は歩み寄る
……少し、飲み過ぎたのかもしれない。
居酒屋を出た頃には足取りは少しおぼつかなくなっていて、だから彩夏はタクシーをつかまえて家へと帰ることにした。完全自動――運転手のいないタクシーに乗り込んで行き先を告げると、車は勝手に進んでいく。
しばらく窓の外の景色を眺めて、それから彩夏は一つ決めて、携帯端末を操作した。
『はいはい。羽柴ですけど……お。嬢ちゃん気合入ってるね。男捕まえた?』
映像電話の向こう――橋場はいつもと何ら変わらぬ様子でそう言った。まだスーツを着ている。こんな時間まで仕事をしているのかもしれない。口調や態度こそ軽いが、生真面目な男ではあるのだ。
「非公式集会の件、進展あった?」
彩夏には仕事しかない――本当にそうだ。それすらも取り上げられてしまって、だからこんな気分になっている。空っぽで、何もないような気分に。
『空振りか。あ、慰めてほしい?今どこ?すぐ行くけど』
「残念。優しいおじさんに先を越されたわね」
『え?なにそれ。どういう事?もしかしてチャンス逃した?……っていうかおじさん?』
「それより、事件の資料回して」
くだらない会話を切り上げようと彩夏がそう言うと、橋場は露骨に顔をしかめた。
『……嬢ちゃん。休暇の意味わかる?』
「何をしても良い自由な時間、よ。仕事しても良いでしょ」
彩夏の答えに橋場は肩をすくめる。
『仕事人間だね。資料は送るけど、目新しいことはない。いや、一つあるな』
「なに?」
『毎度集会の中心にいたアンドロイド―愛玩用の奴だ。シャーリーって言うらしいんだが……あれの製作者がわかった』
「誰?」
『岬京吾。47才。三葉エレクトロニクスの研究員だ』
三葉エレクトロニクス。アンドロイド製造の大手だ。そして、今更思い出す。雄一の勤め先の社名がそれであると。
「……それで?」
感情の揺らぎを悟られないように彩夏は硬い声で言った。橋場は何かを察した様子だが気付かない振りをして、普段と変わらぬ調子で答える。
『今日課長御自らが出向いてお話したが何もつかめなかったらしい。経歴も何も全部問題なし。怪しい行動記録もない。販売後の個体に本人から関わった形跡も無いときた。だから、事件は完全に振り出しだ。そもそも集会してるだけでその後に何かしてるわけでもないしな。けど、そのうち回収が始まるだろうな。出回ってるのを全部だ。三葉エレクトロニクス側からの提案だよ。決定的な何かが起こる前に処理しときたいんだろ。まだ決定じゃないが……近日中には』
回収――それが意味するのはあの少女達の行動が終わるという事だ。
愛を知りたいだけ。そう言っていたあの少女達は、結局それを知ることが出来ずに消えてしまうのかもしれない。
『それから、もう一つ。岬は犯人についてこう言ってたぜ。彼女達が自らやったことだ、ってな。嬢ちゃんと同じことを言ったわけだ』
「……場所は、三葉エレクトロニクスね……」
雄一がいるのだ、行きたくはないが――彩夏は是非とも、自分と同じ意見を持っているという製作者の話を聞いてみたかった。やはり彼女たちは操られているだけで、その岬京吾が黒幕であるにせよ、会わないわけには行かない。
『……おい、嬢ちゃん。もしかしていくのか?』
「ええ。アポイント取れるかはわからないけど」
そう言った彩夏に、橋場は少しためらった後に言った。
『……それなら、問題ないな。課長のメンツ以外は』
「どういう意味?」
『実は、向こうからご指名があったんだよ。嬢ちゃんに。だから……嫌な顔はしないだろうぜ』
*
月明かりの照らす部屋の中には、モノクロの絵が増えていた。七緒が描いたもの、そして少女が描いたもの。
最初は抽象画でしかなかった少女の風景画も日に日に目に見えて上達していって、今となってはもう七緒の描いたものと遜色がない出来栄えになっていた。七緒はただその事を嬉しく思って、例えモノクロの風景でもその絵の数々は彩に溢れているように見えた。
お互いにお互いを描いた絵も飾ってある。七緒は隣同士に飾ろうとしたけれど、少女は向かい合って飾りたいと言い出して、だからその通りに飾ってやった。そして今、七緒はそれで正解だったと思う。絵の中の二人は、片や真剣に、片や微笑みを浮かべて、今も見つめあっている。
そんな二人の画廊を眺めていると、不意に七緒は、少女が一枚の絵を見つめていることに気付いた。七緒の描いた絵――描きかけの絵で、一つだけ壁に飾られておらず、イーゼルの上に置かれている絵。
七緒の心の中にある金色の草原を描こうとしたモノクロの絵だ。
「その絵が、どうかしたの」
問いかけた七緒に少女は振り向いて、それからノートに書き込んで尋ねてくる。
“どこの絵?”
「……わからないんだ」
七緒の言葉に、少女は小さく首を傾げた。
分からない――本当にどこの景色だかわからない。ただ確かに心の中にあるその風景を思い出しながら、七緒はベットに腰掛ける。
「多分……小さい頃に見た風景なんだと思う。よく覚えてないんだけど……綺麗な景色だったんだ。カラフルで……金色でさ」
そう告げた七緒に、少女は素直に答えた。
“見てみたい”
「うん」
ただ頷くだけの七緒に、少女はまたノートに文字を書き込む。
“色はつけないの?”
「絵の具がないんだ。この家の人は、絵を描かなかったみたいで」
“買わないの?”
買えば良い。いや、買わなくても幾らでも方法はあるけれど、少年は今までそうはしなかった。どの絵にも、色をつけようとはしなかった。
「……色、つけるのが怖いんだ」
七緒はうつむいて、そう呟いた。
“怖い?”
「色彩がついたらさ……忘れちゃう気がするんだ。もう、思い出せなくなる気がするんだ。だから、……色はつけなくて良いんだ」
それは多分気のせいだろう――けれど七緒にはその奇妙な確信があった。
一度絵に描いてしまえば、その光景を思い返すたびに瞼の裏に浮かぶのは七緒の拙い絵になってしまって、記憶の中からこの情景が消えてしまう。そんな気がするのだ。
“寂しいの?”
「……そうなのかな」
“私も見たい。見てみたい。貴方の心の中を”
はぐらかした七緒を、少女は赤い瞳でじっと眺めて、やがてノートを脇に置くと、七緒へと歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
そう問いかけた七緒に、ノートを持たない少女は何も答える事はなく、ただ微笑みを―七緒がこれまで見たことがないような妖艶な笑みを浮かべて―七緒の肩を押した。
そしてベットに横たわった七緒の上に寄りかかるように身を置くと、片手で七緒の顎を撫で、もう片方の手はズボンのベルトに伸ばされ――。
「やめて」
気付くと七緒は強い口調でそう言って、腕力で少女の身体を引き剥がしていた。
そしてまっすぐと向けられた赤い瞳から視線を逸らし、言う。
「僕は……そう言うつもりで拾ったんじゃないんだ」
少女は困った様子で後ずさりして、それからノートを拾い上げる。
“じゃあ、なんで?”
「放っておけなかったから」
それ以上はない真実の言葉。――けれど少女はその更に奥を問いかけてくる。
“どうして?”
「……わからないよ」
少女は俯く七緒に歩み寄ろうとして、けれど近寄ることが出来ずに部屋を出て行った。
傷つけてしまっただろうか――そんな罪悪感が心の奥に重くのしかかり、七緒は後を追うことも出来ず、そのまま俯き続けた。
翌朝、日が昇った後、七緒は家の戸が開き、少女が出て行ってしまうその後ろ姿を見た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます