佐切彩夏/天国への13階段

 応接間―ついさっき岬京吾と語らった部屋は静かだった。先程と変わりないようなその様子に彩夏は一つ安堵の息を吐く。

 部屋に中心では、岬京吾が車いすに乗って、彩夏に背を向けている。


「岬さん。良かった……やっぱり気の……」


 呟いた所で、彩夏は静寂が異様な事に気付いた。余りにも静かだ。目の前にいる岬京吾から生物の気配が感じられず――安息区のカプセルの中の父の様に、抜け殻のように見えて――。   

 ――蝉の声が聞こえる。


“不思議な物を見つけたの。ねえ、お父さん。これは何?”


 幻想の彩夏が問いかける――岬京吾の周りには工具箱と――赤い血が散っている。


“それは、蝉の抜け殻だよ”


「違う…蝉じゃない」


 彩夏は震える足に鞭打って、ゆっくりと近づいて行った。


“抜け殻?”

“そうだ。蝉が大人になったって言う証だね。…なんだか、久しぶりに見た気がするな”


「…抜け殻……」


“持って帰らないのかい?”


 彩夏は岬京吾の背後に立って、血の跡が頭にある事に気付きながら、ぐるりと回り込んでいく。脂汗が流れ落ち、死臭にこらえようもないほどの吐き気を覚える。

 岬京吾の顔は――イエス・キリストのようだ。目をむいていて、だらりと舌が垂れていて――それはキリストの要素じゃない。キリストだと思ったのは、その冠だ。岬京吾の額に入った赤い切れ込み――傷口は、まるで茨の冠のようだ。


“うん。だって、なくなっていたら蝉さんが悲しむでしょう?戻る所がなくて”


 少女は無邪気にそう言った。

「うるさい……」

 幻聴――過去のトラウマに、彩夏はそう吐き捨てる。

 一度飛び立った蝉がまた抜け殻に戻るはずなど無い。それは紛れもなく不可逆の変質で、二度と帰っては来ないのだ。

 そんなこと、誰だって分かっているはずだというのに――。


“あやかは優しいね”


「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 *


 絶叫と嘔吐物を撒き散らし――その部屋を後にした彩夏は壁に背を付けて息を整えた。

 彩夏は死体を初めて見たわけではない。過去の捜査で時たま死んでいる人間を見た事はあるが、ついさっきまで話していた相手――知り合いの死に顔を見たのは初めてだった。


 冷たいつららが背中に突き刺さっている。そんな余りにも不快な感触に、死に顔を思い出し掛けて、そのつららの先に銃があることを思い出した。


 22口径の自動拳銃。それを取り出し、弾が込められていると確認し、縋るように強く握り……やがて、彩夏は暗い目で呟く。


「あの子は……どこに行ったの……」


 呟いた途端鳴った電子音に彩夏は飛び上がらんばかりに驚き、そんな自分を自嘲する余裕すらなく携帯を取り出して、相手を確認する。

 ”橋場玄介”――知った名前に事態を悟って、彩夏は音声だけでその着信に出た。今の顔は、到底人に見せられるものでは無い。


『おい、嬢ちゃん休暇返上っぽいぜ。今そこらじゅうで』


 普段と変わらぬ口調――だが切迫感のある様子に自身の勘の正しさを見て、彩夏は遮るように言った。


「シャーリーが人を殺した?」

『ああ。嬢ちゃん、なんで知ってるんだ。……なんかあったのか?』


 彩夏の声から異常を察したのだろう。だが彩夏が橋場に答える前に、廊下の向こう……階段から騒ぎの音が聞こえた。


「後で」


 それだけを言って電話を切ると、彩夏は騒ぎへと駆けていく。

 そこでは、多くの人が逃げるように階段を駆け下りていた。現れた彩夏の手にある銃にすら気付かぬ様子で、我先にと駆けていく。


 彩夏はその内の一人を捕まえると、強引にその男を階段から引きずり出した。

 そして端的に尋ねる。


「何があったの?」


 男はただでさえ青ざめた顔を彩夏の形相とその手の銃によって蒼白にし、小さく悲鳴を上げた。けれど今の彩夏にその男の心情を慮る余裕など無い。


「何があったの!?」


 もう一度――今度は少し乱暴に尋ねると、男は目を白黒させながら答えた。


「アンドロイドが……四宮さんを……」

 四宮―――雄一。


 駆け出したい気分を押さえ込んで、彩夏はまた尋ねる。


「場所は?」

「じ、…18階」


 それだけわかれば良いと、彩夏は男から手を放した。18階――4つ上だ。階段でもすぐの距離。エレベーターは恐らく一杯で、だから階段に人が雪崩れ込んでいる。


 妙に冷静にそんな事を考える自分に彩夏は気付き――背筋の冷たさが心にまで凍えさせてしまった様に感じながら、多くの人が駆け降りる階段を人波に逆らって上へと向かって行った。


「く、……どいて!どきなさい!」


 乱暴にそう叫び、人波を掻き分けて階段を駆け上がる。たった4階の距離だというのに遅々として進まない歩みに焦りだけを積み重ね、やがてもう逃げる者が居なくなったのか人波が途切れたと同時に、全速力で駆け上がった。


 18階――雄一が、そしてシャーリーがいるらしいその階は、異様な静寂に包まれていた。さっきの部屋と似た静寂に……蝉の声を聞きそうな気がして、彩夏は状況確認もせずに飛び込んでいく。


 慌ただしい自身の足音と荒い息を聞きながら、彩夏は闇雲に廊下を駆け、やがて雄一の姿を発見した。


「雄一!」


 傷を負っていない様子の雄一に一瞬体の力が抜け、彩夏はそう呼び掛けるが、雄一は彩夏の方を振り向こうとはしない。


「……良かった。ねえ、あの子……」


 廊下に尻もちをつき、恐怖にひきつった表情を浮かべ目を見開いた雄一は、その視線を開いた戸の向こう――彩夏からは死角になって見ることの出来ない部屋の中に向けていた。


「雄一?……ねえ、何を……」


 問いかけながら歩み寄った彩夏の耳に、やがてその音が聞こえる。

 くちゃ、くちゃ……挽肉を捏ねるような粘り気のある音。耐え難い悪臭に乗って彩夏の耳朶を揺らすその音に彩夏はすくみ、恐怖を覚え――だが足は進んでいく。歩んでいく。雄一の視線の先――音の出所であるその部屋へと。

 ――見たくない。心の奥底で彩夏はそう叫び――赤いいばらの冠が脳裏を掠めて――けれど彩夏の身体は止まることなく、その網膜に惨状を焼き付けた。


 少女が、膝を折って腰を下している。彼女の白い肌、雪のような髪は瞳と同じ血の色に染まっていて、瞳は興味深そうに細められていた。彼女の膝の上には女性の頭があった。眠るように目を閉じている女性は、ついさっきすれ違った、雄一の隣で笑っていた柔らかな雰囲気の女性で――その頭頂部は少女の脇に置かれていた。


 灰色の脳髄――初めて見る、人の全ての詰まった修復できない器官が、頭頂部の代わりに覗いていて、少女の繊細な指がそれを解きほぐしている。


 あまりの凄惨さに時が止まった様な光景に中で、唯一動いているのは少女の指だけ。

 くちゃ、くちゃ…そんな音が耳にこびりついていく。


「あ、あ、…あああああああああああ!」


 自分の声とは思えない絶叫が轟き――同時に彩夏の22口径の自動拳銃が火を吹いた。

 吐き出された弾丸は正確に少女の顔面を貫き、身体をはじけさせ―その手にあった灰色の脳漿が床へとぶちまけられる。


 これが、脳――これが、人?

 ぶちまけられた灰色の臓器に彩夏は奈落へと落ち込むような喪失感を覚え、その向こうで、少女は身を起こす。完璧な美貌を崩して、焦がし――その奥の機械部品をのぞかせて。


「……痛いわ。あら、こぼれちゃった」


 少女は残念そうに――アイスクリームを落としてしまった子供のように落胆した表情で、そう呟く。


「でも、仕方がないわ。この人の頭の中にも愛は無かったみたいだし」


 余りにも冷たい言葉に、彩夏ははじかれたように問いかけた。


「貴方の言っていた別のアプローチってこういう事なの。こんなことして、わかると思うの!」


 問いかけた彩夏に、赤い瞳は細められ――笑った。

 神秘的ですらある美貌、本性をのぞかせて尚完璧な偶像は、返り血を浴びて、紛れもない魔性の怪物だった。


「ええ。思うわ。人間はみんな愛を理解している。人は脳で理解をするんでしょう。なら、そこにきっと、愛を理解する領域があるはずよ。それが分かれば、お父様に器官を作ってもらえるわ」

「その岬京吾だって……貴方が殺したんでしょう」


 彩夏の言葉に、怪物はまた笑みをこぼす。


「ええ。でも、直せば良いじゃない。その為にお医者さんがいるんでしょう?」

「何を言って……」

「人間もアンドロイドと同じでしょう?ほら、脳だってただの器官じゃない。お父様は色々な器官を機械で補っているといっていたわ。なら、脳でも直せるでしょう?だって、私達は直ったわ。貴方が破壊した私達は、みんな元通りに修理されてきたのよ?例え頭を吹き飛ばされたって。人間だって同じことが出来るんじゃないかしら」


 この怪物は死を理解していない。人によく似た姿をして、あるいは人の求める最高の美貌を持っていて――けれど決して人ではないのだ。


「もう、良い……」


 彩夏は、少女へと歩み寄って行く。倒れた女性――ぶちまけられた脳漿を跨いで。


「私達は、愛を見つけるの。あなたよりも先に愛を理解するわ」

「……黙って」


 目の前に立ち、銃口を向ける彩夏を見上げて、少女は話好きの父親について彩夏に囁いた時と同じ表情を浮かべた。


「そうだ。この後、お父様にお茶を淹れるの。美味しいって言ってくれるのよ」

「黙れ!」


 嫌悪、恐怖、失望――全てを込めて引き金が引かれ、少女はまたはじけ飛ぶ。

 またも頭部を破壊された少女は、けれどまだ身じろぎした。まだ動くのか、それとも岬京吾のデザインした反射か――それすらもわからずに――理解しようとすらせずに、彩夏はただ引き金を引き続け、弾丸で少女の頭を砕いていった。


 カチ、カチ―引いてももはや弾丸は吐き出されず、それでも尚引き続け―漸く弾奏が空になったと気づいた時には、その場は再び静寂に包まれていた。


 下した銃口の向こう――少女の顔は一片たりとも残ってはおらず、その完璧な美貌は完全な機械部品――ガラクタへと変わっていた。


 ガラクタ――統一性も機能も失った電子機器――少女の脳。視界の端で、それは灰色の脳漿と交じり合っている。二つが溶け合い、混じりあい――境界線が揺らいでいく。


 取り返しのつかないことをした――ガラクタと化した少女――その死体を前に彩夏はそんな感慨に囚われた。まるで、人を殺してしまった様な気分――。


「あは、はは、ははは……」


 不意に彩夏は、乾いた――ひきつった笑いを聞いて、振り返った。

 背後では雄一が、せっせと脳髄をかき集めていた。狂ったように……そうすればとでも思っているかのように。


 見開かれたその目には、もはや理性は宿っていなかった。

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