故障した少女/七緒/儚く、美しく……

 廃墟街――立ち並ぶ空き家の内の一つ。たったの数日間ではあったけれど、紛れもなく帰るべき場所で、家だったその場所を前に、少女は立ちすくんだ。


 帰れない。この戸を開けて彼にプレゼント――絵の具を渡せば、彼はきっと笑ってくれる。けれど昔の自分――彼に拾われる前の記憶が少女に躊躇させた。


 同じ体、同じ個体――けれど思い出す前と後とではまるで違う自分のように思える。

 汚い――それが少女の、今の自分に対する思いだった。穢れている……穢れてしまっていた。

 無垢にプレゼントを渡す資格はもう自分にはない。思い出してしまった段階で、多分、自分は別の物に――魔女に変わってしまっている。彼に絵を教わった自分――このプレゼントを渡そうと考えた少女ではないのだ。


 乾いた瞳――涙など流せない赤い瞳が揺れる。


 彼の心を見たい。その想いは今も変わっていない。けれどプレゼントの、想いの詰まった紙袋がひどく重かった。


 取り落してしまって――ドサリというその音に少女は驚いた。

 気付かれたかもしれない。気付いてくれたかも、そう思った瞬間、少女は駆け出していた。


 怖かった。顔を合わせるのが――どんな顔を彼に向ければ良いのかわからず――揺れる瞳のままに、少女は駆け出した。



 *



 ドサ―ほんの小さなその音に、一人きりでベッドに腰掛けていた七緒は顔を上げた。

 帰って来た。……帰って来てくれた。

 そんな淡い期待を胸に立ち上がった七緒は、直後窓の外を走り去る少女の背を見た。

 行ってしまった。もう、七緒と逢いたくは無いのだろうか。


 不安と寂しさに俯く七緒は、そこで視線を感じた。

 飾られた幾つものモノクロの絵――七緒と少女が描いたもの。そのうちの一つ。少女の描いた七緒の肖像画が、睨むように七緒を見ていた。そして、七緒の描いた少女の肖像画も――七緒を見る。


 真剣そのもので、モノクロであってもなお奇麗なその瞳。


 行こう――二つの視線に背を押され、七緒は家を飛び出した。


 我が家の戸。その前には紙袋が落ちていた。絵の具や絵筆の詰まった紙袋。

 これを買いに行っていたんだと七緒は直感し、けれどなぜ逃げてしまうのか。……その答えはわからず。


 ただ、追いかけるべきだということはわかった。追いかけなければいけない。そうでなければ多分、二度と会えなくなってしまう。


 もう会えない。そんな事は嫌だった。もう一度、もっとずっと、一緒にいたい。

 素直なその想いに従って、七緒は駆け出した。


 少女がどこに行くのか……七緒にはわかる気がした。


 *



 森――少女と同じ様に人工的にデザインされたそれに囲まれた湖面では、月が朧に溶けていた。


 逃げだした少女は、行く当てもなく闇雲に走り去って、その場所にたどり着いていた。


 湖と、森――その向こうの町の様子。月夜に眺めるそれは昼間とは違ってあらゆる物が輝いていて、その美しさに少女は悲しくなった。


 綺麗だ――そんな景色を少女は一人で見ている。彼と共有することもなく、ただ美しさに泣きたくなって、赤い瞳は涙を流さない。造り物の人形である自分は涙を流すことが出来ない。


 だから少女は、ただ悲しい面持ちでその景色を眺めた。声の出ない唇を震わせて、無言のままに呟き、やがて少女は湖へと歩み出した。

 自分は穢れてしまっている。その想いが身体を動かす。


 七緒はきっと――少女がいなくなった後でもこの風景を見るだろう。この湖畔を綺麗だと思って、描いて、もしかしたらあの絵の具で色をつけてくれるかもしれない。その絵を隣で見て、感嘆の息を漏らすことが出来れば、それはきっと幸せだ―。


 けれど自分にはその資格がない。その資格を持っていたのは思い出す前の少女であって―今の自分ではないのだ。例え願う事が同じであったとしても、思い出した瞬間に自分は別の存在になってしまっている。


 だから――少女は湖へと歩む。

 綺麗な景色だ。この景色と一体になれば――この景色の一部になれれば。


 七緒に綺麗だと感じてもらえる。それは寂しいことかもしれないけれど――素敵なことだ。


 この景色を七緒が見るたびに、それは少女の事を見ていることになって、出来ればその度に思い出して欲しい。 隣で絵を描いた少女――純真なアンドロイドの事を。


 だから、最後に少女は微笑んで、湖へと踏み出した。


 少女はアンドロイドだ。沈み込めば二度とは浮き上がらず、この湖の底で、景色の一部になって、毎日――七緒と見つめあおう。


 不意に――少女の細い手首が握られて、少女の体は踏み出すことなく制止した。


「なんで、行っちゃおうとするの?」


 次いで聞こえたその声――聞きたくて聞きたくなかったその声に少女は目を伏せた。


 振り向けば七緒がいる。けれど少女は振り向け無かった。ただ、目を伏せた先――湖畔には少女の顔と――七緒が映っている。


「……泣きそうな顔してるよ」


 湖畔に映る少女を見て、七緒はそんな事を言った。そんなはずは無い、自分は今微笑んでいたはずだ――けれど湖畔から見詰め返す赤い瞳は、ただただ悲し気に揺れていた。


「……昨日は、ごめん。僕は、君を拒絶するつもりはなかったんだ。ただ……怖くて。壊れちゃうような気がしたんだ」


 謝られてしまって――少女は反論したかった。あれは自分のせいだ。その時に自覚していなかったとしても、あれは――そう造られたからこその行動で、間違っていたのは決定的に自分の方で、だから謝らないで欲しい。


 声は出ない。ノートもどこかに落してしまって、少女は何も伝えられなかった。

 やがて七緒は少女から手を離す。少女は依然振り向けず、七緒に背を向けて、湖面の自身を眺め続けた。


「その……絵の具ありがとう。色を付けようと思うんだ。風景画にも……あの絵にも」


 あの絵――七緒の心の風景。

 カラフルな草原で――少女が見たいと願った景色。


「絵にしたら忘れちゃうかもしれないけど……でも、そうしないと君と一緒に見られないから」


 湖面が揺れる―-赤い瞳の少女の顔が歪んだ。それは本当に嬉しい言葉で、少女は自分がどんな表情を浮かべているのか自分ではわからなかった。


 泣きたい気分――嬉しいはずだというのに、そんな矛盾が胸中にあった。


「それに……二人で見たら多分、もっと奇麗だと思うんだ。一人ぼっちで思い出している時より、もっと綺麗だと思える、そんな気がするんだ」


 二人でその景色を見たら、もう七緒は寂しそうな顔をしないのだろうか。


 ――私は、隣にいて良いの?


 声にならないその懇願に、七緒はまるで少女の心がわかるかのように答えた。


「だから僕は……君が一緒にいてくれたらそれで良いんだ。一緒にいて欲しいんだ」


 飾り気なく、だからこそ真摯なその言葉に、少女はついに振り返って、七緒の顔を見た。たった一日――けれどずいぶん久しぶりにその顔を見た気がする。七緒はいつものように優しい微笑みを浮かべて、少女へと手を差し出した。


「……帰ろう?」


 七緒の手―優しい声に、少女は手を差し出しかけて、けれど躊躇してその手は止まった。

 七緒は知らない。少女が思い出した事――どんな存在だったかという事を。


 だから――

 その逡巡は、差し出しかけた手を七緒が強引に握った瞬間に霧散した。ここにいて良い。ただ手を握られただけだというのに、どんな言葉よりも雄弁にそう語られた気がして、少女は七緒に笑い掛けた。


「泣きそうだよ?」


 少女は頷いた。涙は出ないけれど――確かに泣きそうだ。


「悲しいの?」


 少女はゆっくりと首を横に振る。悲しいわけじゃ無い。ただただ嬉しくて――だから泣きたかった。


「……帰ろうか」


 七緒の優しい声に少女は頷いて、それから二人は帰路についた。固くその手を握りあったままに。





 歩みながら、固く握られた手の感触を確かめながら、少女は心の中で呟く。


“私は知りたい”

“貴方の心の風景を”

“二人で見たい”

“多分、さみしくない。私も、貴方も”


「うん」


 声も無い。ノートも無い。けれど少女の言葉は確かに七緒に伝わっていて――だから少女はまた泣きたくなった。


 湖畔は背後へと消えていって、二人は家へと歩んで行く。


「風景画が出来たらさ――少し、遠出をしようよ」


 不意に七緒がそんな事を呟いて、少女は小首を傾げた。

 そんな少女へと振り返って、七緒はどこか照れ臭そうに言った。


「もっといろんな景色を二人で見て、絵に描いて――多分、それは幸せだよ」


 二人でいろいろな景色を見る。見たことのない景色を絵に描いて、二人で思い出を、七緒の心の中に負けない風景を心に刻んでいく。それは、まるで夢のようだ。


 だから少女は頷いて、それから手を強く握る。


「それで、たくさん絵を描いて、またあの家に飾ろうよ」


 見えてきた家。二人の画廊。


 少女は想像する。あの家。二人の画廊に並ぶ様々な風景、色とりどりの絵画。そしてその中に二人腰掛ける姿を。


 その想像はとてもカラフルで輝いていて、きっと七緒の心の中の草原に負けないくらい綺麗だ。その絵空事が嬉しくて――


「それから――」


 続く言葉はなかった。




 ドスンという耳慣れない音が七緒の言葉を遮ったのだ。そして七緒は、糸が切れた人形のように倒れこんだ。不意に離れてしまった手に、倒れた七緒が理解出来ず、少女は呆然と、七緒を見下ろした。


 次の瞬間、また耳慣れない音が鳴り響いて、いつの間にやら少女は空を見ていた。

 夜空に月夜――冷たく湿った風が頬を撫でる。


 少女は立ち上がろうとして――なぜだか立ち上がれず、だから地面を這って、倒れた七緒へと近づいていく。


 耳慣れない音が鳴り響く。幾度も、幾度も。その度に少女の体は大きく揺れ、消し飛び―だが、七緒へと近付き続けた。


 少女はただ、七緒の手を取ろうとして、這ったまま細く、非力な手を伸ばして――最後に、また耳慣れぬ音を聞いた。



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