佐切彩夏/夢の様に朧な境界線 下

「では、エントランスの受付はどうだろうか」


 ドクターの新たな問いに、彩夏は反射的に答えた。曖昧になり始めた自身の中の境界線をどうにか維持しようと。


「見た目が、人間によく似ているだけです」

「本当にそうかな。君は、一時的な労働をする人間はほとんどいないという先入観からあれがアンドロイドと判断しているだけじゃないかな」


 否定は出来なかった。アンドロイドの普及は労働人口を補う為であり、受付やレジ打ちなどの単純な労働を人間がするのは今の時代、特別な事情や意思でもない限り考えにくい。


「それは……」

「例えば、君がアンドロイドの普及よりも前に大怪我をして、コールドスリープを受けていたとしよう。今日この日目覚めた君が、最初に出会ったのが彼女だ。あのレベルのアンドロイドが存在するという事前知識がない状態であの個体に出会えば、君はあの個体を人と思うのではないか?」


 ありえない、とは言い切れなかった。


「ですが…表示があります」


 そう。それが根拠だ。コンタクトに映る表示――”A.I”。あれが動かぬ証拠ではないか。


「それはいくらでも偽造できるものだ。電脳の認証部位を持ち歩き、ハッキングにせよ公にせよ登録してしまえば、たとえ君や私であろうともアンドロイドを装うことが出来る。少なくとも技術的には、私にはそれが出来てしまう。やらないだけだ」

「ですが……あれは、アンドロイドですよね」

「少なくとも、私はそう思っている。けれど、彼女を壊して中身を覗いてみる気にはならない。嫌われてしまいそうだからね。彼女はとても優しいんだ。頼むと料理をしてくれることもある。よく話も聞いてくれる」


 まるであの受付が人であるかのように、ドクターは言った。

 彩夏は自身の境界線が揺らいでいく音を聞いた気がした。


「容姿に生命か否かの判断を委ねるのはもはやナンセンスだ。もはやそう言った一次元的な情報で判断することは出来ない。では、人とアンドロイドとでは、何が違うと思う。容姿でもなく、表示でもなく――物質でもないとしたら?」

「……魂」


 それは口をついて出た言葉だった。人にあり、機械に存在しないもの。

 ――けれど。


「それこそ定量化して図ることのできないものだ。八百万の神。ものに魂が宿るのはこの国の古い価値観だろう」


 魂は観測出来ないものだ。客観的な事実として魂が存在すると判断する術は存在しない。


「まあ、魂では無いにせよ、過去に人工知能が意識を持っているか、と言うテストがあった。チューリングテストだ。知っているだろう」


 チューリングテスト。情報工学の始祖――ナチスのエニグマを破った数学者にしてコンピュータ理論の生みの親であるアラン・チューリングが提唱したとあるテスト――人工知能に意識が宿っているかどうかを判断するテストだ。

 テスト自体は難しくない。


 画面を介して―音声ではなくチャットで良い―人と人工知能が対話する。人には、話している相手が人工知能であるとは教えない。

 その上で、人に話している相手が人間であると最後まで信じ込ませることが出来れば――人のするそれと違和感のない会話が成り立てば、その人工知能には意識が宿っていることになる。


「端的に言えば、会話をして違和感がなければそれは意識であると言うテストだ。そしてこのテストは、何年も前にクリアされている。何の事はないただの情報コードが曖昧な言語情報を理解し適切に返答できるようになってしまった。私がここで思うのは、そのテストの前提条件だ。判断するのは、会話をしている人間の方の主観だ」


 主観。確かにそうだ。客観的に意識を測定するのではなく、あくまで対話した人間がどう思ったかに判定基準は委ねられる。


「イライザは知っているかい?」


 彩夏は首を横に振った。聞いた名前だが、すぐには思い出せない。


「最初の人工知能だ。イライザと名付けられた、ただ問いに対して決まった答えを返すだけの簡単なプログラムだよ。ソースコードを眺めてみると驚くほどシンプルだ。けれど、彼女と対話した人間は、彼女の適切なアドバイスに感謝していたようだよ。まあ、古い話だ。どれほど正確かは知らないが、相手が人であると認識するのはやはり人の意識という事だ」


 ドクターの言葉から、彩夏はその話を思い出した。そして、その反論も。


「中国語の部屋、です」


 中国語を理解していない人間を、一つの閉じられた部屋に閉じ込める。その部屋の中には全ての中国語の文法と言語―紐付けされた問い答えの束がある。


 部屋の外から中国語での問いを部屋の中に差し入れると、部屋の中の人間は紐づけに従って正しい答えを返す。すると問いを差し入れた人間は、会話が成立していると考えるが、部屋の中の人間は質問の意味を理解していない。


 問に対する適切な答えがあらかじめ用意されていれば意味が理解できていなくても会話が成立してしまう――そういう話だ。


「その通り。イライザにしても、今のアンドロイドにしても、その話は際限なくまとわりつく。けれどその話は、問いを投げかけられた場合に対する反論だ。現状のアンドロイドは、君に話しかけてくるだろう?」


 確かに彩夏は、受付でアンドロイドに話しかけられた。用事は何か、と。けれどそれは――。


「あれは……決まったアクションですよね」

「人間でも同じ事をするよ。受付の業務をしていればね」


 それはその通りだろうが、それでアンドロイドと人を同列にするのは間違ってはいないだろうか。そんな彩夏の疑念を感じ取ったのだろう。ドクターはゆっくりと椅子に座り直して、それから一面のガラスとは逆の壁――安息のカプセルが立ち並び、多くの人々が覚めない夢の中にいるその方向を見た。


「ここは、人が沢山いるのに、動いているのはアンドロイドの方が多い。受付もそうだし、人々の世話をする医療用の作業員もアンドロイド。私の生活の補佐をしてくれるのもアンドロイドだ。ある日、あのエントランスに一体のアンドロイドが踏み込んできた。故障をしていてね。迷い込んできたらしい。受付は普段通りに応対した。用を問い、けれどその問いにアンドロイドは何の答えも持たなかった。命令も用事もないのだ。故障して迷い込んだだけ。主体的な用事など存在するわけが無い。そこで彼は、自身の経歴を語りだした」

「判断を他人に委ねるのはプログラム通りではないですか」

「確かに。あの故障したアンドロイドは自身のスペックを明かし用事を他人の口から得ようとしたのだろう。けれどその語り口は、あたかも懐古している様に見えた。そして、受付は適切に相槌をうっていた。プログラム通りにね。やがて語り終わると、アンドロイドは立ち去っていった。プログラム通りといってしまえばそれまでだし、故障のせいとも言える。ただ、私には話をしに来たように見えた」


 それもまたドクターの、……この優し気な老人の主観に過ぎない。


「人の姿をしていたから、共感した。バイアスのかかった見方では」


 冷たい言葉を吐いた彩夏に、ドクターは包み込むような優しい視線を向けた。


「そこまでは、ね。私が驚いたのは帰る時だよ。去るアンドロイドを、受付は見送った。定型句は、またいらしてください、だ。けれど、受付はこう口にした。良い旅を」


 良い旅。その言葉――旅とは、果たして何を指したものか。


「ここに踏み込んでくるのは、ほとんど明確に用事のある人間だけだ。君のように見舞いに来るとかね。そういう存在に対しては定型句を用いる。けれど、用事のない個体に対しては定型句がなかった。彼女の言語をつかさどる領域はそのシチュエーションに対してはもっとも適切な言葉を思考し、良い旅を、という言葉を選んだ」


 彩夏は明白に用事があってやって来た訳ではない。ただなんとなく辿り着いてしまっただけで、けれど、それは勘違いだったのだろうか。ドクターに見舞いと断言されて、自身の奥底にあった欲求が顔を覗かせたようで―蝉の声を聞いた様な気がして、彩夏は押し黙った。


「表面的に見れば間違った言葉だ。故障している彼は旅立つ訳ではない。あるいは、目的なく放浪しているアンドロイドの行動を旅という言葉で表現したのかもしれない。けれど、私にはそれが死後の世界を暗示しているように見えた。今生を去る者――去りかけている者に、優しい言葉を掛けたようにね」

「アンドロイドにあの世の概念があると?」

「死後の世界を夢想するのは神を想う行為であり、肉体とは別個の魂の存在を暗示する」

「なら…アンドロイドに魂があるというんですか?」

「私にはそう見えたという話だ。ばかばかしいと笑うかい。けれど、魂を定量的に観測出来ないのは我々人も同じだ。人に魂がないかもしれない。同じ様に、アンドロイドに魂があるかもしれない。チューリングテストにパスした段階でそれを得たとしても可笑しくはない」


 暴論だ。紛れもなく恣意的な個人の意見であり、けれど彩夏は自分の中をどう探っても、それに対する正しい反論が思い付かなかった。 


「少なくとも、私からすればこの場所でずっと夢を見ている人々よりも、受付で定型句を発するアンドロイドのほうが魂を持っているように見える。集会を開いたと言う事件に関わって、中核のアンドロイドと話して、君も同じような感触を抱いたのだろう。それを過ちとは言えない。彼らは――人によく似ている」


 窓の外の多脚は、いつの間にやら姿を消していた。木に登る試みに飽きたのかもしれない。


 飽きた――その極めて人間的で曖昧な言葉をあの多脚に適応する事に、彩夏はもう違和感を覚えなくなっていた。やがて、ドクターは難しい話は止めようとばかりに身体の力を抜いて、尚も変わらぬ優しい口調で彩夏へと語り掛けた。


「つまらない話をしてしまったね。まあ、謹慎を受けてしまったものは仕方がないとひらきなおって、よく考えてみると良い。君はまだモラトリアムだ」


 モラトリアム。金融の支払い猶予期間が元になり、いつの間にやら思春期や精神の過渡期を指すようになった言葉だ。


 要するに、子供だと指摘されているのに等しい。確かに彩夏はドクターと比べれば半分も人生を送ってはいないだろうが……。


 その理性を脇に置いて、彩夏はただ感情的に呟いた。


「私はもう成人しています」


 その仕草こそが子供だとでも言いたげに祖父の様な笑みを浮かべて、ドクターは言う。


「青春を辞書で引いてみると良い。25才までと書いてある」


 青春――モラトリアムと極めて近い意味の言葉。眉を顰めた彩夏に、ドクターは更に告げた。


「それに、人の知能というものは平均25才まで上昇するともいわれている。学術の発展から考えると青春という言葉が先にあったのだろうが、奇妙な一致だ。東洋医学と西洋医学、漢方と化学薬品のような話だろうが―だから、私は25まではモラトリアムだと思うんだ」


 そしてドクターは、すっかり冷めてしまったコーヒーを手に取った。


「チューリングテストをパスしたAIがこの社会に現れ、普及してからまだ20年余り。彼らもまたモラトリアムという事だ。どう変質し完成するかわからない」


 そして、冷たいコーヒーを啜り、ドクターは自嘲気味の笑みをこぼす。


「そもそも、完成があるのかすらもわからないな。人が到達点とは限らないのだから」


 *


「ご注文は何でしょうか?」


 安息区を後にした彩夏は、もはや答えの出ようのない難問を抱えたような、頭が重い鉛にでもなったような気分に苛まれ、そしてそんな心情とは関係無く空腹を訴える生理的な欲求に従い、安息区から離れた街中の適当な喫茶店へと入っていた。


 屋外のテラス――パラソルの下の白いテーブルについた彩夏の元には、女性の店員――”A.I”の表示のあるアンドロイドがやって来た。


「……サンドイッチとアイスコーヒー」

「サンドイッチには10のメニューと6のトッピングがございますが」


 極めて事務的な口調で――姿は人でも、これはアンドロイドだとより確信したくて、彩夏はこう応えた。


「任せるわ」


 窮するはずの問い。けれど女性店員は、愛嬌のある微笑みと共に頷いた。


「かしこまりました」


 そして、何事も無かったかのように店の中へと去って行く。理性で考えれば注文される比率から統計を取ってサンドイッチの中身を決めるのだろうが、それにしたってアンドロイドが自分で彩夏に出すメニューを決めることに違いは無い。


 魂――歩み去る背中にそれを見た気がして、彩夏は溢れる感情を抑える為に懐から煙草を取り出した。

 そして火をつけてからテーブルの上に灰皿が無いことに気が付き、舌打ちを一つする。


 と、そんな彩夏のテーブルに白い手が伸び、他のテーブルから持ってきたのだろう透明な灰皿が置かれた。


「これでしょう、お姉ちゃん」

「ええ、ありがとう……」

 反射的にそう答え、視線を上げた彩夏は、その光景に絶句した。


 白い肌。白い髪。対照的に真っ赤な瞳――神秘性を備える美貌を持ったその少女は、紛れもなく集会の中心にいたあの少女と同じ姿形をしていて……はじけ飛んだ無機物の脳漿を彩夏は幻視した。


「彼も煙草を吸うの。こうすると喜んでくれるのよ」


 唄うように美しい声音で、いたずらっぽく微笑んで、その少女は断りも入れずに彩夏の向かいに腰を下ろす。


「ねえ、お姉ちゃん」


 可憐――そうとしか形容できない完璧な偶像は、容姿に似合う仕草で両手で頬杖をついて、おねだりでもするように目を細めた。


「私達と、お話をしましょう?」

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