佐切彩夏/夢のように朧な境界線 上
水槽の中に、脳味噌が浮かんでいる。その脳には電極とケーブルが繋がっていて、アウトプットとインプット、双方の情報が外部とやり取りされている。
視覚や聴覚――五感を認知させる電気信号は脳へとインプットされ、脳はその情報通りの物を見て、情報通りの音を聞く。そしてそこで瞬きをしようと思えばその電気信号はアウトプットされ、それに応じてインプットされる情報に変化が生じる。見ている景色は一瞬瞼の裏になり、再び眼前に現れる。
脳とは電気信号の集積器官だ。だから、先に言ったような状況に脳が置かれていたとしても、すべての神経に偽造の電気信号を送ってやれば、たとえ実際は水槽の中に脳が浮かんでいても、人は十全に体があって日常を過ごしていると知覚することが出来る。逆に言えば、例え実際に脳がその状態にあったとしても――人は知覚できない。
これは、”水槽の脳”と呼ばれる思考実験だ。哲学だか認知論だか判然としない多分野に関わる思想であり、深く考えれば深淵に通じ自身の顔を覗き込む羽目になる底なしの沼であり――そしてある種既に実証されている理論でもある。
静謐な木々の中に突如現れる巨大なドーム型の建築物――安息区と呼ばれているその場所には”試験管の脳”がずらりと立ち並んでいる。
最も、実際に脳の浮かんだ水槽が立ち並んでいる怪しげな研究施設のような風景がその中に広がっているわけではない。どちらかといえば、そこは墓場のようだ。
五体満足――中には深刻な怪我をした人も居るだろうが、そのほとんどは五体満足の状態でスモークの掛かった楕円形のカプセルに寝かされていて、機械によって常時健全な状態に保たれる。そして彼らはヘットギアにも似た電極の束を頭にかぶせられ、目覚めることなくずっと夢の中で過ごしている。
彼らの体は動かない。瞬きをすることも無く、ただ心臓や感覚器官は機能していて、その意識はカプセルに備え付けられたサーバーの中で平穏な日々を過ごすのだ。
投薬と電磁的な麻痺で各感覚器官と運動神経への干渉を阻害し、代わりにその信号をサーバーが与え、サーバーが受け取る。そうする事で現実では寝入っていながら、仮想の世界―夢の中ではありたい自分、在りたい世界に居られる。例え現実に足が無くても、その世界では自由に歩き回り駆け回ることが出来る。そして夢を見ている本人は、いずれ夢であることを忘れてしまう。
――だから、安息区に立ち並んでいるのは五体が十全な”水槽の脳”だ。
元々は植物状態の患者の意識確認の為に設けられた施設であり、その後重度のロックトイン症候群への一時的な措置、慢性的な措置、ついには末期患者への措置にと適応範囲が広がっていき、今となっては医者の同意があればどんな症状の人でも利用できるようになっている。
彩夏がその安息区を訪れたのは……そこに父親が眠っているからだ。休暇を与えられ、する事も行く場所もなくさ迷い、気付けばこの場所に足を運んでしまっていた。
がらんとした安息区のエントランスに、人はいなかった。たった一人受付の女性が立っているが………アンドロイドだ。
人はほとんどこの場所に寄り付こうとしない。たとえ身内がこの中にいるとしても、一度来れば二度目に来ようとは思わないものだ。彩夏とて来たのは何年も前――まだ子供の時分の話で、そしてそれ以来近づいたことはなかった。
「ようこそいらっしゃいました。御用の程はなんでしょうか?」
受付のアンドロイドにそう問いかけられて、彩夏は答えに窮した。用事があって来たわけではない。たださまよっているうちについてしまっただけだ。
「お見舞いですか?お顔をご覧になられますか?それとも、会っていかれますか?」
会っていく――その言葉に彩夏は鳥肌が立った。
ここに入った人間に会う。
それは、夢の中に入るということだ。本格的に安息に入るわけではないから感覚神経と運動神経の阻害をするわけではなく、ただヘルメットをかぶり夢の中の景色を見て、夢の中の音を聞いて、夢の中にアバターを造って入り込む。その気になれば会話もできるし、触れ合うこともできるが――
――彩夏が蝉の声を聞いたのはその中だ。
「いいえ。来ただけよ。用はないわ」
なぜ来てしまったのか――粟立つ肌に寒気を覚えて彩夏は受付のアンドロイドに背を向けた。
と、いつの間にやら背後には一人の男が立っていた。
コンタクトに”A.I”の表示はないから、人間だろう。背の低い老人で、年の瀬を感じさせる皺が優し気な風貌を作り上げていた。
見覚えがある。彩夏の記憶の中にわずかにその男の姿があった。それは、彩夏が父の夢に入った時だ。この人の手引きで、彩夏は父の夢の中に入り、そして――。
「佐切彩夏」
その人物はそう、彩夏の名を呼んだ。人に安心感を与える、優しい音色の声だ。
この人の名前を、彩夏は思い出せない。ただ、ドクターと呼んでいたことは思い出せた。もしかしたら名前を聞いていないのかもしれない。本当に医者かどうかもわからないが、とにかくこの人はドクターであり、この安息区の管理人だった。
「…よく、覚えてますね」
この人と彩夏が会ったのは何年も前に一度きり、それも数時間程度のはずだ。あのころとは彩夏の風貌も大きく変わっているが、ドクターには見分けがついたらしい。
「特技でね。会っていくかい?」
飾り気なく問われ、彩夏は反射的に首を横に振った。
「顔を見るかい」
「…いいえ」
「そうかい。なら、お茶でも飲んでいくかい。そうだ、それが良い。最近はてんで人に会わなくてね」
「…いえ、私はもう」
断ろうとした彩夏の言葉を聞こうともせずに、ドクターは先立って歩き出して行ってしまった。そして、重ねてこんなことを問いかけてくる。
「それとも、コーヒーの方が良いかな」
*
「アンドロイドが集会を開く、か」
ドクターについていった先にあったのは、奇麗に整理された応接室だった。一面がガラス張りで、すぐそばまで迫る森の情景と、柔らかな陽光がその場所に差し込んでくる。
「そしてそれを正直に報告したら、謹慎を受けた、と」
彩夏はそんなことを言うつもりはなかった。適当に世間話をしてさっさと引き上げるつもりだったのだが、いつの間にか悩みの全貌を目の前の老人にぶちまけてしまっていたのだ。ドクターの持つやわらかい雰囲気がそうさせたのだろう。
それに、彩夏は多分、誰かに相談したかったのだ。幼少の記憶でよく覚えてはいないが、この老人に対して彩夏は全く悪い印象を持ってはいなかった。むしろ信頼に似た感情も持っていた。
――もしかしたら、自分は、この人に相談しに来たのかもしれない。そんな事を思った。
「…私も、確信があるわけじゃないんです。けど…」
「人に見えたのだろう。その少女のようなアンドロイドが」
まるで濁すことなく図星をつかれ、彩夏はうつむいてコーヒーに映る自分を見た。
ドクターは視線をガラスの向こうへと向ける。
「アンドロイドと人間の違いは何だろうね」
その言葉に顔を上げた彩夏は、ドクターの視線を追って外を見た。
迫る木々と柔らかな陽光―そしてそこには、一体のロボットがいた。一般的に普及している人型のアンドロイドではなく、どちらかというと虫のような姿かたちをした多脚のロボットだ。何をしているのか、彩夏には分らなかった。
ただ木を眺めて、登ろうとしているようだ。
「…有機物か、無機物か」
アンドロイドと人の違い――それを考えた時に、彩夏に最初に浮かんだ答えはそれだった。アンドロイドは極めて人に似た姿かたちをしているが、いまだ有機物で構成されたそれは現実のものになっていない。
「あるいは生命体であるか否か。確かに、それは明確な差異だ。あのロボットを見て、人と呼ぶ者はいない。けれど、本当にそうか?あれが人間である可能性はないのか」
「…あれは機械です」
「見た目は、ね。けれど、私はあれが人であると知っている。なぜか」
なぜ。そう問われても、彩夏には答えが即座に思いつかなかった。そして彩夏が答えを見つける前に、ドクターは言う。
「あの多脚の中には、人の脳髄が埋め込まれている。保存液と疑似的な各種臓器、そして直結された偽感覚器官と運動神経を持ち、彼は彼の意志で動いている」
それは――ありえない話ではなかった。現在の医療の進歩は目覚ましい。その気になれば”水槽の脳”を実行できてしまうようなレベルにあって、だから技術的には可能だ。
だが、それを倫理が許すのか。
「彼は事故にあってね。身体はすべての機能を失った。医療の観点から完全な疑似身体を作成し、あの姿になったんだ。もちろん、人の体にすることはできた。生きているとき、生身そのままの姿を造ることが。けれど、脳髄だけになっても我々は彼と意思疎通をすることができた。この安息区に立ち並んでいるそれと同じ技術でね。仮想現実の中で私は問うた。君の体を作り直そうと思う。どんな姿が良いか。彼は答えた。私は高層から落下し、体を失った。次の体は飛べると良い。仮に飛べなくても、せめてしがみつけるような姿が良い」
妙にリアリティのある言葉であり、あり得ないと断言できない話であり、だから彩夏はすがるような気分で問いかけた。
「…嘘ですよね」
けれどドクターははぐらかしてしまう。
「どうだろうね。技術的に不可能な話ではない…だから、あの中に脳髄が入っているかもしれない。もはや見た目だけで人ではないと断定できるレベルの科学技術ではない」
多脚を見る。木に登ろうと、幹を削っている。
あの中に脳があっても不思議はない。そう、彩夏は理性では承知していたはずだった。けれど今の話を聞いて、たとえ嘘であろうと物語を与えられて、彩夏にはあの多脚がロボットだと――もう、断言できなくなっていた。一見無意味にも見えるあのロボットの行動までも、人の意思に見えてしまう。何か欲求があって木に登ろうとしていると。
黙り込んだ彩夏を、ドクターは深い思慮を帯びる目で眺め、また問いを投げかける。
「では、エントランスの受付はどうだろうか」
ただの問いに、だんだんと、彩夏の中の境界線が揺らいでいくような気がした。
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