故障した少女/佐切彩夏/皹に触れ
小さな胸に紙袋――絵の具のほか絵筆やパレットもおまけしてもらって――だから色を付けるのに困らないだけの沢山のプレゼントを抱えて、少女は家路についた。
嬉しいのだと思う。楽しいのだと思う。そして同時に、少し怖い。
小さな胸中にそんな感情をため込んで、ほんの少しだけ微笑んで、少女は雑踏を歩く。
七緒は喜んでくれるだろうか。七緒はあの絵に色を付けてくれるだろうか。七緒は心の中の景色を見せてくれるだろうか。
そんな期待が足を躍らせて――見える世界が輝いている。カラフルだ。何のこともない雑踏がとても奇麗で、少女はこの景色を七緒に見せて上げようと思った。
……そんな時だ。
「あら?貴方……」
不意にそう呼び止められて、少女は振り向いた。
そこに居たのは、少女自身だった。着ている服は違う。顔に包帯も巻いていないし髪飾りをつけてもいない。けれどその体は紛れもなく少女と全く同じデザインをしていて、見た瞬間、少女は自分の足元にひびが入ったような気がした。
「私達よね?……でも、私達じゃないわ」
もう一人の少女は、そんな事を言いながら歩み寄ってくる。
明確な恐怖――違和感は、少女を後ずさりさせた。
「そう。故障しているのね。お父様のところに行きましょう?直してくださるわ」
そう言って差し出された手にも、少女は首を横に振る。
すると、もう一人の少女は露骨に眉を顰めた。
「嫌なの?駄目よ。私達じゃない」
そして少女へと歩みよってくる。自身の手を首筋に向け、そこから容姿からして違和感しかない黒いケーブルを引きながら。
そのケーブルは蛇に見える。後ずさりし続ける少女はやがて壁に背をぶつけ、逃げ場無く怯えた目をもう一人の少女へと向けて――けれどもう一人の少女は止まらない。
雑踏を歩む人々も同型のアンドロイドがじゃれているだけとでも思ったのか、奇異の視線を向けるも助けてはくれなかった。
「さあ、これでまた、私達よ」
両手で抵抗したいけれど、絵の具を落としてしまう。これは大切なもので、落とすわけには行かなくて――碌な抵抗も出来ないままに、少女の首筋には黒い蛇が噛みついた。
瞬間――少女の目の前に景色ははじけ飛び――目を見開いた少女は笑う自分の顔を見て――大切な絵の具を取り落した。
*
エレベータの戸が開き、アンドロイドと人が混じりあうそのエントランスへと出た所で、彩夏は知った顔に出会った。
……思えばここは彼の職場であり、出会う可能性自体は考慮していたが、二日酔いやら何やらですっかり忘れていたのだ。
だからそれは彩夏にしても思いがけない邂逅で、……雄一からすればその思いは尚更だろう。
「……佐切。なんで、ここに?」
佐切――名字で呼ばれて、彩夏は雄一の隣に女性が立っていることに気付いた。柔らかい雰囲気を持った女性で、多分彩夏よりも年上だろう。雄一とその女性との距離感……べたついているわけでもないが気安さのある距離を感じて、彩夏はぶっきらぼうに答えた。
「仕事よ。そっちの人は…奥さん?」
「ああ。里紗だ」
紹介した雄一の声に、その女性は僅かに頭を下げて、それから雄一に問いかける。
「あなた。この人は?」
「……友達だよ」
「そう」
そう答えた女性には彩夏と雄一の関係を見抜いた節があった。そもそも雄一が見抜き易いような動揺を見せるのが問題であり、……そんな事を考えた自分が彩夏は嫌になった。
「夫と、仲良くしてくださいね。この人、友達少ないから」
嫌みのない雰囲気で、それが彩夏の神経を逆なでする。
「ええ。お子さんは家でお留守番?」
自身の声に嫌みの響きを感じて、それが自分とこの人の差かと彩夏は自己嫌悪した。
「託児所にあずけてるの。心配ではあるけど……私も早く仕事に復帰したいし」
今の時代、労働人口は貴重だ。簡単な労働はアンドロイドが代替するが、かといって全ての業務の代わりになるわけではない。この女性がどんな仕事をこなしているが知らないが、出産後すぐに復職するというのも珍しくはない。
「そう。……じゃあ、私行くから」
このまま会話をしていて楽しい者はいない――そう感じて、彩夏はぶっきらぼうにそう告げると、その場から立ち去った。
雄一とその妻は彩夏と代わってエレベーターに乗り込み、何か小声で話した末に、その戸は閉じる。二人を載せてエレベーターは登って行く――。
*
『はーいはい、橋場さんですよ。おう、嬢ちゃん。また振られた?』
三葉エレクトロニクスを出て最初に見つけた喫煙所で、彩夏は煙草を吸いながら橋場に連絡を取った。仕事の話の為だ。
「なんでよ」
映像電話の向こうの軽薄な男をギロリと睨みつけると、橋場は怖い怖いとばかりに肩をすくめる。
『何時にも増して機嫌悪そうだし。その目つきじゃ男も逃げるって』
「……それより事件の進展は?」
くだらない話をさっさと打ち切ろうとそう言った彩夏に、橋場は変わらぬ調子で答える。
『おいおい、昨日の今日でそんな進展するわけないだろ、嬢ちゃん』
それは当然の話だ。それにそもそも真犯人はあのシャーリー型のアンドロイドたちであり、黒幕などいない。この先の真相など存在しないのだ。
『ああ。つっても、一つ進展があるとすりゃ、あのアンドロイドの回収が正式に決まったって事くらいかな。今日一で役員会が決定したらしい。さっきこっちにも通達が来た。あ、一応部外秘だから。空売りとかするなよ?インサイダーで捕まる』
「しないわよ」
進展といえば進展だが、実務的な手続きに近い。岬京吾が呼び出されたのも、タイミングから見てその話だろう。
……回収、か。
「……ねえ。回収されたアンドロイドってどうなるの?」
彩夏はそんな、わかり切ったことを尋ねた。
『ん?……まあ、廃棄じゃね?』
「廃棄……」
回収されて、破壊される。あの少女達が。
愛を知りたいと言って、絵の具が欲しいといって、”お父様”にお茶を淹れて――。
『致命的なシステムエラーって事になるみたいだし』
「回収はいつ?」
『明日の予定だけど、……それが?』
「そう。少し寂しいわ。あの子達、何も悪い事はして無かったのに」
それは、紛れもなく彩夏の本音だった。悪いことはしていない。ただ、すでにある法律が――時代遅れの法律が悪いと決めて、社会がそれに対して行動した。ただのそれだけで、不運であるとしか言えない。
『非公式集会は違法だろ?』
「集めた人間に対するね。アンドロイドに適応されるの?」
『まだ言ってるのかよ。まあ、これで非公式集会が開かれなくなったら逆説的に嬢ちゃんが正しいことになる。それで良いじゃねえか』
「そうね」
『まだ休暇だろ?これで終わりって事で羽伸ばせよ。あ、実は俺明日休暇の申請だしたからさ、良かったら――』
くだらない事を言い出した橋場の言葉を最後まで聞かず電話を切って、彩夏は家に帰ろうと歩みだして……嫌な予感が胸中をよぎった。
回収――廃棄。そう聞かされて、彼女達がどうするのか。行動を起こす可能性はないのか。
“私達はそれがいけないことだと思うから、もっと別の方法を考えてみるの”
そう答えた少女。――けれど、もう時間がないとしたら?
ピエタを切刻む少女――別のアプローチ。
背に隠し持った銃の冷たさがまた背筋を這いまわり、彩夏は自身の勘が誤りであることを願いながら、再び三葉エレクトロニクスへと舞い戻った。
*
沢山の本棚が円形にその空間を囲んでいて、中心には大きな円卓がある。
私室――”私達”の部屋。抽象的に具現化されたシャーリー達の共有バックアップスペース。
白く輝くその場所には少女達がいた。たくさんの少女達が本を手に取り、本棚に戻し、円卓で華やかに笑いあう。全て同じ顔――少女と同じ顔をしていた。まったく差異のない相貌で――全て自分で――けれど全員が少女とは違う。
「あら?貴方その顔……」
少女の隣に立っている同じ少女――この場所に引き入れた個体は、こちらに視線を向け、こちらの顔を見ると、意外そうに眉を顰める。
「思い出したらきっと戻るわ。貴方の過去は……こっちね」
引き入れた個体はそう呟くと、少女の手を取って迷うことなく歩き出す。少女は抵抗しようとして、けれどそれもままならぬまま手を引かれていき、やがて一つの本棚の前へと導かれた。
他の本棚とまるで差異もなく、白い無地の背表紙の本が並んでいる。だが、どの本を手に取るべきか少女には分かった。どこに、自分の過去が記されているか。
思い出したくない――そんな感情とは裏腹に、少女の手は吸い込まれるようにその本を手に取って、開いた。
その瞬間――少女は自身の過去を思い出す。
現金の詰まったアタッシュケースと引き換えに”買われた”事。
薄暗く良く虫の出る部屋――ベットしかないその場所で、それからずっと過ごしたこと。
嬌声――沢山の男達。媚びて、機嫌を取って――悦ばせて。毎日繰り返して、毎夜焼き増しで、でも夜の度に違う男で。彼に向けていたのと同じ笑顔を、沢山の男に見せていた。
一年余りの記憶が一瞬で蘇り、焼き付き、少女は本を取り落とす。
地面に落ちた本は一瞬で消え去り、いつの間にやら本棚に戻っている。
「思い出した?」
自分を引き入れた個体に、少女は頷いた。汚されたような気分で――けれど自分は最初から穢れていた。彼に拾われたその瞬間には、もうすでに――。
目の前の、同じ貌の少女――引き入れた個体は、少女の顔を見て驚きの表情を浮かべる。
「泣いているの?」
そう問われて、少女は自身の頬に触れた。確かに、そこは濡れている。アンドロイドが涙を流すはずも無く、けれどこの仮想の非現実の中で、少女は確かに泣いていた。
やがて目の前の個体は本棚へと手を伸ばす。真っ白い本棚の中で、ただ一つだけ赤い色の本――撃たれてからの記憶だと、少女は直感した。
目の前の個体はその本を開き、読み進めるような仕草をして、やがて本を閉じる。
「そう。貴方はもう、個なのね。私達じゃない」
悟ったように、目の前の少女は言う。
「包帯が消えないわけね。貴方は私達とは違う顔になった。貴方はもう私達じゃない。貴方はもう貴方になったのね」
そう言うと、目の前の少女は赤い本を少女へと差し出した。
「これは貴方のものよ。私達の物じゃない」
少女――泣き濡れた顔に包帯を巻いた少女は、大切そうにその本を胸に抱えた。
目の前の少女――依然完璧な容姿のその少女は優しく微笑む。
「貴方が一番よ。羨ましいわ。愛がわかったのね。でも、良いの。私達でも私になれるって、貴方が証明してくれたから」
そして完璧な相貌は、美しい微笑みを浮かべて、包帯を巻いた少女を突き飛ばした。
「彼とお幸せに」
その声が最後に耳朶を打ち、赤い本を抱えて少女は落ちて行った。
電脳の暗がり、0と1の連なりを越え……やがて少女は瞼を開く。
そこはもう現実――人の行きかう雑踏。
完璧な少女。私室へといざなったあの個体の姿はすでになく、少女は一人、壁を背に座り込んでいた。
足元には紙袋――七緒へのプレゼントが落ちている。
彼の心の中が見たい――そんな真摯な願いを持って純真に抱えていた大切な物に、少女は手を伸ばしかけて……けれどその手は震えていた。
物質的には何も変わらない、ほんの数分前の自分と何も変わらないというのに、そのプレゼントを渡す権利は自分にはない、そんな風に思えてくる。
穢れている――この手も、体も、記憶も。
涙を流したかった。
けれど現実の少女は――アンドロイドの赤い瞳は、いつまでも乾いたままだった。
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