第36話 きらきらクリスマスイブ
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劇中で使われていたBGMとともに、エンドロールが流れはじめる。細かい英語の羅列を眺めながら余韻に浸っていると、どこかから乾いた水音がかすかに聞こえたり、話し声が聞こえたりと、張り詰めた空気がわずかに緩むのを感じた。
終わりが近づいているのか、かかっていた音楽が一段と盛り上がっていく。最後に監督の名前が中心にくると、画面が消えてすぐ、場内の明かりがぱっと点き、映画を見ていた人たちが次々と立ち上がっていった。僕も移動する支度をしながら横にいた満水さんへ目を向けると、シートに背を預け、心ここにあらずの状態でぼーっとしていた。
僕は彼女の肩を揺すった。「真癒子? だいじょうぶ?」
「あ、え、うん、ごめん。待って」と満水さんがシートから身体を離した。
「ゆっくりでいいよ。他の人が移動するまで動きにくいし」と僕は小声で云った。「かなり入りこんでたね?」
「うん……終わり方、ほんとよくて……久しぶり、この感じ」と満水さんが頬を触りながら云った。「見てよかった。もう一回見に来ようかな」
僕らは中央の座席に坐りながら、端の人たちが移動するまで、見ていた映画について軽く話していた。タイトルは『~Lostname~Re; re; Last reload』というもので、長編三部作の最終章にあたる。舞台はアメリカ。題名からもわかる通りタイムリープもので、あらすじは主人公のジャック・コパードという落ちこぼれ大学生が未来人と名乗る人物から一通のメールを受け取るところから始まり、秘密裏に開発されているタイムマシンを巡る陰謀に巻きこまれていく、というもの。今回の最終章では、いままで謎に包まれていた未来人の秘密が明らかになり、それがタイトルの『失われた名前』につながる内容だった。
準備を整え、僕は満水さんといっしょに場内をあとにする。ゴミを捨ててから通路へでて、入場ゲートへ向かって進んでいくと、途中にある窓から外のようすがうかがえた。すっかり暗くなっていて、立ち並ぶ建物の明かりがぽつぽつと目立つようになっている。
「トイレ行かなくてだいじょうぶ?」
「うん。混んでそうだから。このあとご飯食べに行くんだよね?」
「ほんとは見終わってから、もうすこし余裕ほしかったんだけどね」と僕はスマホを取りだした。「予約の時間までまだあるけど、もう行く?」
「うん、そうする。お店どこにしたの?」
「ここの上にあるハンバーグ屋さん」
「あーあそこ? 一キロハンバーグあるところだよね?」
僕はうなずいた。「真癒子覚えてるかな……夏に、ここで偶然会って、いっしょにそばを食べに行ったじゃない?」
「覚えてる覚えてる。あったあった。あそこの天ぷら美味しかったー」と満水さんが懐かしむような声音で云った。
「そのときのこと、なんか胸に引っかかってて。いつか行きたいなーと思ってたんだよね」と僕は云った。「いまさらだけど、あのときどういう意図で写真見せてきたの? ほんとは行きたかったの?」
「えー……あんまり覚えてないけど」と満水さんが頬に手を添えながら答えた。「恵大と仲良くなりたいな、と思って。お昼食べながら、映画のこととか、いろいろ話したいなーってなって、そのためのきっかけに見せた気がする」
「へー。そうだったんだ。あのときの僕に教えてあげたいな」
「タイムマシンで行く?」
「映画の影響受けてるね?」と僕は笑いながら云った。
話しながら入場ゲートを通りすぎ、僕らは映画館をあとにした。クリスマスイブということもあり、ちらほらとカップルらしき男女の姿が目立つ。一人で歩いていたら浮いてしまいそうだったけれど、となりに満水さんがいるだけで、自分がこの景色に溶けこめているような気がした。
ちらっと、満水さんへ視線を移す。黒いリュックに、お馴染みのダッフルコートと以前買ったマフラーを首に巻き、インナーは厚手のキャメルの編みこみのニット。下は太すぎず細すぎないベーシックな濃いめのデニムで、靴は赤いハイカットのコンバースをはいている。ご飯を食べたあとは外へでるからだろう、防寒と動きやすさを重視したような服装だった。
何度もここの映画館を訪れているけれど、恋人同士になってから来るのは、はじめてだった。
この映画館で、名前も知らなかった彼女にはじめて会ってから、きょうまでのことを振り返ると、なんだかしみじみとしてしまう。こうしてクリスマスイブにカレシとしてとなりを歩いていることが、信じられないけれど現実で、僕はそれを確かめるように、そっと満水さんの手を取った。
満水さんは特に反応することなく、そのまま歩きつづけていた。まるでそれが当たり前みたいに。何度も何度も手をつないで、僕も以前より緊張しなくなったけれど、その変わり、ドキドキとは違うあたたかな感情が胸の奥底に満ちていった。
そのまま手をつないでエスカレーターを上がっていく。飲食フロアに到着すると、僕らはフロアマップを見てから、予約していた『ミート黒岩』というハンバーグ屋さんへ向かった。フロアは食事時というせいもあってそこそこ混み合い、一部のお店の前では順番待ちの列ができている。
お店の戸を開けると、ぶわっと襲ってきたお肉の香りが鼻孔を刺激し、黒いシャツを着た女性の店員さんがやってきた。予約をしている旨を伝えたら、確認後ほどなく席へ案内される。黒を基調にしたテーブルや椅子がおかれていて、ところどころにフィラメントが見えるくらいの大きめのライトが設置され、あたたかな橙の光が人と料理から漂う熱気でぼんやりと滲んでいた。かなり混み合っていて、店員さんが忙しなく動きまわり、話し声がそこかしこから聞こえてくる。
ソファー席に向かい合うようにして腰を下ろしたら「メニューはあちらになります」と店員さんが手で壁を示してくる。壁だと思っていたものは黒板だったようで、メニューと金額が書かれ「お飲物はこちらからお選びくださいませ」と店員さんがA4サイズの紙をおいて、席を離れていった。
「なににしようかなー」
満水さんがコートを脱ぎながらメニューを眺める。僕もリュックを下ろしてからピーコートを脱いでメニューへ目を向けた。お肉のランクと産地が金額と関係しているようで、なかには二千円を越えてくるものもある。
「一キロいく?」
「絶対無理。ねえ見てほら一万円だってあれ」と満水さんが笑いながら云った。「わたし定番のやつがいいなー。黒岩ハンバーグにしよ」
「僕もそれにしようかな。飲み物どうする? いろいろあるみたいだけど」と僕はメニューを見せた。
「んーっとねー。わたしジンジャーエール」と満水さんが肘をテーブルにおきながら云った。「あ。ねえ恵大、これ美味しそうだよ」
「いやそれワイン。やばいやばい」と僕はメニューを眺めながら答えた。「無難にコーラにしようかな。あとサイドメニューもなにかほしいね」
壁を見ながら他になにを注文しようか相談していると、満水さんの膝が僕の膝とぶつかった。テーブルが狭いわけじゃないのにぶつかってしまうのは、きっとどちらも身を乗りだしているからで。だけどお互いにそのことには触れず、テーブルの下で足同士を絡ませて遊びながら注文する品を選んでいった。
「お手洗い行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
店員さんに注文するものを伝え終えてから、満水さんが席を立った。ほんとうは食後に渡そうと思っていたけれど、タイミングがいいのでいまにしよう。僕はリュックに潜ませていたクリスマスプレゼントをだし、包装が崩れていないかを確認した。
テーブルの上にぽんとおいておき、なにも知らないフリを装いながら待っていると、しばらくして満水さんが戻ってくる。
「えっ、なにこれ?」と満水さんが席に坐りながら云った。
「さっきサンタさんが来てて。これ、おいていったよ」
「ねーなにそれもー。真面目に答えてー」と満水さんが笑いながら云った。
「ごめんごめん。えっと、僕からクリスマスプレゼントです」
「えーありがと」と満水さんが袋を持ち上げた。「なんだろ。ちょっと重いね」
「アロマポット。真癒子が好きそうなにおいのオイル、何個か入れておいた。好み、合えばいいんだけど」
素直に教えるとなんだか不安になってきて、僕はテーブルにあったコップをつかむ。なににしようかさんざん迷った末に、これを選択した決め手は、満水さんといると心が安らぐからで。そのお返し、と云ったらおかしいかもしれないけれど、これで彼女がすこしでもリラックスできたらいいな、と思ったからだった。
「ありがと。大切に使うね」
満水さんがにへーっと、ほんわかとしたやわらかな笑顔を向けてくる。もらって困ったような反応でもなく、かといってオーバーでもない、見慣れたいつも通りの笑顔が見られて、僕は安心すると同時に恥ずかしくなって、水を飲みながら目をそらした。
「じゃあ、流れでわたしからも。あとで開けてね?」
満水さんがプレゼントをリュックにしまってから、包装された長方形の箱を差しだしてくる。もらう側というのも緊張するもので、ぎゅっと胸が縮み「ありがとう」と発した声が軽く震えてしまった。
「これだけだと、ぜんぜんわからないね」と僕は包みを見ながら云った。「ヒントちょうだい?」
「たぶん、毎日使うもの?」
「毎日、使う? えー……?」と僕は手で口を隠しながら云った。「もうひとつ」
「だいたい、みんなが持ってるもの?」
「ますますわからなくなった」と僕は笑いながら云った。「開けたいなー。見ちゃダメ?」
「ダメダメ。反応微妙だったらやだから、家帰ってから開けて」
「ん、わかった。でも真癒子からのプレゼントなら、なんでもうれしいよ。ありがとう。大事にします」
彼女を不安にさせないためじゃなく、心から素直にそう思える。僕はもらったプレゼントをリュックにしまい、一息ついて向き合うと、満水さんがにこにこしながら両肘をテーブルにつけて口を開いた。
「実はそのなか、超高級セロリ」
「なに超高級セロリって」と僕は笑った。「実は僕もアスパラの香りのオイル入れといた」
「どうやって抽出するのそれ」と満水さんが手で口を隠しながら笑った。
「わかんない」
注文した品が届くまで、ご飯を食べている最中も、僕らは終始ほほえみ合いながら話しつづけていた。そのあいだ、プレゼントをもらったときとはまた違った喜びがこみ上げて、このなんでもない時間がとても愛おしく思える。
満水さんと過ごすクリスマスイブ。そのかけがえのない一日を噛みしめるように、一口一口を大事にしながら、僕はゆっくりと食事を愉しんだ。
夜風が肌に染みる。たいして強いわけでもないのに、気温が低いせいか歩いているだけで頬がぴりぴりとして、僕は巻いていたマフラーに顔を埋めた。となりでは満水さんが同じようにマフラーで口を隠しながら歩いていて「人多いねー」「だねー」などなどと、互いにこもった声で話しながら、イルミネーション会場まで歩いていく。
明かりで丸見えになっているガラス張りの店内のようす、横を通過していく車の真っ赤なテールライト、雲のあいだから見える半月――夜の街は、昼間とはぜんぜん雰囲気が違った。高校生らしきカップルはいるにはいたけれど、ほとんどが大人のカップルばかりで、年が違っても考えることは同じなのか、僕らと同じ方向へ歩いている。
そして歩くこと数十分、遠目でも確認できるくらい光り輝いている場所があった。
会場が近づくにつれて人の数もさらに増え、ふいに満水さんがぎゅっと腕をつかんでくる。目線を下ろすと、ふふっ、と満水さんがはにかんだ。僕も頬がゆるんで、彼女の歩調に合わせながらゆっくり進んでいくと、円形の広場を囲うように飾られた無数の光の粒子が星のようにきらめき、中央には天高く伸びる青いクリスマスツリーが鎮座しているのが見えた。
どんな感じなのか、画面越しに確認してはいたけれど、実物とは遙かにかけ離れていた。光源のまぶしさ、そこらから聞こえる感嘆の声、会場から漂う熱気など、画像では感じられないものが多すぎて。
自然とできあがっていた人の流れに身を任せ「きれいだね」などと軽く話しながらゆっくりと広場をまわっていく。歩を進めるたび、音がどんどん消えていって、光の輪郭が次第にぼやけ、ぼーっと見惚けてしまった。
「恵大?」
「ん?」
「わたしたちも、写真、撮らない?」
会場を一周すると、クリスマスツリーのあたりで、大学生らしきカップルが写真を撮っているのが目に入った。満水さんにうながされて、いっしょにクリスマスツリーの前まで移動すると、近くにいた人たちの邪魔にならないように、それぞれのスマホで写真を撮る。
「行く?」
「そうだね」
次々と押し寄せてくる人のあいだをすり抜けて、僕は満水さんと腕を組みながら駅の方面へ向かう。プレゼントも渡した。イルミも見た。あとはもう、帰るだけ――なのに、まだ満水さんといっしょにいたいと思ってしまうのは、きょうがクリスマスイブだからだろうか。
「遅いから、家まで送っていくよ」
「いいの? 恵大、帰るの遅くなるよ?」
「だいじょうぶ。むしろ、まだ帰りたくなくて」と僕は歩きながらつぶやいた。「すこしでも、いっしょにいたいんだけど、ダメですか?」
言葉の裏に隠しておいた本音を正直に伝えると、満水さんが黙ってしまった。反応がなかったのでつい不安になり、そちらへ目を向けると、うつむいてマフラーに口を埋めている。
満水さんが顔をそらした。「……メ、――な――い」
「ん? なに?」と僕は顔を近づけた。
そのとき、腕を軽く引っ張られて、頬にやわらかいなにかが当たる。それは人肌にあたたかく、ほんのりと湿り気があって。そちらへ振り向く前に、ぱっと離れてしまった。
突然のことに驚いて、僕は満水さんのほうへ顔を向けると、腕をつかみながら顔を隠すように頭をこちら側へ傾けてくる。その仕草にやられてしまって、僕は彼女の勇気をたたえるように頭をやさしくぽんぽんと撫でた。駅に向かっているあいだ、いっこうに腕から離れようとしないので、おそらく相当恥ずかしかったのだろう。さすがに電車に乗っているあいだは離してくれたけれど、席に坐っているときも手はずっとつないだままだった。
そして電車に揺られること数十分、満水さんの家の最寄りへ到着する。そこそこ遅い時間になっているせいもあり、商店街のお店のほとんどがシャッターを下ろしていて、ビジネスコートを着たサラリーマンが多く見られた。
満水さんの家に近づくにつれて、急に別れ惜しくなってきて、胃のあたりがぎゅっと縮む。ゆっくり歩いてなるべく時間を稼いだけれど、それが永遠につづくことはもちろんなくて、とうとう彼女の家の前に着いてしまった。
「ありがと。送ってくれて」
「うん。きょう、ありがとう。愉しかった」
「わたしも」
「今度、冬休みの予定、いっしょに考えよう」
「うん」
家の人に聞こえないように、小さな声で話しているあいだも、満水さんは手を離さない。じゃあね、となぜか云いだせずに会話が途切れてしまうと、僕はその間を埋めるように、満水さんと見つめ合った。
無言の圧力が、指先から伝わる。
外灯の光を吸いこんで、満水さんの唇がきらきらと輝く。緊張で足がすくんでしまったけれど、覚悟を決めて顔を近づけたら、まぶたを閉じる前に、満水さんが先に目を閉じた。唇同士が軽く触れ合うと、頭が一瞬痺れて思考が停止する。
一秒に満たないほどの、短いキスだった。
お別れではなく、またね、のキスをした。
顔をゆっくり離すと、僕は鼻で短く息をした。酸欠になったみたいに、目の前がちかちかとして軽く手が震えてしまう。
「好きだよ」
「わたしも」
「またね」
「うん」
満水さんが名残惜しそうに手を離す。ドアの前まで歩いていくと、くるりと振り返って、はにかみながら手を振ってきた。僕も笑って手を振り返し、彼女が家に入るのを届けてから、駅の方向へ歩きだす。
世界中の、どんなクリスマスケーキもかなわないと思えるくらい、じんじんと頭に甘く響く余韻に浸りながら。
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