第18話 くらくら愛合傘
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九月最後の週は、雨がつづいていた。
秋雨前線が停滞していることと台風の影響もあるようで、毎日どんよりとした厚い雲に覆われている。午後の最後の授業にもなれば、外は夜のように暗くなっていた。
窓のほうを眺めながら頬杖をつき、僕はシャーペンをまわす。きょうの最後の授業は世界史で、あまり興味がないせいもあり、解説が耳から入って抜けていく。まわりは寝ていたり、授業とまったく関係ないことをしている人が多かったけれど、先生も人数が多くて諦めているのか、注意したりはしなかった。
そうして、だらだらと授業を受けていると、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。学級委員が号令をかけ、先生がでていくと、だらけた空気が一変し、話し声がそこらから聞こえ、賑わいが増していく。
教科書をカバンにしまっていると、満水さんが半身になりながら「寝てた?」と訊ねてきた。
「ううん。なんとか起きてた」と僕はあくびをした。「でも、キツかった……金曜日の最後が世界史って、寝ないの無理だって」
「わたしけっこう好きなんだー」
「僕はダメ。地名も人物もカタカナばかりで、ぜんぜん覚えられないし、馴染みがないからイメージわかなくて」
「えーそう? んーそういう系の映画見てみると頭に入りやすいかも。おもしろかったやつだと『クレオパトラ』とか『ナイルの流れ星』とか、小暮くんも好きそうだけど」
と僕らは担任が来るまで話していた。付き合って約一ヶ月が経ち、付き合いはじめは周囲にバレることを気にして、教室ではどこか避けるような態度を互いにしてしまっていたけれど、いまではあまり気にせず、自然と話せるようになっていた。
恋人同士であることを意識して、最初はかたく考えすぎていたけれど、時間が経つごとに妙に開きなおっていった自分がいた。決定打は、満水さんの家に行ったことだろう。眠気に負けて、ずいぶん恥ずかしいことをしてしまったけれど、結果的に吹っ切れるきっかけになったと思う。
「はい静かにー。HRはじめるぞー」
担任が入ってきて、もうすぐ衣替え移行期間になること、来月には中間テストがあるので、はやめに準備をするようにと諸連絡を伝えてくる。
「季節の変わり目だから風邪に気をつけろよー。はいそれじゃ、解散」
さくっと帰りのHRが終わって、クラスメイトがいっせいに立ち上がる。
「それじゃ、あとで」
「うん、また」
僕はカバンを持ち、満水さんに小さな声で告げてから、かたまっていた若藤と沼のところへ歩いていく。
「ふたりともお疲れ」
「うーっすお疲れ。あ、ケイ。土曜にオンラインプレイしね? 今度こそ海外のやつらぶっ倒してやろうぜ」
「うん、いいよ。するときラインして。時間合わせて準備するから」
「おっけ。じゃーなー」と若藤が手を振った。
沼が手を上げた。「また来週」
「うん。沼も日曜の練習試合がんばって」
沼が親指を立てた。「おう。まかせろ」
軽く手を上げ、ふたりと別れて教室をあとにした。廊下にでると、他のクラスからもどんどん人がでてきて、僕はぶつからないように避けつつ移動し、階段を降りていく。
踊り場を曲がる際、小さな窓から外のようすをうかがう。大勢の人の話し声に負けないくらい雨音が鳴り、大粒の滴が窓についていた。それを見て、きょうも公園で満水さんと話すことはできないな、と残念に思いながら階段を下っていく。
下駄箱で靴を履き替え、クラス別にわけられている大きいバケツのような傘箱のなかから自分の傘を探した。
ない。
まさかと思って、何度も確認してみる。柄が黒いふつうのビニール傘なので、見分けがつくように目印として赤いビニールテープを巻いていたのだけど、いくら探してもぜんぜん見つからない。
盗まれた、かもしれない。
でも、きょうは朝から雨が降っていたので、傘を持ってこなかったとは考えにくい。だとすると、間違って持っていかれたのだろうか。
胸にむかむかと黒いもやが溜まっていく。だけど、ないものはないのだ。代わりにだれかの傘を盗るような人間にはなりたくない。僕は暗く考えないようにして、ツいてないと、割り切ることにした。
玄関のほうへ目を移す。曇天の空から降り注ぐ大粒の雨が地面を絶えずたたきつけ、水たまりの波紋の大きさでどれくらいの強さかだいたい想像がついた。近くのコンビニまで走って傘を買いに行っても間違いなくずぶ濡れになるだろう。
入り口のあたりで立ち尽くしていると、通り過ぎていく人たちに視線を向けられる。次々と傘を広げて玄関を去っていく人たちの姿を見ながら、どうやって帰ろうと考えた。
「あれ、小暮?」
振り返ると、弓峰さんが片足立ちをしながらローファーのかかとを指で入れていた。ちょっとバランスを崩して、二、三歩ケンケンをすると、髪がふわっふわっと舞い上がる。一瞬めんどくさそうな顔をして、とどめを刺すように勢いよく足を地面に踏みこみ、無理矢理靴のなかに足をおさめた。
「どしたの?」
「傘、だれかに持っていかれちゃったみたいで」
「あちゃー。そっかぁ」と弓峰さんがなんとも云えない複雑な顔をした。「折りたたみは、ないよね……あったら使ってるだろうし」
「コンビニまで買いに行こうかと思ったけど、濡れたら意味ないかなって」
「まあそうだね。んーそっかそっか」と弓峰さんが傘箱からビニール傘を引き抜いた。「残念だなー。悪いけど、私も一本しか持ってないんだよね。自分が濡れても傘を貸すような善人ぶったこともしたくもないわけで」
弓峰さんがいじわるげにほほえみながらとなりに並ぶ。なんでわざわざ自分は悪者ですと云いたげにしているのか、よくわからなかった。
「マユ、もうすぐ来るから、いれてもらいなよ」
弓峰さんが傘の紐を解き、ぱさぱさと空気を含ませるように回転させた。
「念のため云っておくけど、茶化して云ってるわけでも、周囲にバラしたいわけでも、ふたりのペースを乱したいわけでもないから」と弓峰さんが云った。「もうそろそろ、いいんじゃないの。まわりがどうこう云ってきたって、マユは小暮を選んだし、小暮もマユを選んだ。やましい気持ちで付き合ったわけじゃないんだし、想いにブレがないなら、お互い堂々としてればいいじゃん」
花火大会の日に思っていたことだ。付き合う前は、周囲にバレることを考えるといろいろ不安になった。地味な僕にカノジョができて、クラスメイトに教室でからかわれ、いじられ、あられもない噂を流されることを想像したりもした。
「そうだね」
でも付き合っていくうちに、そんなこと、どうでもいいと思えるようになった。嘲笑されても、教室でからかわれることになって、いじられて、変な噂を流されても、満水さんを好きだという気持ちが変わることはないのだから。
「仮にウザいことしてくるやつがいたり、悪く云うやつらがいても、小暮には若藤と沼がいて、マユには私がついてる。味方がいるから安心しなよ。絶対、守るから」
「うん。頼りにしてる」
「ま、私もウザいことやらかしてるから、人のこと云えないんだけど」と弓峰さんが苦笑した。「じゃね」
「気をつけて」
弓峰さんがぽんっと傘を開いて歩いていった。小さくなっていくはずのうしろ姿が逆に大きく見えて、僕はその背中に「ありがとう」とつぶやいた。
入り口から離れ、邪魔にならないところで満水さんを待っていると、ふらっとやってきた満水さんと目が合った。戸惑い半分、驚き半分といった顔を一瞬浮かべ、目をそらし、下駄箱から靴を取りだす。僕に気づいていると思うけれど、素知らぬそぶりでローファーに足を入れ、爪先をとんとんと押しこんだ。
傘を引き抜き、きょろきょろとまわりを見てから、こちらに歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
「傘、なくなってて」と僕は云った。「だから、あの、いれてもらえませんか?」
「うん、いいけど……なんで敬語?」
「なんか、いれてもらえるのが当たり前みたいに云いたくなくて」
「そんなの気にしないのに」と満水さんが呆れたように云った。「行くよ」
満水さんが傘を広げると、僕はその横にすっと入りこむ。ぼつぼつと雨粒が当たる音を聞きながら歩いていくと、すこし歩いただけでズボンの裾の色が変わってきて、靴の先がつめたくなり、靴下に水が染みこんでくる感覚がした。
「雨、つづくねー」
「来週から晴れるみたいだよ」
「そうなんだ。というか傘、ショックだね」
「うんまあ、ツいてなかったって思うことにするよ」
正門まで歩いているあいだ、近くを歩いている人たちの視線を感じる。
「でも、ある意味ラッキーだったのかも」
「なんで?」
「盗られなかったら、こうして帰れなかったので」
満水さんが顔を背けた。「さらっと、そういうこと云わないで……聞かれてたらやだ」
「あ、ごめん」と僕は手をだした。「お詫びに、傘、持たせて」
傘を受け取ると、満水さんが目を閉じながら両手で頬を押さえ「はーっ……」と息を吐きだした。僕はその顔をだれにも見せたくなくて、傘をちょっとだけ満水さんのほうへ傾けた。
満水さんと並んで話しているだけで、心にかかる負荷が軽減されていくように思えた。毒と回復魔法を同時に受けているようなふしぎな感覚で、お腹からこみ上がってきたものを抑えるように、傘の柄をぎゅっと握りしめる。
「きょうは、まわり道しないで帰らない?」
満水さんがうなずいて、僕らは駅へ歩いていく。そこら中に傘をさしている人がいるせいか、いつもより道が狭く感じ、向かいからくる車も速度を落としながら走っていた。無理して前を歩いている人を追い抜くこともできず、僕らは水気をふくんだ足音を鳴らしながら、一定のスピードで進んでいく。
僕は小声で云った。「あの、実は、話したいこと、あって」
「なに?」と満水さんがこちらを見上げてきた。
「いつまで隠す? 付き合ってること」
ふたりで相談して、付き合っていることはしばらく隠しておくことになったけれど、その『しばらく』はいつまでなのか、具体的に決めてはいなかった。
「僕は、もう隠さなくてもいいかなって」と僕は云った。「今度から、下駄箱で待ち合わせて、帰りたいな」
「うん。そのほうが、楽だよね」と満水さんが小さな声で答えた。「わたしも、もう、いいかなって。教室でも、ふつうに話せるようになったし。……釣り合ってないって思われるかもしれないけど、気にしないようにするから」
「逆だよ。満水さん、かっ」と僕は云いやめた。「あっ、えっと、ごめん……僕もなにか云われても、気にしないので」
「かっ?」と満水さんがおかしそうに目元をゆるませながら小首を傾げた。「なに?」
「あ、いや、なんでもない」
かわいいから、と云おうとしたのだけど、近くに人がいるのにそんなことを云ったら、また満水さんに注意されてしまう。いままで気がつかなかったけれど、僕は口を滑らせてしまうことが多いようなので、今後気をつけないと。
「ねえ」
「ん?」と僕は頭を近づけた。
「好き」
ウィスパーボイスでささやかれたその言葉が脳の奥深くまで浸透すると、頭がくらくらしてきて、沸騰したように顔が熱くなり、心臓がばくんばくんと大きく跳ねる。
「照れてる。かわいー」
「いまのはズルいって……」
僕は片手で顔を覆い隠した。傘のおかげで助かった。いまの顔を満水さん以外の人に見られずに済んだから。
この狭い傘のなかは防音をまったくされていない無色透明な部屋のようで、ふたりっきりの世界のように錯覚してしまいそうになるけれど、外の世界としっかりつながっている。
そのどっちにも振り切れない曖昧な空間が、どこか心地いい。
ふたりでいるときに見せる姿と、だれかがいるときに見せる姿は違う。僕もそうだし、満水さんもそうだと思う。でも、そのちょうど中間の僕らがここにいるような気がして、この感じを忘れないようにしようと思った。
改札を通り、ホームへ歩いていく。数分後にやってきた電車に乗りこむと、向かいの出入り口にスペースが空いたので、僕らはすかさず移動した。乗車する人が多く、車内はぎゅうぎゅう一歩手前で、ほとんど身動きが取れない。
「だいじょうぶ?」
「うん、平気」
出入り口の角に満水さんが背中をあずけ、僕は近くの手すりをつかんだ。この体勢、満水さんの顔が首のあたりにあるから、息づかいがくすぐったい。
「ほんとありがとう。助かった」
「家までどうするの?」
「走るよ。家に予備あるし。ここまで来て買うの、もったいないから」
「そっか。そうだよね」
迷惑にならないように、小声で話していると、電車が次々と駅を通過していく。
そして、満水さんの降りる駅が近づいてきて、アナウンスが流れはじめた。
なのに、満水さんはまったく動こうとしなかった。僕は話に夢中で気づいてないのかもと心配になり「満水さん?」と呼びかけたら「なに?」と平然とした顔で訊き返してくる。
「次だよ?」
「うん。知ってる」と満水さんが外を見た。「このあと特に予定もないし、家まで送ろうかなって」
電車が停車してドアが開く。いまならまだ間に合うのに、僕はなにも云わずにドアが閉まるのを待った。彼女のやさしさを余計な気遣いだと踏みにじるように、だいじょうぶだから、なんて云えるわけがない。それに、僕もまだ満水さんといっしょにいたかった。
満水さんが、カノジョでよかった。
言葉にしてしまったら陳腐に聞こえ、何度好きだと伝えても、この気持ちのすべてを伝えきれない気がする。でも、どうにかして伝えたくて、僕は人目も気にせず、満水さんの手を取ってしまった。
「ぃー、ちょー」と満水さんが真っ赤な顔をしながらかすれた声で云った。
「ほんとごめん……うれしくて耐えられなくて」
がたんと揺れて、電車が動きだす。
ゆっくりと、恋の速度が、上がっていく。
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