第4話 あつあつ体育館


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 席替えをしてから、学校へ行くのが愉しみになっていた。


 軽やかな足取りで階段を上がり、廊下を進んでいくと、窓から差しこむ朝日が道しるべのように床を照らしていた。僕は教室のドアを開けて、自分の席へカバンをおくと、前にいた満水さんが振り向き、やわらかな笑顔を向けてくる。


「あ、おはよー」

「おはよう」


 僕は素っ気なく思われない程度に声を上げてあいさつを返した。いままでは席が離れていたので声をかけにくかったけれど、席が近くなったことで、気軽にあいさつができるようになった。


 カバンの中身を机のなかに移し終わると、僕は教卓の近くでかたまっていた友達のところへ行った。担任が来るまでのあいだ、話題になった動画のことだったり、もうすぐ夏休みなので、その予定などを聞き合ったりする。友達は部活や塾の夏期講習などで忙しそうにしていたけれど、僕は予定がなにもなかった。


 毎年、夏休みになると、すこし自分を見失いそうになる。みんなのように予定を入れなくてはいけないのかとか、いろいろと考えてしまって。


 今年の夏休みも、ダラダラと無為な日々を過ごすのだろうかと考えていたら、朝のHRがはじまる鐘が鳴り、クラスメイトが自分の席へ戻っていった。


 すこし遅れて担任が入ってくると、この前の夏休みの計画表は今週中にだすようにと伝え、足早に教室をでていってしまった。空気が弛緩し、それぞれが一限の準備をしたり、となりの席の人と話したり、友達を連れて教室をでていったりする。


 教科書を用意していたら、満水さんが振り返った。


「計画表、書いた?」

「まだ」と僕は云った。「なにを書けばいいか、わからなくて」

「わたしも」

「DVD鑑賞とか書きたいけど、なにか云われそうだし」

「あ、それいいね。一日一本、DVD借りて見る、とか」

「出費がすごそう」

「だねー」と満水さんが笑いながら云った。「割り勘なら、そこそこ抑えられると思うけど」


 願望を云っているだけのようで、誘われているようにも聞こえて、言葉に詰まる。


 本能と理性の狭間で心が揺れ動く。車を運転したことはないけれど、アクセルを踏んだままブレーキをかけている状態はこういう感じなのかもしれないな、と僕は思った。


「マユー。トイレ行こー」


 背後から、女子の声が聞こえた。「いいよー」と満水さんが立ち上がり、わきを通り過ぎていく。


 重たい溜息をつき、いまの顔をだれにも見られたくなくて、僕は机に突っ伏した。


 段々と、自分が抑えられなくなっている。だけど自分をだしてしまったら、満水さんとの関係が壊れてしまうような気がして、なにもできない自分がいた。



 昼休みが終わると、僕は友人たちと体育館へ向かっていく。きょうは夏休み前の最後の全校集会がある日だった。廊下には別のクラスの男女の群れがいて、階段を下りていくときに三年生と二年生が入り混じる。


 体育館は、蒸し風呂のようになっていた。


 学級委員が先頭になり、クラスの列を整えていく。そこまで広くない体育館は、すべての学年が入りきるにはきつきつで、となりの女子の列との間隔はほとんどない。


 僕は列の真ん中くらいに立っていると、となりの女子の列がすこしずつうしろに下がっていき、ちょうどとなりに、満水さんが並んだ。


「女子の列、いつもと違くない?」

「成績上位者と皆勤賞の表彰があるんだって。そのクラス代表が前に並んでるみたい」と満水さんが云った。「小暮くんこそ、こんなに前だった?」

「風邪で、休んでる人がいるから」

「あー、流行ってるよね、最近。となり、はじめてだね」


 屈託のない笑顔で云うものだから、こっちもつられて頬がゆるみそうになる。僕は表情を引き締め、前を向きなおすと、しばらくしてから学級委員から坐ってもいいと合図が送られて、前から順番に床に坐っていった。


 全学年の準備が整ったのを確認したのか、司会進行役の先生がマイクの前に立つ。話し声がしていた体育館がしんと静まりかえり、拡張した声が体育館に反響した。


 校長先生が登壇し、夏休みの過ごし方の大事さを語りだす。坐っているだけなのに汗が流れてくるほどの暑さで、お願いだからはやく終わってほしかった。


 となりには、満水さんがいる。すこし動けば腕が当たるくらいの距離で、その近さを意識してしまったら、汗っかきというわけでもないのに汗が流れでて、僕は必死にワイシャツの袖で何度も汗を拭った。


「汗、すごいね」と満水さんが小声で云った。

「なんか、止まらなくて」

「ハンカチ、いる?」


 スカートのポケットから、満水さんが厚手のハンカチをだした。


 迷ったけれど、これだけ汗をかいているのに、受け取らないのは不自然すぎるし、逆に意識していると思われるかもしれない。


 こんな状況でも、そんなことを考えてしまう自分がいる。いいかげん、吹っ切れてしまえば楽になれるのに。


「ごめん、いい?」

「うん、ぜんぜん」


 僕は満水さんからハンカチを受け取って首筋の汗を拭う。自分の家で使っている洗剤とは別の香りがして、なぜかそのにおいが、きゅっと胸を締めつけた。


 長かった校長先生の話が終わり、頃合いを見計らったように、先生のひとりが校庭へ通じる大きな扉を開け、じゃりじゃりと砂と金属のこすれる音がした。


 生ぬるい風が入ってきて、体温がすこし下がってきたのか、汗もすこしずつ引いてきた。


 校長先生の話が終わってからはサクサクと進行していった。全国大会へ出場する部活の激励や、各学年の成績優秀者の発表と、皆勤者の表彰の後、校歌を合唱して、全校集会はお開きとなった。


 司会進行役の先生が三年生から順番に体育館をでていくように促す。待っているあいだ、ざわざわとそこら中から話し声が聞こえだした。


「校長先生の話、長かったねー」

「あれがいちばんきつかった……」


 僕は足を崩して楽な姿勢になると、満水さんも足をななめにした。そのとき身体がすこしだけこちらに傾いて、肩と肩がぶつかる。


「あ、ごめん」

「うん」


 なんとも云えない間ができる。僕はその空気に耐え切れなくて、口を開いた。


「ハンカチ、ありがとう。助かった」

「どういたしまして」

「洗って、返すから」

「うん。いつでもいいよ」

「わかった」


 しばらくすると、二年生が退場して一年生の番になる。端のクラスから順番に出入り口に向かっていき、すこし遅れて僕らのクラスも列を崩さないようにしながら前へ進んでいった。


 体育館をでると、列がばらけて友達同士で教室へ戻りはじめる。満水さんは待っていた友達と合流すると、なにかをささやかれて「違うよー」とその友達の肩を触りながら云った。


「だってあれ見たら、そう思っちゃうってばー」と満水さんの友達がこちらを見てきた。

「だから、違うって」

「ふーん」

「ほんとの、ほんとに」

「へー」

「信じてよー」


 満水さんが友達にからかわれている。内容はまったくわからなかったけれど、僕とのことかもしれないと、なんとなく察しがついた。


 教室に戻ると、満水さんの友達が彼女の席の前に立っていて。まるで僕を待っていたと云わんばかりに、笑みを浮かべてくる。


「ほら、来たよ」

「だから」と満水さんが云った。「小暮くんは、友達だって云ってるよね」


 普段の満水さんなら絶対にださないような、強い声音で云い放つ。


 満水さんの友達はそのことに驚いたみたいで、それ以上追求できない空気を感じ取ったのか「え、あ、ごめん」とどぎまぎしていた。


 僕はなるべく音を立てないようにゆっくりと席に坐った。満水さんの背中はいつもと変わらないように見えたけれど、どこか刺々しい雰囲気を漂わせていた。


 友達。


 その二文字がすとんと胸に落ちてくる。


 ああ、そうだったんだと。だからいままで気さくに話しかけてくれていたんだと、納得できた。


 僕は満水さんから借りたハンカチを、ポケットの上から握り締める。どうして、胸が苦しくなるのだろう。これからは友達として接していると思えるから楽になれるはずなのに、まったく心が軽くなってくれない。


 いっしょに帰ることも、イヤホンを共有することも、ひとつの机でプリントを書くことも、黙って見つめ合ってしまうことも、ハンカチを貸してくれることも、友達だから、していたことなのだ。


 これまでのことを振り返って、悩んだり、心躍らせていた自分をあざ笑う。


 ほんとうに、心の底から、莫迦なやつだなと思った。

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