第35話 だらだら終業式


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 帰りの電車に、満水さんがいる。たったそれだけなのに心が弾んで、高ぶった気持ちを落ち着かせるように胸の前で抱えていたバッグをぎゅっと握った。そんな平静を繕おうとしている僕を煽るように、電車が左右に揺れながら、ゆっくりと進んでいく。


「作れそうなのあった?」

「んー。あるにはあるんだけどー」


 となりに坐っている満水さんは、マフラーに顔を埋めながらスマホをいじっていた。ちらっと画面をのぞき見ると、色鮮やかな料理の写真の数々が表示されている。


 きょうで、二学期が終わった。


 終業式は午前中のみで、そのあとどうするか帰りながら話し合っていたところ『お金があまりかからない』『寒いから出歩きたくない』『いっしょにお昼食べたい』『のんびりしたい』とお互いに意見をだし、最終的な結論として『家でお昼を作ってのんびりしよう』となった。


 満水さんの家だとマチさんが帰っているらしいので、僕の家へ行くことになった。そこまで決めたところで次はお昼のメニューを決めようと、さきほどから満水さんがレシピサイトを眺めながら、作れそうなものを探してくれている。


「美味しそうなやつ、むずかしそう……」と満水さんがスマホの画面を落とした。

「ちなみにどんなの作ろうとしてる?」

「簡単に作れて、美味しくて、材料費のかからないもの」

「欲張りだねえ」と僕は笑った。「あ。チャーハンとかは? お米うちにあるし、卵もあるから、買うの野菜とか肉くらいだし。僕も作ったことあるけど、そこそこ簡単で美味しくできるよ」

「え、恵大、料理できるの?」

「まあ、多少は。一人っ子だからかもしれないけど、親がいないときとか、自分でたまに作ってる。そんなに手のこんだものは作れないけどね」

「わたし、恵大の作ったご飯食べたい」

「考えるのめんどくさくなったね?」

「違うー。ほんとに」と満水さんが笑いながら太股を軽く触ってきた。「この前、おにぎり作ったから、今度は恵大が作ったのも食べたいなーって」

「あーなるほどね。たしかに、あのときのお返し、まだ足りない気がしてたし」と僕は手をつないだ。「チャーハンでよければ作るよ。そのかわり、真癒子もなにかサイドメニューてきなもの作ってくれない?」

「いいよー。なに作ろうかな。寒いからスープほしくない?」

「ほしいほしい」

「じゃあそれと、サラダいる?」

「チャーハンに野菜入ってるし、いらなくない?」

「気持ち程度でしょそれー?」と満水さんがつないだ手を軽く握りながら云った。「いいやじゃースープのなかにたくさん入れる。調味料はそろってるよね?」

「たぶんだいじょうぶだと思う。もし不安なら買ってもいいけどね?」

「んーいいかな。そこはあるもの使えば」


 などなどと話し合っているあいだに、電車は一駅、二駅と各駅を通り過ぎていく。一度の乗り換えを挟んで、数十分後に僕の家の最寄り駅に到着すると、駅にほど近いスーパーへ足を運んだ。


 カゴを持ってから店内へ。ここは僕がむかしから通っているスーパーで、床にはいくつも靴が擦れたような黒い跡がつき、蛍光灯の光もすこしくすんでいたけれど、なぜかその洗練されていない感じが妙に落ち着いた。入ってすぐのところが青果コーナーで、バラ売りされているところには定番のじゃがいもやにんじんなどが雑然と並べられている。


「真癒子ってピーマン食べれる?」

「うん平気。あれでもチャーハンってピーマンだっけ? グリンピースじゃなかった?」

「たぶんそっちのほうが一般的だけど、僕の家だとむかしからピーマンなんだよね。そっちがいい?」

「恵大決めていいよ。そういえば嫌いな野菜ってある?」

「食べられないわけじゃないけど、セロリは苦手かな。あの独特なにおいがちょっと……真癒子は?」

「アスパラ。むかし一度、給食のなかにすっごいかたいのあって。青臭くて、噛みきれなくて、それからあんまり好きじゃなくなった」

「へー意外。そういうのないと思ってた。でもベーコンのアスパラ巻きとかお弁当の定番じゃない?」

「わたしそれ、お母さんに絶対に入れないでって云ってる。でもちゃんと火が入ってれば食べられそうな気がするんだよねー」

「苦手克服します?」と僕はアスパラを手に取った。

「いいー。いらないいらない」と満水さんが苦い顔をしながら首を振った。「恵大もスープにセロリ入れたら食べられるよ。においそこまでしないと思うから。はい」

「さらっと入れない」と僕はカゴのセロリを売場に戻した。「スープどんな感じにするの?」

「定番だけど卵スープ。野菜いっぱい入れる感じで。えっとネギー。ねーぎーはーどこだー」


 満水さんが陽気に口ずさみながら使う食材をカゴのなかに入れていく。僕も話しながら使いそうなものを選んで青果コーナーをあとにすると、精肉コーナーで加工された焼豚のパックをカゴに入れてから通路を進んでいった。


「恵大の家って、お菓子あんまり買わないんだっけ?」

「うん、ほとんど食べないからね。ほしいの?」

「一袋だけいい?」

「いいよ。食べ終わったあと小腹空くかもしれないし。ついでにジュースも買おうか」


 食後のことも考えて、追加でカゴに入れていく。レジで清算をすると、野菜のほとんどをバラ売りとハーフカットで買い、焼豚も少量を選んだので合計は千円に届かないくらいだった。


 僕がお会計をしているあいだに、満水さんがカゴを運んでいく。財布をしまいながら満水さんのところへ向かうと、せっせと袋のなかに買ったものを入れていた。


「よし行こー」

「行きますかー」


 カゴをレジの横に戻し、満水さんから袋をあずかってスーパーをでる。ふたりして「寒い寒い」と云いながら小道を歩くこと数分、自宅のマンションに到着すると、自動ドアの横に設置されている機器に暗証番号を入力してドアを開けた。エレベーターで八階まで上がり、右手に曲がって進んでいくと、僕はカバンから家のカギを取りだす。


「ただいま」

「おかえりー」と満水さんがうしろで小さくつぶやいた。

「いまのもう一回お願い。ただいま感やばい」

「なにただいま感って。ねー寒いからはやくなか入ってよー」と満水さんが笑いながら背中を押してきた。

 僕は笑いながら靴を脱いだ。「ごめん、手がふさがっててだせないから、スリッパあとでいい?」

「うん、いいよ。お邪魔します」


 廊下の電気をつけてリビングへ。壁にあるスイッチを押して部屋を明るくすると、ダイニングテーブルの上に買ってきたものとカバンをどさっとおいた。カゴに入っているリモコンでエアコンとテレビの電源を入れると、静かで寒かった部屋に音と暖気が満ちていく。


「荷物ここおいてて。先にスリッパ取ってくる」

「うん。あ。あとでお金渡すね」と満水さんがマフラーをほどいた。

「わかった。寒いし、上なんか楽であたたかいもの持ってこようか? そのほうが料理するときもいろいろ気にならないと思うし」

「じゃあいい? 借りても」

「ぜんぜんいいよ。待ってて」


 玄関へ戻ってスリッパを取ってから、自分の部屋でネクタイを緩め、ブレザーとセーターを脱いでいく。シャツのボタンをはずしながらクローゼットを漁っていると、ネイビーのプルオーバーのパーカーを引っ張りだした。


 僕は編みこみのグレーのセーターを着てリビングへ戻ると、満水さんが立ったままセーターを持ち、テレビを見ていた。ボタンをはずした袖からでているグレーのインナー、半分だけぺろんとでたブラウスの裾、リボンをはずした第一ボタンの隙間から見える首筋。外では絶対に見れない気の抜けた姿を眺めていると、なんだか心許されているようで、とくんと鼓動が大きくなる。


 僕は床にスリッパをおいた。「パーカー、ちょっと大きいかも」

「ありがと。あ、それ、恵大が前に着てたやつ」

「気にせず使って」


 満水さんにパーカーを渡す。上からかぶって頭がでてくると、髪がすこしだけぼさっとふくらんだ。身幅は余りがちで、リブの先端にちょうど指の第二間接がくる。ざっくり着ている感じがたまらなく好みで、僕以上に似合っているんじゃないかと思った。


 満水さんがパーカーの襟に顔を近づけた。「恵大のにおいする」

「え、くさい?」

「んーんぜんぜん。いやなにおいじゃない」と満水さんがスリッパに足を入れた。「さて。お腹減ったしやりますか」


 満水さんがパーカーの袖をぐいっと上げると、肘のあたりに溜まった生地の膨らみが、ほっそりとした腕を余計に際立たせた。僕も袖をまくり、材料の入った袋を持ちながらキッチンへ移動して、手を洗ってから、まずはお米の準備をする。


「わたし野菜切ってようか?」

「お願いしていい? 僕、いろいろ準備してるから」 


 乾かしていた包丁とまな板を水でさっと洗い、コンロの横の作業スペースにおいてから、満水さんが袋を漁って野菜などをだしはじめる。僕は計量カップをだすついでに、ザルとボウルをいっしょに棚から引き抜いた。


「はいこれ。あとで鍋だすから、ちょっと待ってて」

「ありがと。ねえ、チャーハンにもネギ入れる?」

「すこしほしいかも」と僕はお米を計りながら云った。「二合くらいでいい? そんなに食べないよね?」

「いいよーそれでー」


 僕はザルにお米を入れていき、水をだしながらじゃりじゃりと手でもみこむようにしてお米を洗っていく。しかしこれがまあつらい。冬場だからか水温がめっきり低くて、手の甲がみるみる真っ赤になっていった。


「ね。口開けて」

「ん?」


 満水さんがパックの焼き豚を指でつまんで目の前に差しだしてくる。僕はザルを持ちながら口を運んだ。当たらないように注意していたけれど、距離感がつかめなくて、爪と唇が軽く触れてしまう。


「ん、美味いこれ」

「ほんと? わたしも食べよー」


 満水さんが気にしたようすもなく焼豚へ手を伸ばす。僕は口を動かしながらザルを上下させた。きっと、自分が食べたいから僕に食べさせてきたのだろう。でもこんな風に食べさせてくれるのなら、つまみ食いくらい何度でもゆるしてあげようと思える。なんて考えてしまうほどに、僕はまんまと彼女の作戦に乗せられたのだった。



 空になった食器をシンクのなかへおく。お湯で軽くゆすいで、スポンジに洗剤をつけて泡立てていると、満水さんがパーカーのポケットに手を入れながらキッチンへやってきた。


「なにか手伝うことある?」

「いや、ないかな。ソファでゆっくりしてていいよ」

「んー。テレビおもしろくないから恵大見てる」

「テレビよりおもしろい自信ないなー」と僕はお皿を磨きながら云った。「このあとどうする? 特になにするか決めてなかったけど」

「お母さんとか、いつも何時くらいに帰ってくるの?」

「正確にわからないけど、五時くらいじゃないかな? 夕飯の支度とかあると思うし」

「リビングで会っちゃうと気まずいから、恵大の部屋行っていい?」

「いいよ。暖房つけてないから、ちょっと寒いかもだけど」

「じゃあわたし先に部屋あたためてくる。リモコンどこにある?」

「たしか勉強机の上。そっちになかったらたぶん枕元にあると思う」

「わかった。じゃあそっちで待ってます」

「ん。あとでジュースとか持っていくよ」


 満水さんがテレビの電源を消し、カバンなどを持ってリビングからでていった。僕はなるべくはやく行こうと思い、ささっと洗い物を済ませて蛇口のノブを上げる。


 手を拭いてからお皿をだして、先ほど買ってきたポテチを適当に入れた。冷蔵庫からそれぞれ買った五百ミリのペットボトルを取りだし、お盆の上に乗せてから自分の部屋へ。肘でドアノブを下ろしてなかに入ると、エアコンが稼働している音がして、こんもりと羽毛布団が盛り上がっていた。


 僕はあえて黙ったまま足音を立てないように歩いていき、ローテーブルの上にお盆をおく。ちらりとようすをうかがうと、羽毛布団とシーツのあいだに洞窟のような隙間が空いていた。


「でてこないなら真癒子のジュース飲んじゃおうかなー」

「ねえやめてー」と満水さんがひょこっと顔をだした。

「うそうそ。ぁー、しょ」


 ベッドの横に腰を下ろすと、もぞもぞとうしろから音がして、真横に満水さんの顔がでてきた。両腕を枕のようにして頬を埋め、こちらを見ながらにやにやと笑っている。


 僕はつられて笑いながら云った。「でてくる気ないね?」

「うん。部屋があたたまるまで」と満水さんがやわらかな笑みを浮かべながら云った。「お腹いっぱいだねえ」

「ですねえ。用意したけど、ポテチ食べる気分じゃないなあ」

「わたしも」


 ベッドの縁に背中をあずけながら頭を傾けると、満水さんが片腕をついたまま、もう片方の手を伸ばしてきて、前髪をわけるようにいじってきた。


「髪、伸びたねえ」

「最近切りに行ってなかったからね。明日でかける用事あるし、空いてれば行こうかな」


 クリスマスプレゼントを取りにいくついでに、とはさすがに云えない。話がしにくかったので向きを変えると、ベッドに肘をかけ、前傾ぎみに正座をしながら満水さんと向き合った。


「なーに?」

「さっきの体勢、首痛くて」

「そうなの?」

「うん」


 息がかかりそうなくらい、すぐそばに、満水さんの顔がある。無言で見つめ合っていると、どくんどくんと胸が高鳴りだした。


 そういう空気が流れている、と肌で感じた。


 満水さんの目元が、わずかにとろんとたるむ。彼女も、おそらく同じようなことを感じ取っているだろう。そのいつもと違う惚けた表情を見て、僕は音を立てないように唾を飲みこんだ。


 ここでキスをしたら、間違いなく、その先を求めてしまう。だけど、そのための準備を、僕はなにもしていない。つけずにするのはもちろん論外で、流れを断ち切って近くのコンビニまで走って買ってくる選択肢も『なし』だった。


 それに、仮にそういうことをしようとして、もしも満水さんに拒絶されてしまったら。ふたりで計画を立てて、弓峰さんにも相談してプレゼントを考えたのに、クリスマス直前で気まずくなって、すべてが台無しになってしまう。


 だから。

 いまはこれが、精一杯。


 僕は下からすくい上げるように腕を伸ばして満水さんを抱き寄せた。手が軽く震え、ほんのちょっと腕に力が入る。あたたかくなったパーカー越しから、じんわりと彼女の熱が伝わり、やわらかなあまい香りが鼻に入ってくると、耳の奥から聞こえる心臓の音が、どんどん大きくなっていった。


「このまま、ちょっと話してもいい?」

「う、ん」

「年明けに、親が旅行に行ってて、いない日があるんだけど」と僕は小さな声で云った。「もしも、真癒子がよければ、泊まりに来ない?」


 僕が行くことを渋っていたのはそういう理由もあった。この機を逃したら、たぶんこの先なかなかできないと思ったから。なるべくはやく話そうとは思っていたものの、内容が内容なので勇気がでず、つい先延ばしにしてしまっていた。


 いまのできっと、満水さんは気づいただろう。いま、僕がどういう気持ちで抱きしめているか。はっきりと云ってないけれど、僕はそういうつもりで誘っている。だから、来てほしいなんて、気持ちを押しつけるような強い云い方はしなかった。いや、できなかった。


「行き、たい」と満水さんがささやいた。「行けるように、する」


 首に満水さんの腕がまわる。家の事情とか、いろいろなことがあるだろうから、あくまで願望でしかなかったけれど、彼女の意思をひしひしと感じるくらい、強く抱きしめられた。


 僕も応えるように、同じくらいの強さで抱きしめ返す。暖房が効いてきたのか、それとも抱き合っているせいなのかわからなかったけれど、満水さんの体温が上がっているような気がして、首筋から漂う彼女の香りがいっそう濃くなった。


 そのまま抱き合っていると、離れるタイミングがわからなくなってきて。なんだかおかしくなって、ふいに笑ってしまうと、満水さんもくつくつと笑いだし、僕らはしばらくのあいだ、だらだらとくっつき合いながら笑い合っていた。

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