第6話 ばいばい蝉時雨
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終業式が終わり、教室で担任から通知票が手渡される。名簿順に名前が呼ばれていき「次。小暮」と呼ばれて、僕は席を立った。すこし緊張しながら担任から小さな紙と、提出していた夏休みの計画表をもらって、自分の席へ戻る。
「どう?」
と満水さんが半身になって、こちらを見てくる。すっかり体調はよくなったみたいで、普段の満水さんに戻っていた。
「まあまあ、かな」
僕は通知票をカバンにしまおうとしたら、そのなかに入っている満水さんのハンカチを見て、胸がもやっと陰る。距離をおいてたせいで、ずっと渡せず、洗濯をしてからも入れたままにしていた。
「よかったね」
満水さんがほほえんで、身体の向きを戻した。はやく返さなければいけないと思うのに、なぜだか躊躇ってしまう、やましい自分がいる。これを返さなければ、夏休みになっても、頭の片隅に覚えてもらえるんじゃないかと、淡い期待をしてしまって。
最低な考えを振り払うように頭を動かすと、そこらで通知票を見せ合ったり、じっくりと自分の成績と向き合っている人が目に入った。騒がしくなっても、担任は注意することもなく、淡々と通知票と夏休みの計画表を渡しつづけている。
「はい次、満水」
満水さんの順番がやってきた。呼ばれて前へ歩いていくと、担任が困ったような顔をして頭をかきながら、満水さんとすこしのあいだ会話を交わす。周囲の声がうるさくて、その内容は聞こえなかった。
満水さんがスカートを押さえて椅子に坐った。成績どうだったとも、なにを話してたのと聞くこともできず、僕は頬杖をつきながら時間が過ぎるのを待つ。
全員に通知票が行き渡り、担任が最後を締めるように話しはじめる。みんなはそわそわと落ち着きなさそうにして、はやく終われと念じる気持ちが全身からあふれでていた。
「それじゃ、ハメを外しすぎず夏休みを過ごすように。以上!」
担任が手を打つと、クラスメイトがいっせいに席を立ち、笑顔と歓声が弾け飛んだ。何度も体験しているはずなのに、この不思議な開放感と高揚感は、いつ味わっても胸が躍ってしまう。
僕はカバンを持ち、友達に別れのあいさつを告げる。教室をでる前に、ちらりと満水さんを見ると、仲のいい友達とかたまって話していた。とてもじゃないけど、あの輪のなかに突入してハンカチを返せる勇気はなく、僕はしずかに教室をあとにする。
廊下も人が多く、お祭りのようなにぎわいがあった。僕は人混みを避けながら階段を下りていき、昇降口で靴を履き替えている最中、満水さんの靴箱にハンカチをおいておけばいいかな、と思った。
それは失礼じゃないか、と自分自身を戒める。勝手にひとりで思い悩んで距離をおいて、それはないだろうと。どれだけ莫迦なんだと、目を覚ますように何度も頬を叩いた。
外にでると、視界が一瞬まっしろになるくらい、強い日差しが燦々と降り注いでいた。大海原と島々を逆さまにしたような空と雲の下、肌を焦がさんばかりの日光を浴びながら、僕は駅へ歩いていく。道路はかげろい、首に汗が滲んできて、湿ってきたおでこに何度も前髪がくっついた。
改札を通り、時刻表を見る。ちょうど電車が行ったばかりのようだった。僕は先頭で来るのを待っていると、制服を着た人たちが、次々とうしろに並んでいく。
しばらくして、電車がゆっくりと目の前に停車する。溜息のような音とともにドアが開くと、降りてくる人が全員いなくなるのを待ってから、僕は一歩踏みだした。
片足が、止まる。
ほんとうに、このまま帰っていいのか。
ハンカチを返さずに家に着いてしまって、気持ちよく夏休みを過ごせるのか。
貴重な夏休みを、もやもやしながら消費してもいいのか。
頭に浮かんだ言葉の数々が、足を引きとめていた。
立ち止まっている僕を不審がり、あるいは邪魔そうにしながら、うしろに並んでいた人たちが電車へなだれこんでいく。電車の窓から痛々しい視線を向けられながら、僕はホームに立ち尽くしていた。
帰れない。
満水さんに、ハンカチを返すまでは。
そう思ったら、足が、自然と動きだした。
早歩きから駆け足になり、僕はホームを戻っていた。階段を急いで下って窓口の人に「すみません。でたいんですけど」と告げて履歴の抹消をしてもらい、僕は来た道を走りだしていく。
何人、何十人と、すれ違う。
通学路を逆走していると、いやでも注目を浴びた。こんなに人の目を集めることなんて、いままでなかったかもしれない。成績も、運動も人並みで、容姿もいいわけじゃなく、おもしろいことだって云えやしない。まわりと比べて飛び抜けたこと、秀でたものがひとつもない僕は、いつだって地味で目立たなかったから。
そんな自分を守るように、過度に目立つことがないように自分を殺して、まわりの目を気にして過ごしてきた。
だけど満水さんの前では、自分が抑えられなくなってしまう。
ハンカチを返すためだけに駆けだしてしまうことも、普段の僕なら考えられない。
でもそれが、恋をしているってことなんだと思う。
通学路を歩いていた満水さんを見つけて、僕は肩で息をしながら、ゆっくりと歩をゆるめた。
「小暮、くん?」
満水さんが立ち止まり、不思議そうな顔でこちらを見てきた。心臓が、張り裂けそうなくらい高鳴っている。通り過ぎる人たちが、僕らのことをちらちらと見ていた。
僕は息を整え、カバンからハンカチを取りだした。
「これ、ありがとう。返すの、遅くなって、ごめん」
差しだすと、満水さんが「うん」と答えてハンカチを受け取り、くすくす笑いながら、こちらを見てきた。
「え、なに?」
「いや、返してもらう意味ないなって、思っちゃって」
顔から噴きでてくる汗が、頬を伝って顎からしたたり落ちる。僕はとめどなく流れる汗を手で拭っていると、満水さんが一歩こちらへ歩み寄ってきて、返したハンカチを僕の顔に当ててきた。
「え、あ」
急なことに戸惑ってしまって言葉に詰まる。お礼を伝える前に、満水さんは駅へ歩きだしていった。身体が熱くなり、僕は鳴り止まない心臓の音を聞きながら、彼女の背中を追いかける。
気温が、またすこし上がったような気がした。
「夏休み、来ちゃったね」
ホームで電車を待っていると、満水さんが唐突に口を開いた。肘のあたりまで腕まくりをした左腕を右手でしきりに触り、爪先で点字ブロックをいじっている。
「そうだね」
残念な気持ちと、愉しみな気持ちが入り混じる。
「旅行とか、行くの?」
変に意識して会話を途切れさせないためではなく、純粋に満水さんとただ話したくて、訊ねてみた。
「お盆に、おじいちゃんの家に行くくらい。小暮くんは?」
「僕もむかしは行ってたけど、いまはぜんぜん。そのかわり、毎年、大量の枝豆が送られてくるけどね」
「えーいいなー。それ全部、ひとりで食べてみたい」
「好きなの?」
満水さんがうなずいた。「ずっと食べられるくらい」
「相当だね」
「そう? みんな好きだと思うけど」
「僕はスイカの方がいいな」
「種があるから、食べるのめんどくさくない?」
「あーうん、なんとなくわかる。たまに飲むよ、僕」
「それさ。お母さんに小さい頃、お腹から芽がでてくるからだしなさいって騙されてて」
「どこの家でも、同じようなこと云ってるんだね」
軽く笑っていたら、電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。もしも電車が来なかったら、満水さんといつまでも話せていたと思えるくらい、肩の力が抜けていた。
停車した車両に乗りこむと、冷涼な風を浴びて汗が急速に引いていった。座席はすべて埋まり、乗車する人が多いせいもあって、僕らは車両の中央まで押しやられてしまう。
発車する瞬間、がたんと大きく車両が動いた。反動で腕同士が触れ合ったけれど、僕らはお互いなにも云わずに、吊革につかまりつづけていた。
電車がすこし揺れるだけで、何度も、何度も、何度も腕がぶつかる。それは人が大勢いるせいでスペースがないからなのか、満水さんが寄ってきているからなのかはわからない。
そのたびに、胸が軋んだ。
もうすぐ、お別れだから。
次に会えるのは、約一ヶ月後。
満水さんの降りる駅が次に迫ってくる。アナウンスが停車する駅名を告げると、満水さんは鞄を抱えて、降りる準備をしはじめた。
ドアが、開く。
「それじゃあ」と満水さんが小声で云った。
「うん。また、新学期に」
僕は拳を握りながら、人混みに紛れて電車をでていく満水さんを目で追いかけた。
下車した人の隙間を埋めるように、次から次に人がやってくる。
ドアを閉じる、合図のベルが鳴り響いた。
「すみません、降ります」
ふしゅーっと音がして、ドアが閉まる。
僕はぎりぎりのところで、なんとかホームへ降り立った。見慣れない景色のなかで満水さんを探すと、ホームの途中を歩いている。
もう、迷わない。
僕は満水さんのところへ走っていく。熱風を切り裂きながら一歩進むごとに、震えた膝が折れてしまいそうで、心臓が爆発しそうになる。目が悪いわけでも、涙を流しているわけでもないのに視界がぼやけて、息をするのが苦しくて、なにも考えられないほど、頭がぼーっとしていた。
これから先、一生しないかもと思えるくらい、緊張してる。
腕をつかむと、満水さんが振り返って、大きく目を見開きながらこちらを見てきた。手が、情けないくらい小刻みに震えてしまったけれど、僕は勇気を振り絞って口を開く。
「連絡先」と僕は云った。「ライン、教えて、ください」
友達になんて、なりたくない。
満水さんと、恋人になりたい。
なのに、僕はいままでなにもしていない。満水さんの言動を気にしてばかりで、もしかして好かれているのかもと、本心を探ってばかりいた。
常に受け身だったのに、友達だと思われるのは当たり前じゃないか。なにもせずに告白したって、フられるのは当然じゃないか。ショックを受ける前に、悩む前に、するべきことがあったじゃないか。
「夏休み、いっしょに映画、見に行きたいんだ」
きみが好きだと知ってもらいたくて。きみのことを、どう想っているのか、察してほしくて。
距離を縮めるための第一歩を、僕は踏みだした。
「……汗、かいてるから、離して」
満水さんがゆっくりと下を向き、前髪で顔が隠れる。
「あっ。ごめん」
云われるがままに手を離すと、彼女がスカートのポケットから、スマホを取りだした。
「わたし、コード読むね」
「あ、うん」
僕らはお互い顔を見ずにスマホをいじった。アプリを開き、自分のコードを画面に表示させたら「いい?」と訊ねられて「うん」と返事をしてスマホの画面を満水さんに見せる。
「ねえ、小暮くん。わたしの夏休みの目標、なんだと思う?」
満水さんがスマホをかざしてコードを読みこむ。
「え……なんだろう」
「先生は、そんなことを書いてくる人がいるとは思ってなかったみたいで、呆れて困ってた」
「ほんとにDVD鑑賞って書いたの?」
「ハズレ」と満水さんが顔を上げた。「あとで送るね」
ばいばい、と満水さんがほほえみながら手を振った。離れていくごとに、ローファーのこつこつと小気味の良い音が遠くなっていく。僕はその姿が見えなくなるまで待ってから、次の電車が来るまでホームに立っていると、握っていたスマホが震えた。
画面を見てみたら『満水真癒子:答え』とメッセージが届いていた。
僕は指でスライドし、すぐに友達追加をして、つづきを待つ。
『彼氏を作ること』
僕は軽く噴きだしてしまい、近くにいた人に怪訝な目を向けられ、手で口をふさいだ。もしもこれをほんとうに書いていたら、先生も戸惑ってしまうだろう。
既読がついてしまったので返事をしないと。でも本気か冗談かわからないのに、どう送り返したらいいのかわからず、僕は途方に暮れていた。
どこかで、蝉が鳴いている。
夏のはじまりを告げる声は、甲子園のブラスバンドのように力強く、僕を励ましてくれているみたいだった。
ぽんと、背中を押された気がして、文章を打つ指先に力が入る。
勘違いができるほど莫迦になれたらいいのにと思いながら、僕は送信ボタンを押した。
『きっと、できるよ』
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