一年生 九月 [新学期編]
第13話 ふわふわ新学期
13
階段を上がるごとに、心臓の音が大きくなっていく。
廊下を歩いていくと、周囲の人の視線がやたらと気になった。見られているわけでもないのに、なぜか僕は人目を避けるように早歩きで教室へ向かう。ドアの前に立つと、きゅっと胃が縮み、深呼吸をしてから取っ手をつかんだ。
教室に入ると、そこら中から話し声が聞こえて、一部のクラスメイトから視線が飛んでくる。僕は目を合わせないように、すぐに自分の席にカバンをおいた。
「あっ。おは、よ」
「おはよう」
前の席に坐っていた満水さんが振り返った。ちょっと緊張しているような、ぎこちない笑顔で挨拶をしてくれたので、僕も笑顔を返す。喉になにかが詰まっているみたいに声がでてこなくて、頬が突っ張っぱり、上手く笑うことができなかった。
夏休みに会うのと、教室で会うのは、緊張感が違った。クラスメイトの視線が気になってしまい、挨拶を交わしただけで、僕らの関係が悟られてしまうのではないかと邪推してしまう。
満水さんが立ち上がり、窓側にいたグループのところへ歩いていく。僕もカバンを席のわきにかけると、黒板消しの付近で話していた、若藤(わかふじ)と沼(ぬま)のところへ。
「おはよ」
若藤が手を上げた。「うーっす。久々」
「だね。対戦はちょくちょくしてたけど」
「だからか、あんま久々感ねーの」
若藤が笑うと右の八重歯がちょろっと見えた。しわのないワイシャツの袖をまくり、ブラウンの革ベルトをしている。クセ毛の髪はワックスかなにかでセットされ、前髪は目にかかるくらい長い。目が細く、ツリ目のせいもあって少々怖い印象を受けるけれど、笑った顔はやわらかく、やさしげな雰囲気になる。
「沼とはほんとに久しぶり」
「そうだな」
「夏休み、ほとんど部活?」
「ああ」
沼の声はお腹に響くくらいに低い。短髪で、凛々しく濃い眉毛に、ぱっちりとした二重と厚めの唇。角張った顔立ちで頬の脂肪がまったくといっていいほどなく、喉仏がぽっこりと浮かんでいる。体型はがっちりとしていて、まくっているワイシャツからでた腕は太く、くっきりと血管が浮かんでいる。
「それにしても、おまえぜんぜんニキビできねーな」
「特になにもしてないんだがな」と沼が頬を触った。
「マジかよ……いい体質してんな。オレ剣道やってた頃、アゴのラインとかやばかったぞ」
「気合が足りなかったんじゃないか?」
「そんなんでニキビできなくなるわけねえだろ? このくそ暑いなか練習してて、逆にできないやつがおかしいわ」
「片割れもまったくないが」
「ああ、そうそう。直美さん、今年どこまでいったの?」
「一回戦敗退だ」
「そっか。沼は?」
「俺もだ」
「でも一年生で全国ってすごいよね?」と僕は若藤に目を移した。
「まあな。しかもどっちも個人だからな」
「負けたのは気合が足らん証拠だ」
沼には双子の直美(なおみ)さんがいて、どちらも中学の頃から剣道で全国に出場するくらいの実力者だった。沼は物静かなせいか気が合って中学の頃から仲良くしている。若藤とは高校からの付き合いだった。きっかけは若藤が中学まで剣道をやっており、対戦したことがある沼のつながりで知り合うことになった。
僕はいつもだいたいこのふたりといっしょにいる。クラスで目立つわけでもなく、かといって浮いているわけでもない中途半端な位置にいるグループだった。けど、そのおかげなのか、カーストを変に意識することなく、平穏に過ごせている。
「若藤は夏休み、塾通い?」
「まあな。夏期講習マジで死ぬかと思った……終わったあとのゲームが至福すぎてある意味昇天したけど……付き合ってくれてありがとうなあケイ……」
「どういたしまして」
「ケイは夏休み、なにをしてたんだ?」
沼が話を振ってくると、どう答えたらいいのかわからず、僕は一瞬かたまってしまう。
ふたりには満水さんとのことをなにも話していない。ここまで話していて、満水さんのことを訊いてこないということは、おそらく噂にもなっていないのだろう。
ふたりには、教えたいと思った。
友達だし、からかったり、云いふらすようなタイプじゃないと思うから。
「ごめん、ラインでいい?」
僕はスマホをポケットからだすと、ラインのグループトークを開いて『満水さんと付き合った』と送信した。
沼と若藤が、画面から目を移して、こちらを見てくる。
「ちょ、とまだ時間あるし、トイレ行こうぜ」
若藤がそそくさと教室からでていき、沼と僕はそのうしろをついて行く。
「あっぶねえ……思わず叫んじまうところだった……」と若藤が歩きながら云った。「えっ、いつから?」
「花火大会の日だから、八月二十七日」
「具体的な日付が生々しい……」
「俺はなんとなく気づいてたが」
「マジで?」
沼がうなずいた。「夏休み前、見てたよな。満水のこと。あと、なにかに悩んでるみたいだった。違ってたらすまん」
「えーっと、まあ、当たってる」
「気づいてたんなら教えてくれよぉ沼ぁ」
「外野が騒ぎ立てたら迷惑だろ」
「まあ、そうだけどよぉ」
僕らはトイレに入り、空いていた便器に横一列に並んだ。
「ごめん。云うのが遅れちゃって」
「バーカ。なんで謝んだよ」と若藤が少々きつめの声で云った。「んなことどーでもいいんだよ。そんな態度とられたら、気持ちよく祝福できねえだろ。なあ?」
「ああ。俺らがそんなしょうもないことを気にすると思ってたのか?」
「ほんとだぜ。変なところで気を使いやがって……いきなり友達にカノジョができて、僻んだりするやつもいっけどよ、オレはそういうのねーから安心しろや」
若藤がチャックを閉めて、ぱんと背中をたたいてくる。
「俺もだ」
沼が肩をぽんぽんとたたいてきた。
「ありがとう。うれしいんだけどさ、ふたりとも、手、洗ってないよね……」
「マーキングだ」
「そうだ! オレらのだってな!」
「なにそれ」と僕は笑った。
真面目な話をしてたつもりなんだけど、照れ隠しなのか、その雰囲気をぶち壊すようにオチをつけたがるところが、男同士の友情って感じがした。
「くらえ祝福の水飛ばし!」
「ぷぁ、ちょ! きったない!」
「加勢するぞ若藤」
「ちょ、ま、やめてやめて」
手を洗い、水を飛ばし合いながら廊下を戻っていたら、満水さんが友達といっしょに向かいから歩いてきた。
「まーた莫迦なことしてる」
「仲いいよねーあの三人」
すれ違うとき、そんな会話が、うっすらと聞こえた。
「来週に夏休み明けのテストがあるから、しっかり復習しておくようになー。はい解散」
担任が手をたたくと、腕を伸ばして脱力したり、勢いよく席を立って教室をでていく人など、クラスメイトが思い思いに行動しはじめる。僕も荷物をまとめ、沼と若藤にあいさつをしてから、教室をあとにした。
『先に行ってるね』
僕は廊下を歩きながら、前方を確認しつつ、満水さんにメッセージを送信する。
きょうの始業式は全校集会と諸連絡だけで午前放課になる。そのため僕と満水さんは、学校からすこし離れたところにあるファミレスでお昼を食べる約束をしていた。
別々なのは、だれかに見られるのを避けるためだった。僕の考えというわけではなく、夏休み前にふたりで相談して『付き合っていることはしばらく隠しておきたい』という結論になったから。
階段を下りている最中、ポケットのスマホが震える。僕は昇降口で内容を確認すると『うん』と短いメッセージが届いて『友達、連れていってもいい?』とつづけて送られてきた。
「友達?」
僕はローファーに足を入れながら考える。友達と云われても、いつもグループでいるから、だれが来るのかわからない。それとも、グループの人を全員連れてくるつもりなのだろうか。
『いいけど、だれが来るの?』
探りを入れてみると、すぐに返信がきた。
『ユコ。弓峰さんのほうがわかる?』
ああ、と僕はその人物の顔が思い浮かぶ。弓峰 優心(ゆみみね ゆこ)さんは、グループのなかでも満水さんと仲がよく、いっしょにいることが多い子だ。僕はほとんど話したことはないけれど――夏休み前、ふたりのやりとりを聞いて、いろいろ悩んだことがあった。
『わかった』
僕はそれだけ送って、学校から一歩、外へでた。残念、というのが正直な気持ちだった。だけど、ふたりっきりで会うのはこれから何度でもできるし、今回はしょうがないかな、と思いなおす。逆に僕が沼や若藤を連れて行こうとしたとき、満水さんに拒否されたら複雑な気持ちになるし。
満水さん、弓峰さんに付き合っていることを話したのかな、と僕は想像を巡らせながら、駅へ向かって歩いていく。改札を通り、音楽を聴きながら電車に揺られ、目的の駅に降りると、僕は地図アプリを見ながら歩いていった。
青い目印が近くなり、周囲に目を向けると『ON SUNDAY』と丸みのあるゴシック体で、ナイフとフォークをクロスさせ、オレンジと赤を基調にした看板が見えた。
そこでしばらく待っていると、満水さんと弓峰さんがやってくる。僕はイヤホンをはずし、ポケットにしまった。
満水さんが走ってきた。「ごめん。遅くなって」
「いいよぜんぜん」と僕は云った。「あ、どうも」
「お邪魔、します」
ぺこりと弓峰さんが頭を下げてくる。顔を上げると、口に入った髪を指で払った。肩まである髪はゆるやかなくせっ毛で、パーマをかけているのか天然なのかわからない。とろんとした垂れ目で、鼻筋が通っており、背は満水さんより高く、スカートは膝丈よりすこし上くらい。まだ暑いのに長袖のブラウスの袖のボタンをとめていて、空いた隙間が手首の細さを強調させていた。
「お腹空いたねー」
「だね」
僕はドアを開くと、店員さんがやってきて何名かを訊かれる。三人と告げたら、奥の禁煙席へ案内された。歩きながら店内のようすを確認すると、お昼どきのせいもあり、席のほとんどが埋まっていて、そこら中から話し声が聞こえてくる。
ソファーシートに腰かける。向かいに満水さん、通路側に弓峰さんが坐ると「お決まりになりましたら、そちらのベルを押してください」と告げられ、店員さんが水の入ったコップをおいて去っていった。
「あれ。メニューひとつしかない。頼む?」
「先に選んでいいよ。あ、カバン、こっちにおこうか?」
「うん。ありがと」と満水さんがカバンを渡してきた。
「弓峰さんも」
「あ、ありがとう」
「ユコなに食べる?」
「ぇ、えーっと」と弓峰さんがこちらを見てきた。「こ、小暮は?」
「ふたりが決めてからにするよ」
「ぁ、あ、そう」と弓峰さんがメニューに目を移した。「じゃ、じゃあえーっと……ち、チーズハンバーグセットにしようかなー。あーでも待って、こっちのトマトソースかかったやつも美味しそう。えーどうしよ迷う。マユは?」
「わたし和風ハンバーグセット。あ、サラダつかないんだ。どうする、食べる?」
「んーいらない。それよりポテトほしい」
「じゃあそれと、ドリンクバーはいるよね絶対」
「あ、私やっぱり海鮮パスタにする」
「えーここのハンバーグ美味しいのに」
「そうなの? じゃあどうしよー」
僕は水を飲んだりしながらふたりを眺めていた。友達といる満水さんを間近に見るのが新鮮で、僕といるときより会話のテンポが幾分はやいように感じる。
時折、会話中に弓峰さんがこちらに目線を向けてくる。待っている僕を気にかけているみたいで、なんだか逆に気を使わせてしまったかな、と思った。
「はい。決まったよ」
「ありがと」
僕はメニューを受け取り、ぱらぱらとページをめくった。
「決めた」
「なににした?」
「目玉焼きハンバーグセット。ふたりは?」
「わたしが和風ハンバーグセットで、ユコが期間限定のゆずポン酢ハンバーグセット。あと、ドリンクバー三つとフライドポテトの中ひとつ。あ、スープはどっちもお味噌汁で、ライスは小ね」
「覚えられるかなぁ」と僕は呼びだしベルを押した。
「がんばって」
やってきた店員さんに、云われたやつを間違えずに伝え終えると、水のおかわりを注いでから、ふたたび去っていった。
「ユコに、教えたよ」
すこし落ち着いてから、満水さんがおしぼりで手を拭きながら話を切りだした。
「うん。そうじゃないかなって思ってた」と僕は云った。「僕も、若藤と沼に教えたから」
「仲いいもんね」と満水さんが笑った。「あとね」
満水さんが横を向くと、弓峰さんが堅い表情でこちらを見つめてきた。
「ごめん」
弓峰さんがテーブルすれすれまで頭を下げ、ふわふわの髪がテーブルにつく。
「夏休み前、余計なことして」と弓峰さんが云った。「マユのこと、からかっちゃって。あんな風に云われたら、マユは誤魔化すしかなかった。小暮、あんな風に云われて、いやな気持ちになったと思う。ほんとにごめん」
「エっ、ちょ、あ、ソの。顔、上げて」
突然のことに戸惑い、声が裏返ってしまった。
弓峰さんがゆっくり顔を上げると髪が頬にかかる。目線は下のままだった。
「ずっと、謝りたくて」と弓峰さんが落ち着いた声音で云った。「マユにはすぐ謝ったけど、小暮とは接点なかったから、云いだせなくて。それと、仮にマユを好きじゃなかったとき、ややこしくなるから」
「付き合ったこと、ユコに教えたら、小暮くんに謝りたいって云われて、それで」
なるほど。弓峰さんを連れてきた理由はそういうことだったんだ。妙に気にかけるそぶりをしていたのも、僕の顔色をうかがっていたのかもしれない。
本心を云わなければ失礼だろう。僕はテーブルの下で拳を握り締め、口を開いた。
「満水さんに謝るのはわかるけど、僕に謝まるのは、なんか違う気がする」
僕は鼻で息を吸いこんだ。
「あのとき、友達って云われなければ、僕はずっとグズグズしてたと思う……いろいろ悩んでたときに、それが吹っ切れるきっかけになったから」
想いを吐きだしたら、胸の奥底にあったコゲのようなものが剥がれ落ちた気がした。鼻から息が抜けるのが心地よく、身体が浮いているみたいに軽くなる。
「だからその、謝らなくていいから、代わりに、応援、してほしい」と僕は力強く云った。「満水さんを不安にさせたりするかもしれないけど、なるべくさせないように、がんばるので」
顔が熱くなり、うっすらと目が潤んでくる。満水さんの前で、僕はなにを云ってるんだろう。こういうのは、本人がいないときに伝えるべきなのに。
「わかった」
弓峰さんの表情がほんのすこしやわらかくなり、ちらりと横目で満水さんを見る。その意図がわからなそうに、満水さんは首を傾げていた。
「飲みもの取ってくる。ふたり、なにがいい?」と弓峰さんがお尻を浮かせて席を移動した。
「あ、わたしも行く」
「いいのいいの」と弓峰さんが手を振った。「ふたりっきりの時間取っちゃったお詫び、させて」
そう云われてしまうと、無理について行くこともできないのか、満水さんが席に坐りなおして「じゃあ、わたし、アップルジュース」と云った。僕はオレンジジュースを頼むと、弓峰さんが「りょーかい」と軽く返事をして離れていく。
弓峰さんの姿が見えなくなると、満水さんがこちらをちらっと見て、すこし気恥ずかしそうに笑みを浮かべながら口を開いた。
「わたしね――あのときは、小暮くんのこと、友達だと思ってたの。でも、そう云っちゃったあと、もやっとして。なんでだろうって、考えるようになって」と満水さんが頬を赤く染めながら云った。「それで、気づいたの。いやだな、そうなりたくないな、って。それで――好き、なのかな、って、思いはじめて」
満水さんがうつむくと、前髪で目が隠れた。
「でも、告白する勇気、なくて。夏休みに、映画行ったり、ライン、何度もして。小暮くんといるとき、愉し、くて。お盆休み、声、聞きたく、なって。手……つないだとき、わたし手汗、すごくて、やだって、なって……」と満水さんが声を震わせながら云った。「どんどん、好き、になっていって」
「うん。あり、がとう」と僕は云った。「好きに、なってくれて」
お互いに胸に秘めていた想いを告げたあと、目を合わさずに、弓峰さんが戻ってくるのを待った。ふわふわした空気と、恥ずかしさに耐えられず、僕はコップをつかむ。
時間が経ってしまったせいか、テーブルに水跡が残って、中身はすっかりぬるくなっていた。
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