第11話 ぶらぶら散歩


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 僕は大きめの紙袋を持ちながら、駅のホームを歩いていく。お盆のせいか人はあまりおらず、音がすくなくて、足音が大きく聞こえた。夕暮れどきの穏やかさと、どことなく漂う夏の哀愁が、時間の流れをゆっくりと感じさせた。


 改札を通って周囲を見渡す。降りたことのない駅周辺の景色が新鮮に映り、自然と心が躍ってしまった。


 左側は商店街になっていて、駅のすぐ近くにはコンビニがある。自転車に乗ったおばあさんや、ビニール袋を持った若いカップルなどが次々と目の前を通っていくと、同じ国の人なのに、どこか別の国の人のような錯覚をしてしまいそうになった。


『駅、着いたよ』


 満水さんにラインを送ると、僕は返事がくるのを待ちながら、スマホを片手に商店街のほうへのんびりと歩いていく。地面には珍しく石畳が敷かれていて、道幅がたっぷりとあり、窮屈さを感じさせない。左右のお店の一部はシャッターが閉じ、お盆期間中の休業を知らせる張り紙があった。


 夕焼け色のカーペットの上を歩いていると、持っていたスマホが震える。


『迎えに行くね。いまどこ?』


 僕は立ち止まり、メッセージをスライドした。


『商店街の途中』

『端にお肉屋さんがあるから、そこで待ってて』

『わかった』


 送ってから、僕はふたたびゆっくりと足を前にだす。軽く汗をかきながら歩き進めていくと、商店街の終わりの角に『河地精肉店』と書かれた肉屋さんがあった。精肉コーナーのとなりのショーケースには揚げ物がいくつか並んでいて、脂のにおいを嗅いでいるだけで、口のなかに唾液があふれてくる。


 商店街を抜けると大通りがあり、何台もの車が絶え間なく行き交っていた。僕は手で陰を作り、しきりに左右を確認する。そこですこしのあいだ待っていると『前』と満水さんからメッセージが届いた。


「前?」


 僕は手前の信号を見つめると、グリーンの自転車に跨がった女の子が手を振ってくる。目を凝らしてよく見てみると、満水さんだった。


 僕はすかさず手を上げた。だけど恥ずかしくなって、ゆっくりと手を下ろす。会えることが愉しみすぎて、その気持ちがついついあふれてしまった。


「久しぶりー」


 手前でブレーキをかけてスタンドをあげると、満水さんが満面の笑顔を向けてくる。つばの短い麦わら帽子をかぶり、喉の半分ぐらいまで襟が伸びた半袖のしろいTシャツを着て、下はカーキの太めのパンツとしろいスニーカーをはいていた。


「ちょっと、焼けた?」

「あ、わかる?」


 僕はうなずくと、満水さんが困ったように表情を崩して「日焼け止め、塗るの忘れちゃって」とほんのり小麦色に染まった腕を撫でる。その細かな変化が、僕らの空いた時間を物語っているように思えた。


「あ、これ。重いから、気をつけて」と僕は紙袋の下を支えながら差しだした。

「ありがとう。ほんとだ、重い、これ」

 僕は笑いながら云った。「二キロ、あるらしいから」

「そんなにあるんだ。なんか、ごめんね」

「ううん、ぜんぜん」


 満水さんが自転車のカゴに紙袋を入れると、ふらーっとハンドルが動き、念力をかけるみたいに手を広げ、静止するのを待った。


「わたしも、おみやげ、渡したいから」と満水さんが云った。「家まで、来て」

「え、うん」


 満水さんがスタンドを上げて、自転車のハンドルを握った。僕は満水さんに導かれるように信号を渡って、長くつづく大通りの歩道を並びながら歩いていく。どうして持ってこなかったのだろうと、素朴な疑問が頭に浮かんできたけれど、訊くのも失礼かなと思って、黙っていることにした。


「お盆、なにしてた?」

「だらだらしてた。テレビ見たり、友達とゲームしてたり、あとはお墓参りについて行ったくらいかな」と僕は云った。「そっちは、どうだった?」

「わたしも、ずっとのんびりしてた。やることなくて、チロと遊んだり、海があったから、見に行ったり」

「泳がなかったんだ」

「水着、持っていかなかったから。あ、そうだ、写真撮ってきたよ」


 満水さんがポケットに手を入れると「きゃ」と短く鋭い声をだし、自転車のバランスが崩れた。僕は手を伸ばしてカゴをつかみ、どうにか転倒を防ぐ。


「だ、だいじょうぶ?」

「う、うん」と満水さんがどぎまぎしながら云った。「ご、ごめんね」

「家まで、僕が押すよ」


 僕は自分のほうへ自転車を引き寄せたら、満水さんが小さな声で「ありがと」と答えて、握っていたハンドルを手放した。やっぱり、ちょっと重い。両手でしっかり持っていないと、ハンドルがとられそうになる。


「写真、見せて」


 満水さんが気を使わないように、僕は声をかけた。


 ゆっくり自転車を押していくと、カラカラと後輪のまわる音がした。僕は自転車の左側に立ち、その横で満水さんがスマホの画面を指でひょいひょいと流していく。


「これ、途中の景色」


 画面がよく見えるように、満水さんが近寄って、僕の前まで手を伸ばしてくれる。制汗剤のにおいだろうか、爽やかな果物っぽい香りがした。


 写真はおそらく車から撮ったもので、うねうねと長く伸びる公道の左右には黄緑色の田園風景が広がり、そこらにぽつぽつと民家が立ち並んでいた。水色の絵の具を染みこませたバケツの水を画用紙に浴びせたような青空に、等間隔に生えた電柱から伸びる電線が、一筋の締まりをもたらしている。


「うわぁ、なにもないね」

「だよね」と満水さんがスマホをいじった。「これが、さっき話した海」


 次に見せてくれたのは、大きな雲がぽつぽつと浮かんだ空の下で、まるで合わせ鏡のように広がる海だった。テトラポットのあたりではフィッシングベストを着て釣りをしている人がいて、浜辺では小学生くらいの子どもが砂遊びをしていたり、水しぶきをあげて走っていた。


 それから、次々に写真を見せてくれる。豪勢な夕ご飯。チロが縁側で寝ているところ。木漏れ日が神々しい松林のなか。田んぼのあぜ道――それらを見ているだけで、そこにいっしょにいるような感覚になれて、愉しかった。


「あと、これがマチ」


 指でひょいっと画面を流すと、漆のテーブルに肘をつき、切ったスイカを食べている女の子の写真がでてくる。満水さんと、目のあたりがそっくりだった。胸くらいまである、糸のようにさらさらとした黒髪をセンターわけにし、まだ幼さのあるふっくらとした顔立ちで、ゴシック体のロゴが胸のあたりに入ったグレーのTシャツを着ている。


「似てるね」

「そうかな? あ、見せたの内緒ね」

「うん」


 話しながら、大通りから外れて住宅地へ入っていく。あまり人とすれ違うこともなく、車もほとんど通らないような閑静なところで、一軒一軒の家がそこそこ大きいような印象を受けた。


「そこだよ」


 満水さんが指をさしたところに、グレーの外壁の一軒家が建っていた。所々に窓がついた、特徴を述べるほうが逆にむずかしい、よくも悪くも『ふつう』な家だった。あえて挙げるなら、まわりと比較して、ほんのすこしあたらしいくらいだろうか。


 満水さんが自転車をあずかり、とめてあった車のそばにおいた。紙袋を持ちながら「ちょっと待ってて」と云って、玄関のドアを開けると「ただいまー」とすこし低めの声で告げてから、なかへ入っていく。


 僕はTシャツを指でつまんで空気を送りこむ。汗のにおい、だいじょうぶだったかな。


 きィ、とドアの軋む音がして、僕は目を移したら、やさしげな目元の女性がにこりと笑顔を向けてくる。もしかして、満水さんのお母さん、だろうか。


 七分丈の青いボーダーのカットソー、足にぴたっと張りついた濃紺のデニムをはき、地毛と思うくらい自然な濃い茶色の髪色のボブカットは、耳たぶにかかるくらいの長さで整えられている。体型は細身で、女性のなかでは背がすこし高いくらいだろうか、カジュアルな服装なのにどこか品のある人だった。


「小暮くん?」

「は、ハい」


 緊張で喉が締まり、声が裏返ってしまった。


「真癒子の母です。はじめまして」と満水さんのお母さんがぺこりと頭を下げた。「枝豆、あんなにたくさん、ありがとうございます。ご両親にも、お礼をお伝えしてください」

「コ、こちらこそ、はじめ、まして。伝えさせて、いただきます」と僕は頭を深く下げた。「ぜひ、みなさんで食べてください」

「そうさせていただきます。っと、どうしたのマチ」


 顔を上げると、満水さんの妹、マチさんがお母さんのうしろに隠れながら、こちらを見てくる。まさに『じーっ』という感じがふさわしく、絶賛品定め中の視線に当てられていると、冷や汗がだらだらと流れて、この場から逃げだしたくなった。


「おねえちゃんは」とマチさんが云った。「お菓子くれたり、勉強教えたり、してくれるよ」


 どうして、急にそんなことを教えてくれたのかはわからない。でも、そのことについて、僕はちゃんと目を見て答えなければいけない気がした。


「そうなんだ。やさしい、おねえちゃん、なんだね」


 マチさんが、こくんと小さくうなずいた。すると満水さんのお母さんが肩を組んで「そうね」と含みのある声で云った。


「ちょ、え、っと。なんでいるの」


 満水さんがしろい紙袋を持ってくると、ふたりが同時に満水さんへ顔を向けた。


「お礼を云ってたのよ。というかマユ、なんで持って行かなかったの。この暑いなか、家まで来させるなんてもーほんとにまったく」

 満水さんがスニーカーに足を入れた。「急いでたら忘れたんだってばもーいいからあっち行ってて」

「おねえちゃん、袋、しわできてる」

「え、うそ」

「ほらだから荷物といっしょにしないほうがいいって云ったでしょ。代わりのやつ持ってこようか?」

「いやあの、いいですいいです、気にならないので」

「いいのいいのすぐ持ってくるからちょっと待ってて」と満水さんのお母さんがいなくなった。

「いいってばーもー。……小暮くん、駅まで送るね。マチ、お母さんに散歩してくるって伝えといて」

「アイス食べたいなぁ」

「……はいはい。いま財布ないからあとで買ってくるね」


 満水さんが「行こ」とうながしてくる。僕は軽く頭を下げると、マチさんがにこにこしながら、小さく手を振ってくれた。


 満水さんが大股歩きでどんどん先へ進んでいく。僕は小走りで追いつくと「仲、いいんだね」と笑いながら話しかけた。


「恥ずかしすぎて死にたいよもー……」と満水さんが両手で顔を隠した。

「え、そんなに?」


 満水さんがこくこくとうなずいた。きつく唇を結びながら、パタパタと手を扇ぎ、前髪をちょいちょいと整える。いままで見たことがないほど顔が真っ赤になっていて、さらに首まで赤くなっていた。よほど恥ずかしかったのだろう。


「あ、はいこれ。ごめんね、袋、しわついちゃって」

「だいじょうぶ。ありがとう」


 紙袋を受け取ると、僕らはしばらくのあいだ無言で、来た道を引き返していく。なにも話さなくても苦痛じゃなかった。ただいっしょに歩いているだけで気分が弾んで、紙袋を持つ腕をすこし大きく振ってしまう。


「浴衣、もらえた?」

「うん。おばあちゃんは、柄が古くさいから、あたらしいのにすればって云ってたけど」

「もらったやつ、どんなの?」

「内緒」


 満水さんが照れくさそうに笑みを浮かべると、お腹のあたりがきゅっとすぼんで「そっか」としか答えることができなくなった。


 歩きながら話していると、ちりっと、小指同士がこすれた。かすかに触れた程度なのに、そこから電気が走ったみたいに、身体が硬直する。


 バクバクと鳴る心臓の音が、わきを通っていく車の走行音をかき消した。


 僕は何食わぬ顔を繕いながら、小指をフックのように曲げ、満水さんの小指に引っかけた。足を進めるごとに、第一関節から薬指と小指のあいだに入っていくと、満水さんが手首を返して残りの指をつかんでくる。


 手のひらのあいだに、緊張と、熱が溜まっていく。


 次第に汗ばんできて、するりと滑り落ちそうになる。どれくらい力を入れたらいいのかわからず、軽く握りなおすと、熱のこもった部屋の窓を開けたときのように、涼しい空気が入ってきた。


 互いに、手をつないだ理由を訊くことも、顔色を確認し合うこともなく、僕らはずっと無言で、駅へ向けて歩き進めていった。


 信号を渡り、商店街を越えて、駅に到着すると、どちらがともなく手を離した。


「じゃあ、また」

「うん。また」と僕は云った。「あ、ちょっと待って」


 僕はポケットから財布をだして小銭を確認する。五百円玉があったので、それを満水さんに渡したら、きょとんとされた。


「ちょうどコンビニあるから、これで、アイス買ってきてあげて」

「い、いいよ。悪いし」


 カンカンと電車の到着を告げる鐘が鳴り、踏切のバーが下がっていく。


「ごめん、電車来るから、行くね」


 僕は返事を待たず、急いで改札へ走っていく。スキャンをして、ダッシュでホームを駆け抜けると、なんとかぎりぎりで乗車できた。


 閉まったドアに背を預けながら、さっきまでつないでいた手を、僕はぐっと握り締めた。


 

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