第24話 へなへな黄昏時間
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心が弾んでる。電車に揺られながら駅を通過するたび、はやく着かないかなと考えてしまうほどに。
「あ、次だよ次」
「うん、了解」
電車のドアが開くと、僕と満水さんは流れに身を任せて駅のホームを歩いていく。スーツを着たサラリーマン、だぼっとしたマウンテンパーカーを着た大学生っぽい男性などなど、平日のお昼なのに、どうしてこんなに人がいるのだろうと疑問に思うほど混んでいた。
改札を抜けて外へでると、駅前にスマホを片手に待ち合わせをしているような人がたくさんいた。ほとんどが私服の人ばかりだったけれど、僕らと同じく制服姿の人もたまにいて、あの人たちもテスト明けかな、と親近感を覚えながら横断歩道を渡っていく。
「混んでるかな?」
「ちょうどお昼どきだからね。行きたいところ、ここから近いの?」
「歩いて五分くらいかな?」と満水さんがスマホを見ながら云った。「あ、そこ右」
僕は満水さんの案内に従いながら道なりに進んでいく。きょうで中間テストが終わり、そのあとに僕と満水さんは制服のままデートへ行くことにしていた。最終日は午前だけだったので、まずはお昼を食べてから、秋物の洋服をいろいろと見てまわる予定になっている。
満水さんが顔をきょろきょろと動かした。「ここらへんなんだけどなー」
「見せて」
僕はスマホを預かると、地図アプリに表示されていた青いラインを確認する。道順は間違っておらず、目的の矢印は確かにここらへんを指していた。
「時間あるし、ちょっとこのあたり歩いてみない?」
僕は満水さんにスマホを返してとなりに並ぶ。ふたりして顔を左右に振り、探しながら歩いていると「あったよ、ねえ」と満水さんがブレザーの裾を引っ張ってきた。
「どこどこ」
「あそこ」
指を向けた先を眺めると『明栄軒』と明朝体で書かれた看板があり、こじんまりとした佇まいの洋食屋があった。外壁は赤レンガを積み上げたような感じで、小さな窓からあたたかな橙色の光がレースカーテン越しに透けて見える。入り口のドアの横には簡略なメニューが飾られている看板があり、きょうのランチセットやおすすめなどがのっていた。
「渋いねー」
「前に雑誌で紹介されてて、一度来てみたかったんだー」
満水さんがドアを開くと、カランコロンと心地のよい鐘の音が鳴る。話し声がそこら中から聞こえるほど混んでいた。店内は正面にカウンター席があり、天井に換気扇がまわっていて、白熱灯のやわらかな明かりがブラウンを基調にしたテーブルや椅子にあたたかな印象を与え、床や壁を余計に濃く見せていた。
「いらっしゃいませ」
しろいシャツに黒いパンツ姿のおねえさんがやってくる。何名かを訊かれてから、窓側の小さめなテーブル席へ案内された。椅子には赤いクッションがついていて、永遠に坐っていられるんじゃないかと思えるほどの坐り心地だった。
僕たちはテーブルの下においてあった藤のボックスのなかにカバンを入れる。ちょっとだけ待っていると、さきほどのおねえさんがメニューをテーブルにおき、手慣れた動作でおしぼりとコップをおいていった。
「ごゆっくりどうぞ」
僕らはぺこりと頭を下げてから、一部に写真のついたメニュー表へ目を移した。まあ妥当な金額だった。ファミレスと比べたらすこし割高だと思うけれど、テストまでほとんど遊びに行けてなかったので、今月はお小遣いに余裕がある。僕は金額を気にせず自分の好きなものを食べることにした。
満水さんが両肘をテーブルにつけながらメニューを眺めた。「悩むね」
「ほんと? 僕もう決めたけど」
「なににしたの?」
「デミグラスハンバーグ定食」と僕はメニューを閉じた。
「ハンバーグ好きだねぇ。ハンバーグマスターになりそう」
「ハンバーグマスター」と僕は手で口を押さえながらくつくつと笑った。
「え、笑うところ?」
「いまのは不意打ちだった。はぁー」と僕は息をついた。「どれで迷ってるの?」
「特製デミグラスソースのオムライスと、ナポリタンでしょ、あとドライカレー」
「ナポリタンはいっしょに食べてもいいよ。お腹空いてるし」
「ほんと? じゃあ雑誌で紹介されてたオムライスにしようかなぁ……でもこの写真見て。ドライカレーすごく美味しそうじゃない?」と満水さんがとんとんとメニューを指さした。
「ドライカレーオムライスはないの?」
「ないよ。もうわけわかんないよそれ。どんな味か想像できないよ」
「最初に食べたいと思ったほうは?」
「オムライス。うん、オムライスだね。オムライスにする」
「ほんとに? 呼ぶよ? いい?」
「あーごめんちょっと待って……うん、だいじょうぶ。ありがと」
「じゃあドライカレーはまた今度来たときで」と僕は云った。「すみませーん」
はいただいまーと、さっきのおねえさんが注文に来てくれる。商品を頼むと、お水のおかわりを訊ねられたので、ふたりして話に夢中でまったく手をつけていないので断っておいた。
水を飲みながら店内を軽く見渡す。テーブル席はほぼ満席で、カップルらしき男女、薄手のジャケットを着たサラリーマンっぽい七三分けの男性同士、ゆるいパーマをかけた女性同士など、古めかしい外観の割に客層は二十代くらいの若い男女が多かった。高校生は僕らだけで、珍しいのか、女性客からちらちらと目線が飛んできて、うっかり目が合ってしまう。
「テスト終わったねー」
「終わりましたねー」
「手応えどんな感じ?」と満水さんが頬杖をつきながら云った。
「現国と化学はまあまあ。世界史がビミョウかな……あとは割とふつう。真癒子は?」
「英語は完璧。世界史はできたほうかな? ダメだったのは化学……せっかく恵大から教えてもらったのにわーもーテスト返ってくるの怖いー」と満水さんが顔を手で覆い隠した。
「終わったことだよ。忘れよう。うん」
「そうだね。そうする、うん」と満水さんが云った。「きょう、いいやつあれば、靴下買いたいんだよねー」
「へーどんなの?」
「かわいいやつ」
「漠然としてるねまた」
「なんかこう、ギャザっとした感じで足首隠れるくらいのがあればなーって」
「ギャザってなに?」と僕は笑いながら云った。「ザラザラしてる感じなの?」
「違うー。シャリとしてて、足入れたときあったかそうなやつ」
「画像ないの画像」
「ないよないない」と満水さんがにこにこしながら云った。「恵大はなにか買う予定ある?」
「んー。僕は特にこれといってないかな。ぶらぶら見て、なにかよさそうなのあれば」
話しながら頼んだものが来るのを待つ。テストが終わってテンションが上がっているせいなのか、なにを話していても愉しくてにやけてしまう。ふたりでいるときには名前で呼ぶようになったけれど、心のなかでは『満水さん』で、たぶんそれは僕がまだ呼び慣れていない証拠なのかもしれないと思った。
「失礼いたします。こちらナポリタンでございます」とおねえさんがテーブルに器をおいた。
テーブルの真ん中におかれたナポリタンが湯気を立たせて誘惑してくる。いっしょに小さなカゴがおかれ、そのなかにフォークやナイフなどが入っていた。
「スプーン使う?」と僕はフォークを渡した。
「ありがと。え、恵大使ってる?」
「いやまったく。パスタ食べるときに使う人いるから訊いてみただけ」
「あーいるね。はい」と満水さんが取り皿を渡してきた。
「ありがとう。お先どうぞ」
満水さんがフォークで麺を持ち上げた。「これ食べるの注意しないとだね。ブラウスにはねたら怒られそう」
「ぜんぜん気にしてなかった。というか僕、これからデミグラハンバーグくるんだけど」と僕は自分の分を取り皿においていった。
「激ムズそれ。気をつけて。いただきます」
「先に謝っておくね。シャツにソースついてるカレシでごめん」
満水さんが食べる直前で吹きだした。「ねーちょっと、食べられない」
「え、笑わすつもりなかったんだけど」と僕は云った。「じゃあ僕も。いただきます」
満水さんが口をすぼめて麺をすすっていく。はねないようにしているのか吸いこむ力が弱く、端に近づくと、はむはむと唇を動かして食べていた。唇がほのかに赤くなり、リップを塗ったみたいに艶が増す。
目が合うと、お互い口を動かしながらほほえみ合ってしまった。やさしい味、と云えばいいのだろうか。ケチャップの甘みと酸味がやや太めの麺と調和し、ほどよいやわらかさで、具も大きすぎず小さすぎず、いいアクセントになっていた。おしつけがましくない美味しさがあって、また来たときに食べたくなるような安心感がある。
パスタを食べている最中に、互いの頼んでいたものがテーブルにおかれていく。僕は鉄板の上で踊り狂っているデミグラスソースに気をつけながらハンバーグをナイフで切っていった。ざらざらとした断面からあふれた肉汁はまるで熱した油に水を注いだときのように音を立てて襲いかかってくる。
満水さんの前には、ふわふわの卵の上に溶岩が流れているようなオムライスがある。ふたりして、食べているあいだはほとんど会話をしなかったけれど、代わりに何度も目を合わせた。ずっとにやけっぱなしで、言葉を交わさなくても、それだけで美味しさが伝わってくる。
食事中なので口にはださなかったけれど『かわいいなぁ』とつい吐きだしてしまいそうになった。
お腹も心も満たされて、お店をでたあとに僕らはぶらぶらと街を歩いていく。十月も終わりに近づき、道行く人たちは薄手のアウターを着ていたりと、装いがすっかり秋に変わっていた。
「食べ過ぎた……お腹苦しい」
「わかる。歩くペースゆっくりで行かない?」
「いいよー」と満水さんがカバンの位置をなおした。「あそこのお店、美味しかったね」
「いやほんとに。お店選ぶの上手いよね。僕、そういうの詳しくないから、正直すごく助かってます」
「いえいえ、そんなことありません。でも今度は恵大の行きたいお店も行きたいなー」
「うん、調べておく。好きな食べ物ってある?」
「えーなんだろ」と満水さんが云った。「あえてあげるなら、ラーメン?」
「ほんとに? 食べてるイメージぜんぜんないけど」
「え、そう? 食べるよけっこう。わたしの家の最寄りに商店街あるよね? そこにラーメン屋さんがあって、そこによく行ってて。マチも好きなんだよね」
「へー。何系なの?」
「そういうのよくわからないけど、そこの塩ラーメンが好きで必ず食べてる。糸とうがらしのってて、わたしそこのスープは全部飲めちゃうんだよね」
「じゃあ、あっさり系で探してみようかな。これから寒くなるし、ちょうどいいねラーメン。学校の近くにあれば、帰りに行こうか」
「あーいいねー。染みるねーきっと」と満水さんが目を細めながらしみじみとした声で云った。
ほっこりとしながらのんびりと歩いていく。地図アプリで満水さんの行きたいお店までのルートを確認しながら、ふたりであっちだこっちだどっちだ!? などなどとさ迷い進んでいった。目的のお店に向かっている最中ですら愉しくて、久しぶりにデートをしているなあと思う。
そうして着いたお店は『CINELA』というお店だった。ドアは開けっ放しになっていて、満水さんについていくと、別のお店の紙袋を持った大学生っぽい男女や、ふらっと立ち寄ったような身軽な格好の人もいたりして、こういうお店にまだ抵抗がある僕でも気兼ねせずに入ることができた。
店内はハーブっぽいさわやかな香りが漂っていた。入口の案内板を見ると、どうやら三階まであるらしく、一階は生活雑貨、二階は衣類、三階はカフェらしい。奥行きがかなりあって、マグカップや調理器具、それから文房具まで幅広く扱っており、商品の数は多いのに雑多な感じがせず、どれも見やすく配置されていた。
「ここすごいね。なんでもおいてありそう」
「ね。わたしもはじめて来た。三階のカフェが人気なんだって」
「そうなんだ。でもいまはいいかなぁ……お腹いっぱいで」
「わたしも。いまはまだそういう気分じゃないよね」
「ぶらぶら見たあと、時間余ってればどこか寄りたいね」
「だね。あっ、ねえ恵大。見てこれ」
「なになに?」
満水さんがブックスタンドを指さした。手のかたちをしていて、あいだに挟んでいた本を両手で押し潰しているみたいに見える。
「これマチがほしそー」
「本好きなの?」
「うん。あと、むかしから変なの好きなんだよね。机によくわかんない小物おいてたりするから」
話しながらぐるっと一階を一周して、僕らは階段を上がっていく。入ってすぐのところに大きめの棚があり、コーディネートの見本のようにニットやチェック柄のパンツが広げておかれ、壁際のラックにはコートやらのアウター類が飾られていた。メンズはなさそうだったけれど、男性客がちらほらとおり、いずれも恋人らしき女性と商品を見てまわっていた。
満水さんがほかの人の邪魔にならないように、そろりそろりと移動しながら商品を眺めていく。僕はそのうしろをついていくと、ハンガーにかかっていたブラウンのタートルネックニットの前で立ち止まった。
「あ、すみません」
近くで見ていたお客さんとぶつかってしまい、満水さんが謝ってからすごすごと移動していく。ざっくりとフロア全体に目を通し終えてから、レジの近くにある小物コーナーへ移っていった。
「これかわいー」
満水さんが細かいチェックが入った深緑色のマフラーを手に取った。
「こっちも似合いそうだけど」
僕は格子柄でグレーのラインが入った青紫色のマフラーを満水さんに見せた。
「そっちもいいね。恵大も似合いそう」
「そう?」
「よろしければ、お試しいただいてもだいじょうぶですよ」
レジの近くでノートパソコンをいじっていた前髪の長い女性の店員がにっこりと笑みを浮かべながら教えてくれた。満水さんは「あ、はい。ありがとうございます」と云ってから、試すことはせずに商品をおいてしまう。
「これ、男がしてても問題ないですか?」と僕は店員さんに話しかけた。
「もちろんです。毎年定番の商品なのですが、色と柄をおそろいでご購入されてるカップルもいらっしゃいますよ」
「そうなんですね。巻いてみてもいいですか?」
「はい。大きめの鏡が奥にございますので、全身をご確認するのであれば、そちらのほうがいいと思います」
「ありがとうございます。さっきのも試してみていい?」
「うん」と満水さんがおいたマフラーをふたたび手に持った。
ラックとラックのあいだにある鏡の前へ移動すると、僕は満水さんの首にさらっとマフラーをかけた。
「え、わたし?」
「嘘だからねあれ。買う買わないは別にして、試さないのは、せっかく来たのにもったいないよ」と僕はマフラーを巻いていった。
満水さんが唇を合わせて目をそらした。グロスで汚したらいけないと思っているのだろう、顔を埋めたくてもできない仕草がたまらなくかわいい。
「どう?」
「僕は好き」
満水さんが鏡で全身を見た。「こっちもいいね。わたしのも試していい?」
「どうぞ。持つよ」
満水さんがマフラーをはずし、さっき選んだものをくるくると巻いていく。色味が抑えられているのでブレザーにもよく合った。どっちが好きかと訊かれても『どっちも好き』と云わざるを得ないくらい両方似合っている。
「いいなあこれ。けどマフラー買うの、まだ待ったほうがいい気がしない?」
「そうだね。まだぜんぜん寒くないし。とりあえず候補にしておけばいいんじゃない?」
「だねー」
僕らはマフラーを戻しに行くと、さっきの店員さんから「どうでしたか?」と訊ねられる。
「いい感じでした。ありがとうございます。検討、してみます」と満水さんがぺこりと頭を下げた。
「ぜひぜひ。あ、もらいますね。他になにか気になるものとかございました?」と店員さんがマフラーをたたみながら訊ねた。
「えーっと。あっちにあった、ブラウンのタートルネックのニットが」
「あーあれですか。いいですよねー。いまぐらいの時期だと一枚でも着れちゃいますし。よろしければお持ちしましょうか?」
「じゃあ、いい、ですか?」
「まったく問題ないです。少々お待ちください」
店員さんがすたすたとフロアを歩いていく。さっきのタートルネックを持ってきてくれると「こちらへどうぞ」と試着室に案内された。満水さんがカーテンを閉じ、ちょっとのあいだ近くにあった椅子に坐って待っていると、しゃーっとカーテンを開く音がする。
「お疲れさまです。いかがですか?」
満水さんが姿勢を低くしながら試着室からでてきた。「ちょっと大きめで着やすいです。あと、あったかい」
「ピュアバージンウールが使われてるので、保温性があるんですよ」と店員さんが説明した。「真冬はその上にコートだったり、なにか一枚羽織るだけで十分だと思います」
「そうですね」と満水さんがこちらに目を向けた。「ねえ、どう?」
満水さんが両手を広げる。すこし大きめの作りなのか、ざっくりとしていて、袖は親指の付け根くらいまであり、ネックの部分はゆとりがあって息苦しさを感じさせない。表面は何本もの編み目が縦にきれいに伸び、色も濃すぎず、キャメルほど明るくなく、個人的にはちょうどよかった。
……ダメだ、にやけそう。お金があったらこのまま着させてデートをつづけたいくらい似合っていた。僕はその姿を眺めながら、店員さんの前で「かわいい」なんて云えるはずもなく、無言で何度も首を縦に振る。
「え、なーに?」と満水さんが笑った。
「カレシさんも好きみたいですねー」と店員さんがにやにやしながら云った。「あっ、すみませんお客様、ちょっと離れさせていただきます。試着室は使っていただいてかまわないので、ごゆっくりご検討ください」
店員さんがほかの店員さんに呼ばれて、早歩きでどこかへ行ってしまった。僕は大きく息を吐きだして、胸の高まりを抑える。
「そのニット……」と僕は頬の火照りをしずめるために手を添えた。「正直、めちゃくちゃ好き」
「わたしも。着てみてよかった。ほんといいよねーこれ」と満水さんが袖を伸ばした。
癖なのか、さらっと萌え袖をしてくる。というか満水さん、たぶん気づいてない。僕が好きなのは、そのニットを着ている満水さんなんだってこと。でもわざわざ知ってもらうために云いなおしたくもないので、そのままスルーしてもらうことにした。
それから僕らは、いろいろなところを見てまわった。
秋物を中心に街を散策し、適当に目についたお店に入ったりしながら途中で休憩を挟み、気がつけば外はまろやかな光に包まれていた。見たいところもなくなった僕たちは、暗くなる前に帰ることにして、駅へ向かうことにする。
満水さんの右手には、小さめのしろい紙袋があった。きょうの戦利品、気に入った靴下が見つかったのだ。僕はなにもほしいものが見つからなかったけれど、となりで満足げにしている満水さんの顔を見ているだけで十分だった。
改札を通り、ホームに着くと、すこししてから電車がやってくる。帰宅時のラッシュはまだのようで、なかはそこまで混んでおらず、僕らは空いていた座席に坐った。
「夕日、きれいだね」
「だねー」
窓の向こうで夕日が燦然と街を照らしている。家々やそびえるビルが燃えるように色づき、一面が秋色に染まっていた。近くにいた人たちはまぶしそうに目を細めたり、その光景に目をうばわれて、感嘆の声を漏らしていた。
アナウンスが駅名を告げるたび、すこしずつ輝きが失われていく。うっすらと闇に包まれていき、終わりの近い線香花火の先端のように、夕日が濃い朱色に色を変えていった。
「僕、次の次で乗り換え」
「うん。わかった」
窓にうっすらと満水さんの寂しげな顔が写りこむ。その顔を見ていたら、別れが惜しくなってきた。愉しかったから、余計に。だけどそんな僕らの気持ちなんか汲み取ってくれるはずもなく、アナウンスは無情に降りる駅名を告げてくる。
「じゃあまた。あとでラインするね」
「うん、またね。気をつけて」
ドアが開き、僕はホームへ降りた。向かい側の番線にまっすぐ向かっていくと、ちょうど電車がやってきて、僕はラッキーと思いながら乗りこみ、空いていた座席に腰を下ろそうとした瞬間、ホームをとたとたと走ってくる満水さんが見える。
「へ、なんで?」
僕はすかさず降りて、満水さんのところへ。ホームの中央で合流すると、満水さんが肩を軽く上下させながら、そばに寄ってきた。
「どうしたの?」
満水さんが息を吸いこんで、ブレザーのポケットから、ずっと前にお弁当を食べていたときに渡した、僕のハンカチを取りだした。
「返すの、遅くなって、ごめんね?」
その、どこかで耳にしたことがあるような――いや、いつか僕が云ったことがある台詞を聞いて、へなへなと力が抜け、その場にうずくまる。
「そう、きた、かぁ……」
僕は額に手を当て、小さな声でつぶやいた。それがどういう意味を含んでいるのか、僕も同じことをしたからわかる。
立ち上がると、満水さんがハンカチをぎゅっと握りながらうつむいていた。なにも云わない。云おうとしない。察してほしいのだろう。でも残念ながら、僕は都合のいい、察しのいい、やさしいだけの男にはならないけどね?
「ありがとう」
僕は中腰でハンカチごと両手をぎゅっと包みながら顔をのぞきこんだ。無言の鸚鵡返しで、そのままじっと目を合わせつづけていると、満水さんの頬が次第に赤くなって、軽く手に力が入る。どうやら気づいたらしい。云いたいことを云わなければ、ホームを歩いている人たちに、この姿をずっと見られつづけることに。
「やだ」
「ん? なにが?」
「……いじわる」
「真癒子にだけね」
「ずるい……」
恥ずかしさが限界に達したのか、真っ赤な顔で目をつぶり、小さく口を開いた。
「まだ、いっしょに、いたい」
「うん、僕も。家まで送るね」
僕は満水さんと手をつなぎながら乗る電車の番線に並んだ。待っているあいだ、まるで避難訓練のときのように、ハンカチで口元を隠しつづけている。
これからのために、覚えていてほしいな、と思った。
名前で呼び合う仲でも、意地悪をしてしまうのは、特別で、ほんとうに好きな子だけってこと。
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