第29話 ちらちら芸術鑑賞
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学年主任の話がようやく終わり、クラス順に美術館のなかへ入っていくように指示がでる。僕はブレザーの袖からセーターを引っ張り、肩を上げて順番が来るのを待っていた。時折吹く風で前髪が巻き上げられると、女子たちが悲鳴を上げ、迷惑そうな顔でスカートを押さえる。
「あー寒っ。はやくなか入りたいんだけどー」
「というかなんで外? 意味わかんなくない?」
近くにいた女子の会話が聞こえてくる。最近は昼間もあまり気温が上がらず、おまけにきょうは風が強いせいもあるのか、余計に寒く感じる。特に女子はスカートなので、男子以上にそう感じているだろう。
僕はすこし前にいた満水さんのようすを確認する。両手をブレザーのポケットに入れながら身を縮め、肩にかかるワンレングスの黒髪は風でぼさぼさに乱れていた。
心配しながら待っていると、ようやく自分たちのクラスの順番になった。入口を通ると風がなくなったおかげで寒さは幾分和らぎ、僕はつめたくなった手をあたためるように擦り合わせながら前へ進んでいく。
一階には売店やカフェがあり、展覧会の案内の書かれたポスターが張りだされ、奥には小さなスペースでなにかの展示が催されている。印象的だったのは中央に大きな支柱が一本伸び、それを囲うようにして幅の広い螺旋階段が伸びていることで、骨組みがハープの弦のように美しく、思わず感嘆の声が漏れてしまった。
満水さんは弓峰さんとまわるようで、なにかを話しながら階段を上っていく。そのときちらっとこっちを向いてきたけれど、僕はやんわりと顔をそらして、若藤と沼が来るのを待った。
「ケイ」
呼ばれて振り返ると、若藤と沼がポケットに手を入れながらやってきた。
「うす」
「外、寒かったね」
「ほんとだぜ。あー……」と若藤が鼻をすすった。「さっさと課題終わらせてのんびりしようぜ」
三人でかたまりながら螺旋階段を上がっていく。きょうの午後は一年生のみ毎年行われている芸術鑑賞会の日だった。真の芸術に触れ合う機会を作るのが目的らしく、好きな作品を見つけ、どこが気に入ったのかなどをレポートに書いてくるのが課題としてだされている。時間内までは館内を自由に移動していいことになっており、班分けなどもされていないので、移動中、僕らと同じように友達同士でまわる人たちが多く散見された。
「なんかあまいにおいしないか?」
二階に着いて奥へ進んでいくと、喉と鼻のあいだに引っかかるような、あまい香りが漂ってくる。
若藤が鼻を鳴らした。「いや。ぜんぜん」
「わかる。なんだろう、独特なにおいだよね」
「マジ? やべえ、風邪引いたかな……さっきから鼻水止まんねえし」
沼が吹きだした。「それはないだろ」
「笑うところおかしくねこいつ?」と若藤がこちらを見てきた。
僕はポケットを触りながら云った。「沼のツボって独特だからね……あーごめん、ポケットティッシュないや」
「いい、いらね。しかしまあ、こう静かだと落ち着かねえな」と若藤が云った。「お。これとかよくね?」
若藤がひとつの絵の前で立ち止まった。タイトルは『片隅の春』で、公園の池を中心に描かれつつ、目を引くのはまわりに生えた花や植物の鮮やかな色彩で、乾いた筆で描かれたようなかすれた筆致で表現されており、淡い雰囲気がでている。
「オレ、これでいい気がしてきた」
「えっ、決めるのはやくない? このあともっといいの見つかるかもしれないよ?」
「まーそれもそうか。んじゃまあ、こいつはキープで」
「決めたなら男らしくいけ」
「オレはどっちの言葉を信じたらいい?」
「若藤の好きにすればいいんじゃないかな?」
「自分の感性を信じろ。いいと思ったものを貫け」
若藤がはっとした顔で云った。「やべえ、わかっちゃったぜ。それが今回の課題の真の目的だ。まわりからなんと云われようと、自分が好きだと云えるものを挙げてこいってことなんじゃね?」
「なにを云っている?」
「ケイ」
「ごめん、助けを求めないで……」
僕は笑いだしそうになって口を押さえた。静謐な場所のせいか、普段しているような会話でも、変におかしく感じてしまう。
周囲の人たちの迷惑にならない程度に話しながら、展示されているものを見てまわる。この美術館は二階と三階が常設展で、それぞれ西洋の十八世紀から十九世紀ごろの絵画や彫刻が展示されているらしい。壁に飾られた絵画はどれも立派な額縁に入れられて荘厳な雰囲気をまとっており、ただの高校生の僕にその価値がわかるはずもなく、絵の前で立ち止まりながら、自分の感性に触れるものを探していく。
その最中、満水さんと弓峰さんが奥で絵を眺めているのが見えた。僕は意識しないように絵を見ていたけれど、視界の端で満水さんがちらちらとこちらを見ているような気がして、ついそちらへ顔を動かしてしまう。
そのとき、目と目が合った。
満水さんが髪を触りながら顔をそらし、僕も慌てて別の方向を向く。周囲には他クラスの人たちがいるので、奥歯を噛み、にやけてしまいそうになるのを必死に堪えた。
僕は満水さんたちを避けるようにその場を離れる。お祭りらしい、陽気でなんでもゆるされる雰囲気があった文化祭とは違い、静かで真面目な雰囲気の美術館で、人目もはばからずに堂々と恋人らしく振る舞えるほど、僕は恋に酔っていない。それはたぶん満水さんも同じで、公私をわきまえているというか、一線がしっかりとある。
慣れてきたからこそ、その線引きをちゃんとしておきたかった。知り合いがいないところなら別にそういう雰囲気になってもいいとは思う。でも、同じ学年の人が大勢集まる場所で、地味な僕らがところかまわずべたべたとしていたら、不快に感じる人もきっといるはずで。人目につく行動はなるべく避けたかった。
僕は一枚の絵を眺めていた沼のところへ。わかっているようないないような、神妙な面持ちでまじまじと見つめていた。
「それ、気に入ったの?」
「いや。特には」と沼が云った。「いいの見つかったか?」
「うーん。あんまり。そろそろ上に行こうかな」
「そうか。若藤はさっきの絵が気に入ったらしい。もう課題をやりはじめていたぞ」
「じゃあ、ふたりで行こうか」
僕と沼はフロアを移動し、レポート用紙をがりがり書いていた若藤に「上に行ってるよ」と一声かけてから再び階段を上がっていった。三階は二階に比べて照明が明るく、通路の幅も広くなっていて、飾られているものも風景画が多かったのに対し、人物画が増えている。絵と絵の間隔も縮み、展示されている数が多いせいか、絵を眺めている人の数がそこそこいた。
「お」
沼といっしょに歩きながら絵を眺めていると、一枚の絵の前で急に立ち止まったので、僕も歩を止める。むかしの農夫を描いたもので、畑のような場所でジャケットを着た子どもが仕事に勤しみ、中央にうす汚れたシャツ姿にサスペンダーがついたズボンと革靴をはき、鍬を肩にかけた髭の生えた男性が佇んでいた。タイトルは『日差し』で、時代はよくわからないけれど、いまの農家の人と比べると頑強で、泥臭い雰囲気がかっこいいなと思う。
「ぃ、た。す、みま……あ」
「すまん。あ」
沼がだれかとぶつかり、僕はそちらへ顔を向けると、直美さんが鼻をさすりながら立っていた。ゴムでざっくりまとめただけのポニーテールで、顔の半分が隠れるくらいの長く伸ばした前髪が、だらんと垂れ下がっている。
「だいじょうぶ?」
「平気」と直美さんが鼻をすすった。「久々」
「そうだね。課題、もうやってる?」
「まだ」と直美さんが目を動かした。「でも、これにしようかな、って」
「おまえも気に入ったのか?」
直美さんがいやそうな顔をしながら云った。「かぶるなら、やめよう、かな……」
「めんどくさいやつだな……」
「うるさい」
直美さんが持っていた筆箱で小手をするように鋭く手を動かした。しかし沼はさらりと避け、がっちりとした手で飼い慣らした猫をなだめるように頭をぽんぽんとたたくと、恥ずかしそうに「やめろ」と直美さんがその手を払いのける。兄妹っぽいやりとりを見てほのぼのしつつ、僕は口を開いた。
「そういえば、中学のときも、沼とかぶるのいやがってたよね。委員会とか」
「俺はなんとも思わんがな」
「こいつは、無頓着なだけ」と直美さんが腕を組みながら云った。「部活も、学校も、家でもいっしょだから、私はいや」
「双子だもんね。だけど同じ絵を好きになるってやっぱりすごいね。二卵性でも、感覚的なところは似るのかな」
「わからんが、そうかもな」
「うれしく、ない……」と直美さんがちらりと沼を見た。
ついつい、僕はくすりと笑ってしまう。沼の前では直美さんが『妹』になっていて、ぶっきらぼうなところがすこしかわいいな、と僕は思った。
「じゃあ、ぶらぶらしてくる」
「おう。あとでな」
直美さんが無言で親指を立ててくる。僕は直美さんらしいなと思いながら親指を突き立て返し、一人でフロアを歩いていった。すこし時間が経ったせいもあるのか、絵の前で立ち止まってレポートを書いている人が増えてきていて、少々焦りを感じながら、フロアを見てまわっていく。
そのとき、弓峰さんが絵を見ながらレポート用紙を書いている姿を発見する。集中しているみたいなので、声をかけずに去ろうとしたら、シャーペンの頭を顎にくっつけながら、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「よ。一人?」と弓峰さんが軽く手を上げた。
僕はそちらへ歩み寄った。「うん。みんな決まったみたいで。満水さんは?」
「上。屋上に庭園あるらしくて、そこにもいろいろあるみたい」
「そっか。せっかくだから、僕も見てくるよ」
「あ、そうそう。マユに会ったら伝言お願いしてもいい?」
「いいよ。なに?」
「小暮のこと見すぎ。絵を見ろ絵を、って」と弓峰さんが意地悪く笑いながら云った。
「……それ、僕から伝えちゃダメなやつ。まあ、ありがとう」
「ん。よろしく」と弓峰さんがほほえみながら手を上げた。
僕は螺旋階段を上がって最上階に着くと、大きな鉄扉があり、取っ手を持ちながら奥へ押しこんだ。その瞬間、ぼわぁっと風で前髪が巻き上げられて、反射的に目を細めてしまう。
屋上には芝生が敷かれていて、ぐねぐねと曲がりくねった造形物や、球体の鉄の塊など、不可思議な展示物がぽつぽつとおかれている。かなり寒く、人もまばらにしかいなかった。
風ではちゃめちゃになっている髪を整えながら、満水さんらしき人を探すと、奥の手すりのあたりにそれっぽい人がいた。
「寒くない?」
声をかけると、満水さんがサイドの髪を押さえながら振り向いた。驚かせてしまったのか、目を大きく開いたのち、目尻がすこしずつ垂れ下がっていく。
「んーん。だいじょうぶ。ここにいるってなんでわかったの?」
「さっき弓峰さんに会って。あー、と、その」と僕は髪を整えながら云った。「いいの、見つかった?」
「んーとりあえず、全部見てから決めようかなーって」と満水さんが云った。「恵大は?」
「んー、まあ、そこそこ」
「そっか。あ。見て見て。あれ」
満水さんが顔を動かしたほうへ目を向けると、ビルや建物が立ち並ぶ景色のなかに、黄色く色づいた場所があった。すこし離れたところではわずかに赤くなっているところもあり、もうそんな時期なんだと、目で秋の訪れを実感する。
「秋だねー」
「きれいだよねー。そろそろ見頃なのかな?」
「どうなんだろうね。まだピークは過ぎてなさそうだけど」と僕は云った。「今週末、予定ないなら見に行く? どこがいいのかわからないから、行くなら調べてみるけど」
「行きたい行きたい。いっしょに調べて行くとこ決めよ?」
「そうだね」
まったく関係のない話をしていると、風がさらに強くなり、満水さんが髪とスカートと押さえながら「木枯らしすごいねー」と笑いながら云った。僕はオールバックになりながら「ほんとだねー」とその笑顔につられてほほえんでしまう。
いろいろと芸術作品を見てきたけれど、どれにも心惹かれなかったのは、僕が満水さんに心奪われているからなのかもしれない。
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