第22話 じりじりマイルーム


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 朝から、緊張している。


 僕はベッドに寝ころびながら、何度もスマホをつけたり消したりを繰り返していた。もうすぐ約束の時間になる。午前中から部屋の掃除をしたりして気を紛らわせていたけれど、そのあいだずっと、鳩尾のあたりに鉛玉が入っているような重たい感覚があった。


「ぅあっ」


 突然スマホが震え、肩がびくっと上がり、思わず変な声がでてしまった。僕は画面を見ると、満水さんから『何号室?』とメッセージが届いている。


『八〇三だよ』


 返事を送ってすぐ、インターホンが鳴る。僕はベッドから跳ね起き、部屋をでたところでマスクを下にずらし「でなくていいからね」と大きめの声で云った。


 リビングのドアを開くと、ドアのすぐ横の壁に設置されているモニターに紙袋を下げた私服の満水さんが映っている。


 僕は通話ボタンを押した。「はい。小暮です」

『あ、えっと、満水です』

「どうぞ。エレベーター、奥にあるから」


 解錠ボタンを押すと、満水さんがきょろきょろしながら右へ進んでいき、モニターから姿が消える。


「いい子そうじゃん」

「そうだなぁ」


 うしろからお母さんとお父さんの声がして、僕はゆっくり振り返ると、ふたりが並んで鼻の下を伸ばしながら、のぞきこむようにモニターを見ていた。


「あとでチーズケーキ持っていくから。カノジョに紅茶かコーヒー、どっちが好きか訊いておいて」

「いいよ来なくて。自分で取りにいく」

 お母さんが腰に手を当てた。「なんでテンション下げること云うかなあ。ケイのだけロウソク立てるよ」

「やめて」


 お母さんはヘアゴムで髪を結び、しろいTシャツの上に薄手の黒いニット、下は細すぎず太すぎないリジッドのデニムに、赤いソックスを合わせていた。肌がツヤツヤとして、唇が赤く潤い、休みなのにわざわざ化粧をしている。


「いいだろケイ。来るの愉しみにしてたんだから、好きにやらせてやれ」

「ちょっと。余計なこと云わないで」とお母さんがお父さんの腕を叩いた。

「ごめんごめん」


 お父さんが柔和にほほえみながら腕を組む。ポケットがついた厚手のしろいTシャツに、さらっとネイビーのシャツを羽織り、洗いざらしの太いデニムをロールアップしてお母さんと同じく赤いソックスをはいていた。休日はいつもボサボサの頭なのに、きょうはめずらしく髪をセットして髭も剃っている。


 見られるわけでもないのに、ふたりとも、このまま外出してもおかしくない服装をしていた。たぶん、ふたりなりにいい印象を与えようとしているのだろう。僕はプルオーバーのグレーのパーカーに、ネイビーのチノパンと黒いソックスで、一応それなりに整えたけれど、なるべくリラックスできる服装を心がけていた。


「うん、まあ……いいけど。邪魔しないでよ。勉強するんだから」


 なぜかこういうとき素直になれないもので、僕はマスクで口を隠し、鼻の位置を整えていると、ふたたびインターホンが鳴った。


 僕はリビングをあとにして玄関のドアを開く。あたたかくもつめたくもない空気がふわっと入ってきて、まろやかな光に照らされた満水さんを見た瞬間、さっきまでの緊張が吹き飛んでいった。


「いらっしゃい」

「お邪魔します」


 満水さんが緊張混じりにうっすらとほほえんだ。ジャストサイズの濃いめのデニムジャケットの下に、チャコールグレーの薄手のニット、九分丈でストライプが入った太めのネイビーのスラックスにイエローのソックスを合わせ、ローカットのしろいコンバースをはいている。黒いリュックを背負って、手にはちょっと大きめの紙袋を持っていた。


「あの、これ、お母さんから。食べてくださいって。前にいただいた枝豆のお礼だって」

「ありがとう。どうぞ、上がって」


 僕は紙袋をもらい、ドアを押さえながら満水さんを招き入れる。満水さんがそろーっとなかへ入ってきて、もう一度「お邪魔します」と小さな声で云ってからスニーカーを脱ぎ、靴の向きをそろえて廊下へ上がった。


「これ、使って」

「ありがとう」


 来客用のスリッパをだし、満水さんが足を入れる。声がいつもよりかたい気がした。僕は自分の部屋へ案内しながら「迷わなかった?」とすこしでも緊張を解してほしくて訊ねてみた。


「うん。雨の日、一度、マンションの前まで来たから」

「あー。そうだったね」

「それより、風邪、治った?」

「熱はまったくないよ。マスクは念のため、うつさないようにしてるだけ」


 自分の部屋のドアを開ける。左側にベッドとクローゼット、正面には液晶テレビがあり、その前に小さめのローテーブル、右側には勉強机と本棚がおかれている。見慣れたはずの自分の部屋が、満水さんがいるだけで自分の部屋じゃないような、不思議な感じがした。


「これ、おいてくる。適当に坐ってて」と僕は紙袋を見せながら云った。「あと、お母さんがコーヒーと紅茶どっちがいいかって。チーズケーキだしてくれるみたい。緑茶もあるけど、なにがいい?」

「じゃあ、紅茶で」

「うん、わかった」


 リビングへ向かうと、お父さんがソファで、お母さんがテーブルの椅子に坐ってテレビを眺めていた。


「これ。夏休みにあげた、枝豆のお礼だって」と僕は云った。「あと、紅茶がいいってさ。僕も同じでいいよ」

「うわぁ、ほんとに? 申し訳ないわねえ」とお母さんが立ち上がって紙袋を受け取った。「えっ!? これ『黒船』のカステラ!? ちょっと、どうしよ、ねえ。こっちもなにかおみやげ買ってきたほうがいいかな?」

「いいんじゃないかー? それやったらきりないし、あっちが逆に気を使うだろ」とお父さんがのんびりとした口調で云った。

「そうかなぁ……まあいいや、あとで考えよ。紅茶ね、準備するから待ってて」とお母さんが頬に手を添えながらキッチンへ移動した。


 なんだか大人には大人の事情がいろいろあるみたいだった。そこらへんのよくわからないことは親に任せ、僕はしずかにリビングをあとにして部屋へ戻ると、満水さんが床にちょこんと坐りながらこちらへ目線を移してくる。


「あ。いま、座布団だすから」


 僕はクローゼットにしまっていた座布団を引っ張りだし、ローテーブルの前においた。


「上着、もらおうか?」

「うん。ありがと」


 満水さんがデニムジャケットを脱ぐと、足をななめに崩して座布団の上に坐り、部屋全体を見まわすように顔を動かした。


 僕はハンガーに袖を入れながら云った。「どうかした?」

「一人部屋、いいなーと思って」

「そっか。二人部屋だもんね。満水さんの部屋は、どういう感じなの?」

「ここよりもうちょっと広いくらいかな? でもベッドと机がふたつあるから、あんまり広く感じないけど」

「自分の漫画とか服とかどうしてる?」と僕は服を壁に吊した。

「本棚はほとんど共用。服はハンガーラックが別々であって」と満水さんが云った。「そうだ聞いて。最近マチも服とか気にしはじめてきたみたいでさ。このあいだわたしの服、勝手に自分のところに持っていってて」

「そうなんだ」と僕は笑いながら云った。

「もー喧嘩だよね。さすがに。気に入ってたやつだったから」

「喧嘩とかするんだ。しなさそうなイメージだったけど」

「多くないけど、ふつうにするよー」


 僕は満水さんと話しながら勉強道具を準備をしていく。満水さんもある程度緊張がほぐれてきたようで、表情が幾分やわらかくなっていった。


「ノート、写させてもらっていい?」

「うん、いいよー。わたし、適当に勉強してるね」


 満水さんがリュックからノートを数冊だしていく。向かい合いながら写していると、コンコンとドアをノックする音がして「入るよー」とお母さんがお盆を持ちながら部屋に入ってきた。


「あ、はじめまして。満水真癒子です。お邪魔しています」


 満水さんがすくっと立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。


「あーあーいいのいいの。そんなにかしこまらないで」とお母さんが云った。「恵大の母です。きょうはゆっくりしていって。チーズケーキ、よかったら食べてね。あと紅茶、いちおう砂糖とミルク用意しておいたから、気にせず使ってね」

「はい。ありがとうございます」

 お母さんがお盆を勉強机の上においた。「ケイ、食べ終わったら持ってきて」

「ん、わかった」

「それじゃーごゆっくり」とお母さんがにこにこしながらドアを閉めた。


 満水さんが軽く会釈をしてから坐りなおした。僕は短く息を吐く。せっかくやわらかくなった空気が、またちょっとだけかたくなってしまった。なかなか落ち着くことができず、どことなく緊張感の漂った部屋で、僕は黙々とノートを写していく。


 その最中、きゅぅとお腹の音が鳴った。


 満水さんが咄嗟にお腹を押さえ、ゆっくりとうつむく。


「お昼、食べてきてなかったり、する?」

「ううん。食べてきた」と満水さんが小さな声で云った。「でも、あんまり食べられなくて……」

「チーズケーキ、さきに食べていいよ」と僕は云った。「愉しみにしてたみたい。満水さんが来るの。普段、そういうの、買ってこないから」

「そう、なんだ」


 満水さんがふーっと息をつき、こわばっていた肩がすとんと落ちていく。


「よかった」


 ほっとしたような、やさしい声で云って、満水さんがほほえんだ。その安心した顔を見て、こっちも肩の力が抜けていくと同時に、夏休みに満水さんのお母さんと、マチさんにはじめて会ったときのことを思いだしてしまう。好きな人の家族に会うのは緊張するもので、たぶん、家に来たときから、満水さんも親にどんな風に思われるかを気にしていたのかもしれないな、と僕は思った。


「んーっ。ふ、ふふっ」

「なに、そんなに美味しい?」


 満水さんがお皿を持ちつつ頬を膨らませ、目尻をたるませながら、こくこくとうなずいた。


 部屋にふたりっきりという状況で、なんだか意識されていないみたいで、ちょっとだけ悔しかったけれど。この顔を独り占めしているのは、ほんのすこし申し訳なく感じてしまったので、あとで喜んでいたと、報告することにしよう。


 

 部屋に流れていた作業用のBGMが途切れ、僕はスマホをいじっていると、満水さんが両手をぐーっと前に伸ばした。


「ちょっと休憩しない?」

「そうだね」


 ノートを写し終わってから、僕らはスマホで動画サイトの作業用BGMを垂れ流しつつ、テスト勉強をしていった。とはいっても、無言で黙々と取り組むような重苦しい感じではなく、問題をだし合ったり、どこがでそうかを予想したりと、ゆるく、ほのぼのしながら、お互いの苦手な教科を教え合っていた。


「次、なに聴く?」

「見せて見せて」


 僕はスマホを見せたら、満水さんが膝立ちで歩きながら近寄ってくる。肩が当たるか当たらないかくらいまでの距離にやってくると、あまい香りが鼻先をかすめ、ニット越しの胸に目がいきそうになった。


「下いって」


 僕は指で画面をいじりつつ、ついつい意識が満水さんのほうへいってしまう。何度も、これくらいの距離で接したことはあるはずなのに、自分の部屋というだけで、別の方向へ頭が働いてしまっていた。


「探してて。食器戻してくる」


 スマホを満水さんに渡して、僕はお盆を持ちながらそそくさと部屋をでた。もしも、マスクをしてなかったら――いや、そういうことをしようと思って呼んだわけじゃないから、と僕は頭を振りながらリビングへ向かう。


「持ってきたよ」

「ありがとー。適当においといてー」


 僕はキッチンの空いていたところにお盆をおいて、棚からコップをふたつだし、冷蔵庫を開いたところで「ぁー……」ともらした。しまった。飲みもの、なにがいいか訊くのを忘れた。コーヒーもあるけど無難にお茶でいいかなと思い、僕はペットボトルのお茶を適当に入れ、コップを持ちながらふたたび部屋へ戻る。


 満水さんはベッドの端に身体をあずけながらスマホをいじっていた。僕は短く息を吸いこんでから「よさそうなのあった?」と訊ねてみる。


「コズパズ聴かない?」

「いいよ。最近、あたらしい曲だしたよね」

「新曲いいよねー」

「流していいよ」と僕はコップを勉強机においた。「お茶、ここにおくね」

「うん。ありがと」


 僕は満水さんの近くで胡座をかくと、ピアノソロのゆっくりとしたイントロが流れはじめる。コズミックパズル、通称『コズパズ』は女性ボーカルの『天野あさひ』を中心にした音楽ユニットで、新曲をだすたび動画サイトに投稿したPVがぐんぐん伸び、玉木灯志と並んで最近注目されている若手のひとりだった。


「天野さんの声いいよねー」

「見た目が清楚系だから、声聞くとびっくりするよね。歌ってるときとギャップあって」

「そうそうわかる。それもいいんだよー」


 音割れしそうなほど強く、伸びのある太い声が部屋中に響く。これからの季節に合いそうなしっとりとした曲調で、そのせいなのか、勉強しているときは和やかだった雰囲気が徐々にしっぽりとしてしまい、互いに無言になってしまった。


 曲が流れている途中で、視界の端で満水さんの視線を感じた。そちらへ振り向くと、ばっと顔を戻してスマホを見つめる。目線はそちらへ向けたままだったけれど、足とお尻を交互に動かし、じりじりと距離を詰めてきた。


「いいよ。そっち行く」


 僕は立ち上がり、満水さんのとなりに腰を下ろした。肩をくっつけながら並んでスマホを眺めていると、おもむろに満水さんが「ぃっ、しょ」と云って軽く立ち上がり、足のあいだに入ってきて、うしろに体重をかけてくる。


「ちょ、なになに」

「こっちのほうが見やすい」

「いやまあ、そうだけど……」


 ラストのサビで転調し、歌声に感情が厚塗りされていく。曲の盛り上がりと同調するように、心臓がなにかにつかまれてるみたいに、ぎゅっと苦しくなった。背中越しに、きっとこの胸のドキドキは伝わっているだろう。


「会えなかったぶん、穴埋めして?」


 満水さんが前を向きながら、恥ずかしさを押し殺しているような、小さな声で云ってくる。画面にうっすらと、唇をすぼめ、なにかを堪えているような顔が映っていた。


 マスクがなければ、振り向かせてキスをしたくなるくらい、かわいかった。もう治っていると思うけれど、でも万が一、テスト前に満水さんに風邪を引かせてしまったら、僕はきょうのことを悔やむだろう。


「いいよ」


 僕は膝を立て、満水さんを囲うようにしながら、スマホを持っていた手を包みこむようにつかんだ。


「持つね」

「うん」

「ねえ、このまま写真撮っちゃダメ?」と僕は満水さんの肩に顎を乗せながら云った。

「やーだ。恥ずかしい」と満水さんが手を口に当てながら笑った。「ね。次、これ見てい?」

「えーそれ? 僕こっちがいいんだけど」

「こっちこっちこっち」と満水さんが腕を揺すってきた。

「あー押せない押せない。やめてー」


 僕は腕を満水さんの脇の下にくぐらせてスマホを操作していった。満水さんは立てた膝の上に手をおいて、まるで僕を椅子みたいに扱ってくる。その体勢のまま、おすすめ関連動画の一覧を見たり、あれがいい、これが見たいなどなどと話しつつ、動画をいろいろと見ていった。


 会えなかった時間を補うように、長い長い休憩時間は、満水さんが帰るまでつづいた。

 

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