最終話 じみじみ朝ご飯
最終話
カーテンの縁が、日食のように輝いていた。
目が醒めると、ほんのわずかに肌寒さを感じ、身体が自然と縮こまる。身体半分が布団に入っていたけれど、背中がまったくかかっていなかった。僕はもぞもぞと身体を動かして布団のなかへ入ろうとすると、足が真癒子の足に当たってしまい、起こしてしまっていないかを確認するために軽く頭を上げた。
真癒子は壁側で羽毛布団にたっぽりとくるまっていた。横髪が頬にかかっていて、目と口を閉じ、気持ちよさそうな顔で眠っている。
「ん、……ぅ、ん」
その寝顔を息を潜めて眺めていると、眉間に軽くしわを寄せ、真癒子がゆっくりと目を開いた。まだ意識がぼんやりしているようで、寝ぼけ眼でこちらをじーっと見てくる。僕はそのようすをほほえみながら見つめていた。
「おはよう」
「ぉ、はょ、……んー」
もぞもぞと、顔を隠すように布団のなかに潜っていく。髪だけが表にでていて「でてきてよー」と指で頭皮を揉むように頭を触ると、まとまっていた髪が一本一本見えるくらいにぱらぱらになって「んー。やー」と真癒子が前髪の上がったおでこと目をだしてきた。
「そっち、もうすこし入ってもいい?」
「ん。どうぞー」
真癒子がマントを広げるように片手で布団を持ち上げてくれて、僕はいそいそとそのなかに身体を入れたら「あー、っ、きも、っちいー……」と自然に声がでて、体温を吸いこんだ毛布に全身が包まれる。そのあたたかさに癒されていると、真癒子が枕においていた頭をぽす、ぽすと移動させた。
「半分いいよ」
「ありがと」と僕は枕に頭をおいた。「寒くなかった?」
「うん、だいじょぶ」と真癒子がにへーっとほほえんだ。「フリースありがと。貸してくれて」
「あったかいよねそれ」
「うん。気持ちい」と真癒子がまったりとした声で云った。「恵大それだけで寒くないの?」
「いや……エアコンつけてても、この時期にパンツで寝るのはダメだね……風邪引かなくてよかった」
「ほらー。だからなにか着なって云ったのにー」
ひとつの枕の上で、頬を埋めて目を合わせながら話していると、真癒子が腕を軽くさすってくる。細長い指が上下にゆっくり動き、なんとなくしてほしいことがわかって、僕はその手を取り、指と指のあいだに自分の指を入れた。
「朝ご飯、ほんとにきのうのシチューでいいの?」
「うん。わたしはね。別の食べたいならそれ食べててもいいよ?」
「僕、朝からそんなに食べられないなあ……ふつうにパンと目玉焼き作って食べててもいい?」
「えーいいなー目玉焼きわたしも食べたい。あ、そうだ、ねえ、卵あるならめっっっちゃしょっぱい卵焼き作ろうか?」
「うわなつかし。そんなこと話したねー」と僕は笑いながら云った。「でもごめん。めっっっちゃ遠慮しときます」
「えーなんでー」
「本気じゃなさそうだし、目玉焼き食べたいから」と僕は云った。「というか、いま何時なんだろ」
「恵大見てー」
「たぶん七時くらいだよ」
「てきとー」と真癒子が笑いながら云った。「お腹空いてる?」
「ふつうかな? 食べたい?」
「んーん。まだいい」と真癒子が手をにぎにぎしながら云った。「こうしてたい」
「……く、っそ、ぉダメだ」
にやけそうになって、その顔を見せないように枕へ顔を埋める。枕からは真癒子の香りがして、息を吸いこむと、胸がちょっとだけ切なくなった。
「かわい」
真癒子が手を離し、笑いながら髪を触ってくる。いじられながらそちらへ顔を向きなおすと、すこし布団がまくれ上がっていて、真癒子が着ていたフリースのファスナーのあいだからほっそりとした首筋と鎖骨が見えた。そこに赤い斑点が何カ所かついているのが目に入って、僕は昨夜のことをいろいろと思いだしてしまう。
「ぅ、っわー……」と僕は両手で顔を押さえた。
「んー? どしたの?」
「ごめん、ちょっと――自分に引いた」と僕は手で口を隠しながら云った。「……それ、さ。すぐ、消えないよね?」
「ん? あーこれ?」と真癒子が顎を引いた。「ファンデで目立たなくできるよ?」
「ほんと?」
「しないけどね?」
「いやしてお願い。真癒子の親にバレたらやばい……」
「えーだってー恵大がつけたんだよ」と真癒子がにやにやしながら云った。「ねえ?」
「はい、そうです……」
「っ、ふふふっ……あーダメ、かわい」と真癒子が笑いながらファスナーを上げて襟に口を埋めた。「バレないように、ちゃんとするね」
真癒子が鼻で大きく息を吐いて、ほほえみながらこちらをじっと見つめてくると、太股のあいだに片方の膝を入れてきて、身体を丸めて胸に頭を当ててきた。僕は片手で髪を撫でながら「ちょっとだけ、頭浮かせて?」と訊ねたら、すこし頭が動き、その下に片腕を潜りこませて包みこむようにぎゅっと抱きしめる。
すべすべした足と、腕にかかる頭の重さ、フリースの起毛した生地越しに伝わる腰まわりの肉感と、真癒子のにおい。それらすべてが絡み合わさって、なんとも云えない充足感がこみ上がってくる。
空気が落ち着いてきて、ついついあくびが漏れてしまうと、腕のなかで真癒子がもぞもぞと動いて「ぅ、んー……眠いー」とくぐもった声がした。僕は真癒子の腰に手を添えながら「寝てもいいよ」と云ってまぶたを閉じる。
明日もまた、朝が来る。この幸せな時間を噛みしめると同時に、真癒子がいない朝を思い浮かべてしまい、僕は胸の切なさを埋めるように、彼女を強く、強く抱きしめた。
二度寝から目覚めてスマホで時間を確認すると午前九時をすこしまわっていた。起きてからもすこしのあいだのんびりしていたけれど、そろそろ朝ご飯を食べようということで、ふたりしてゆっくりと動きだす。さすがに真冬にパンツ一枚ではいられないので、パーカーなどの部屋着を着てから部屋をでて、洗面所で顔を洗っていると、うしろから足音が近づいてきた。
「ケイー。わたしシャワー浴びてもいい?」
タオルで水気を拭き取っていると、うしろから真癒子の声がした。僕は「んーいいよー」と云ってから歯ブラシに歯磨き粉をつけ、くわえながら上にある棚を開けてあたらしいタオルを準備する。
「ん」と僕はタオルを差しだした。「使ったやつ、せんたぁっひのなか、入れといへ」
「うん、わかった」と真癒子が持っていた袋を洗濯機の上においた。
僕は手を動かしながら洗面所をあとにする。リビングのドアを開けると、カーテンの隙間から一筋の光が差しこんでいた。うす暗い部屋のなかを光の筋を頼りに進んでカーテンを開ける。朝のさわやかな日差しが部屋を明るくして、栄養を取りこむように身体をぐいーっと伸ばした。
テレビとエアコンのスイッチを入れ、ソファの上でぼーっと歯を磨いていると、だんだんと歯磨き粉の濃度がうすくなってきた。僕は立ち上がってふたたび洗面所へ戻ると、なかからドライヤーの音がする。
「マユー。入ってい?」
念のため、すこし声を張って訊ねてみたら「いいよー」と返事がする。ドアを開けると、フリースとジャージを着た真癒子が鏡の前で髪を乾かしている最中だった。
「髪、洗ったの?」
「ううん、毛先濡れちゃったから。あ、ごめん」
「ん、ありがと」
真癒子が鏡の前からすこし動いてくれて、僕は素早く口をゆすいだ。顔を上げると、鏡に映った真癒子が手首を細かく動かしてドライヤーを振り、指先で毛先をひっぱりながら乾かしていて、普段見れないような姿になぜだか胸がときめいてしまう。
「朝ご飯、さきに作ってるね」
「うん、わたしも歯磨きしたらすぐ行く」
真癒子がドライヤーのスイッチを切り、袋のなかから透明なケースに入った携帯用の歯磨きセットを取りだした。僕は「ゆっくりでいいよ」と云ってからキッチンへ向かい、冷蔵庫にあるシチューが入ったタッパをだして、コンロの上においたフライパンの上に中身をだす。弱火でじっくりとあたためながら、卵やパンの準備をしていると「お待たせー」と真癒子が早歩きでやってきた。
「わたしなにしたらいい?」
「んー、じゃあ、目玉焼きでも作る?」
「うんやるー」と真癒子が袖をまくった。「恵大、片手で卵割れる?」
「いや、できないんだよねあれ。ぐちゃってなる」
「わたしできるー」
「ほんとに?」
僕はもうひとつ、今度はすこし小さめのフライパンをコンロにおいて油をしいた。あたたまるまですこし時間をおいて、真癒子がフライパンの縁でコンッと卵を割ってから、片手で中身をその上にだすと、こちらを見上げて「どうよ?」と云いたげな笑みを浮かべてくる。
「なるほどね、こうね、こう」と僕は手の動きを真似してみた。「ちょっと僕もやってみる。指で広げる感じだよね。できるできる。ふーっ、し」
真癒子が笑いながら云った。「ねーはやくして。下くっつく」
僕は卵を片手で割り、割れ目を指で広げようとしたら、先走った卵白がとろっとでてきてフライパンの上に垂れてしまう。それでちょっと焦ってしまい、力加減をあやまって手のなかで卵を潰しそうになった。
「あーやばいやばい。無理だこれ」と僕は両手で残りの中身をフライパンの上へ落とした。
「っ……っ、はぁ……もうダメ」
なぜか横で笑いを堪えていた真癒子が大きく息を吸った。なにがおもしろいのか僕にはさっぱりわからなかったけれど、その笑顔につられて頬がゆるみ、あたたかな雰囲気が広がっていくと、僕らは顔を見合わせて軽くキスをした。
無言で顔を離し、具合を確認すると、目玉焼きのまわりに焼き目がついてきたので、フライパンへすこし水を入れ、そのあとすぐにふたをした。加減を見誤らないようにコンロの前で待機していると、うしろから真癒子が抱きついてきて「はぁー……帰り、たくない」と溜息混じりに云ってくる。
胸に溜まっていた切なさが喉までこみ上がってきて、僕はその気持ちを押しこむように、軽く唾を飲みこんだ。
コンロの火を止め、僕はベルトを解くように真癒子の手を取り、ゆっくりと振り返った。同じ目線になるくらいまでしゃがみ、唇をぎゅっと結んですこし泣きそうな顔をしていた真癒子を見つめながら口を開く。
「僕も、帰したくないよ」と僕は云った。「いっしょにいたい」
正直な気持ちを伝えたら、真癒子がそっと抱きついてきて、鼻が詰まったような、切なげな声で「うん、うん」とささやいた。つられてこっちまでうるっときてしまい、僕は鼻を軽くすすり上げてから、彼女の背中をゆっくりとさする。
「愉しかったね」
「うん」
「また、お泊まりしたいな」
「うん。したい」
「でも、今度するときは、ちゃんと許可もらおう」
「もらえる、かなぁ……」
「どうだろうね。でも、次はもらわないと、ダメな気がする」
「そう、だね」
お互いにわかっている。今回は特別だということを。付き合っていくなかで絶対に立ちはだかる『親』という壁と、僕らは向き合っていないことを。
本来は親の許可を得なければいけないのに、筋を通さずこそこそと隠れながらしたことに罪悪感がないといえば嘘になる。
今回は上手くいったかもしれないけれど、次にお泊まりをしようとしたときに、もしもバレてしまったら、今後の付き合いに影響がでてしまうかもしれない。許してもらえるかわからないし、仮に許可を得るまで、時間はかかるかもしれない。でも、次は絶対に逃げてはいけないと思う。親からも、認めてもらうためにも。
「ね、目玉焼き」
「あ。やばっ」
身体を離してふたを開けると、裏側についた水滴が流れていく。黄身が崩れた不格好な目玉焼きと、きれいに焼けている目玉焼きがくっつき合っていて、僕らはそれを見てからほっと息をついて、互いに顔を見合わせてほほえみ合った。
そのあとも朝ご飯の支度を進めていって、すべてが整うと、僕らは向かい合いながらテーブルの椅子に腰を下ろした。不揃いなマグカップ、中央には同じお皿に焼き色のついた食パンと、きのうの残りのバゲットがある。真癒子の前にはシチューが入った丸みのある器がおかれ、僕のほうには目玉焼きがふたつと、焼いたベーコンがお皿にのっていた。
それぞれ手を合わせてから「いただきます」と告げて食べはじめる。マグカップから漂うカフェオレの香りに誘われて、僕はひとくち口に含んでから食パンへ手を伸ばした。
「目玉焼きどうする?」
「そっちおいてて。あとで食べる」
「ん、わかった。シチューどう? 美味しい?」
「うん。なんか味が濃く? なったような気がする」と真癒子が耳に髪をかけた。「食べてみる?」
「うん、あとで」
すこし離れたところにあるテレビをちらちらと見ながら、お互いに自分のペースで食べ進めていく。すこし遅い朝食でお腹は空いていたけれど、胸がいっぱいで、食べるペースがあまり上がらない。
いっしょに朝を迎えて、支度をして、朝ご飯を食べている。たったそれだけなのに、これ以上ないくらい、心が満たされていた。せっかく作った朝食が手につかず、鼻で何度も息をして、お腹の底から絶えずあふれるこの気持ちを逃がそうとしてみたけれど、まったく減る気配がない。
僕は目の前にいる真癒子をまじまじ見ていると、視線に気づかれて、テレビからゆっくりとこちらへ顔を動かした。うしろにある透き通ったしろいレースカーテン越しの朝日を浴びて、真癒子の髪が亜麻色に変わり、周囲に舞っている細かな粒子が光り輝く。
「んー?」
「いや、幸せだなぁって」
僕はほほえみながら、胸の内を隠すことなく、大仰になりすぎない口調でさらっと告げると、真癒子が朝にぴったりなさわやかな笑顔で「そうだね」と云った。
真癒子と出会って、恋をして、付き合いを重ねた日々を思いだしながら、僕は幸せを噛みしめるように朝食を食べていく。だれかに憧れられたり、自慢できるほどのものでもない、地味な僕らの地味な恋を。
地味な僕らの地味な恋 織井 @oriiaiiro
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