第21話 別れ

 ダイニングの時計をみると、時刻は朝の九時になろうとしていた。

 テーブルにはすでに冷めきってしまった一人分の朝食が置かれている。何もない日であればすでに食べ終わって片付けに入っているところだが。


 私は寝室に向かう。

 ドアを開けてベッドを見ると、カナリアはまだ毛布に包まっていた。私が起きた時から微動だにしていない。


「カナリア、もう朝食の時間はとっくに過ぎた。さっさと起きろ」


 少し毛布が動く。


「起きているんだろ。寝たふりはいいから早く来い」


 しかしカナリアが起きてくる気配はない。


「おい、カナリア」


 呼びかけるほど毛布を固く握りしめる。

 ついに我慢できなくなった。


「カナリア!」


 怒鳴ると、毛布がビクッと震えてカナリアは頭を出した。怖々とした様子で私のほうを見る。


「……いつまで経っても片付けられない。早く食べろ」


 吐き捨てるように言ってから寝室を出た。


 自分の食べ終わった食器を洗っていると、やっとカナリアが起きてきた。私の元へは来ず、そのまま静かにテーブルの席について朝食を食べはじめる。目元が赤く染まっていた。


 程なくしてカナリアが空になった食器を運んできた。こんな時でも食欲はあるようだ。

 カナリアらしいな。ほんの一瞬そう思いながらも食器を奪うように取る。


「今日は手伝いをしなくていいから、ここを出る支度をしろ。寝室に旅用のバッグが置いてある。衣服や自分が必要だと思うものを中に入れろ。いいな?」


 分かったのか分かっていないのか、カナリアは何も答えずに寝室に消えた。


 食器を洗い終えたあと寝室を覗いてみると、カナリアは準備に手をつけておらず、また毛布に包まっていた。何を言っても無駄だと思い、放っておいた。


 それから時間が過ぎていき。


 正午少し前、約束どおりリオールとレイチェルがやってきた。

 リオールは相変わらず営業スマイルを浮かべており、右手には頑丈なケースを持っていた。きっと金だろう。

 レイチェルのほうは元の気迫ある面持ちに戻っていた。父親である矜持で無理やり不安を心の奥底に押しやっているようにも見えた。


 リオールがこそっと訊ねてくる。


「カナリアちゃんの様子は?」

「……正直、昨日と変わらん」


 決心をするには一日は短すぎた。ましてやあんな幼子だ。無理もない。


「だが安心しろ。約束は守る」


 二人を家に上げてから私は寝室に向かった。

 朝と同じ状況。毛布に包まったカナリアの元まで行き、膝を折って顔を近づける。


「カナリア。父親が迎えに来た。こっちに来い」

「……やっ…………やぁ……」


 嗚咽の混じった、か細い声で拒否する。

 私は露骨にため息をついた。


「分かった。お前はこの家に居たいんだな?」


 カナリアは毛布の隙間から涙で濡れた顔を覗かせ、こくりと頷く。


「そうか。ならお前はずっとここにいろ。代わりに私が出ていく」


 そのまま立ち上がろうとすると、カナリアは毛布の中から勢いよく出てきて、私の腕を掴んできた。


「ちがぅ……か、カナリア……エリシアさまといっしょ……」

「それはもう無理なんだ。いいかげん理解しろ」

「……ぁう……うぅ……」

「泣くな。泣けばお前の事を嫌いになる」


 すぐに手のひらで涙を拭うカナリア。だが嗚咽は止まらない。


「お前は私に嫌われたいのか?」

「やっ……エリシアさますき……カナリアのこときらいになっちゃ……や……」

「だったら言うことを聞け。今のお前は好きになれない」


 ベッドのヘッドボードから置き時計を持ってきて、刻々と動く針を指で示した。


「この時計の針がここに来るまでには隣の部屋に来い。もし時間になってもまだここで縮こまっているようだったら、その時は私がこの家を出ていく。いいな?」


 カナリアは返事をしなかった。するとも思っていなかった。

 置き時計をベッドに放り捨て、私は寝室を出た。


 ドアを閉めて振り返ると、テーブルの椅子に座っていたリオールとレイチェルが問うような目でこちらを見てきた。まるで重篤の患者を診てきた医者の気分だ。


「娘の様子はどうでしたか?」

「知らん。あとはあいつが決める事だ」


 猶予は与えた。とても決心がつくような時間ではないが、物事を諦めるには十分だ。


 沈黙の中、カナリアを待った。


 やがて時間きっかりにカナリアは寝室から姿を現した。

 ひどく暗い表情だった。私を見上げて口を開いたが、そこから紡ぎ出される言葉はなく、すぐに閉じた。


 レイチェルはカナリアに歩み寄り、同じ顔の高さまで膝を曲げたあと小さな手を握った。


「アレナ。またお父さんと一緒に暮らそう。もう二度とアレナを悲しませないようにお父さん頑張るから」

「……ぱぱ」


 親子の姿から顔を逸らして、私はリオールに訊く。


「では商談成立でいいんだな?」


 一拍の間のあと、リオールは営業スマイルを顔に張りつけた。


「うん。そうだね。レイチェルさんは問題ないですか?」

「はい。私は大丈夫です」

「ではさっさと金を置いて出ていけ」


 私はそっぽを向きながら、しっしっと手を払って催促する。これ以上カナリアの姿を目に映したくなかった。


「行こう。アレナ」


 レイチェルはカナリアの手を引いて部屋を出ていく。そのあとをリオールが付いていった。

 ようやく部屋の中に静けさが戻った。と思った矢先、数分してリオールは戻ってきた。


「……なんだ、お前は同行しないのか?」

「まぁもう話し合う事もないし、親子水入らずで話したい事もあるだろうしさ」


 ふたたび椅子に座り、私の顔をまじまじと見てくる。


「なんだ?」

「大丈夫かい?」

「何がだ?」

「強がっちゃってまぁ……イタァっ!」


 脛を蹴った。


「迷惑な気遣いはよせ。やっと面倒事が片付いて清々してる。予想以上の大金も手に入ったしあとはカナリアの物を整理するだけだ。ちゃんとお前が運んでくれるんだろ……」

「ああその事なんだけど、そっちで処分してくれだって」

「処分……全部か?」

「うん。要るものは全てあっちで用意するってさ。お金持ちの言う事は違うねぇ」

「……ふん。面倒事を増やしおって」


 それからどちらも口を開かず、ひとときの無言が続いた。


「リオール」

「ん?」

「何か面白い事をやれ」

「無茶ぶり!? えーと面白いこと面白いこと……よしじゃあ変顔っ。どう?」

「やっぱいい。帰れ」

「ひどっ! せっかく羞恥の中やったのに……」


 お前にそんな感情があるわけないだろう。


「昨日からカナリアの辛気な面ばかりを見て疲れているんだ。人を笑わせるだけの器量がないなら、邪魔だから帰れ。私は昼寝する」


 椅子から立ち上がり、寝室に向かう。

 ドアを開けようとしたところで、リオールが言ってきた。


「エリシア。悩んだときは相談に乗るから、すぐに呼んでね」

「……お前に心配されるほど私はやわじゃない」


 そう言って部屋の中に入った。


 力尽きたようにベッドに倒れる。

 うつ伏せのまま顔を横にすると、カナリアの私物が目に入った。今では何の用途も意味もなくなってしまった物たち。主人がいなくなってどこか寂しげに見えた。


 片付けは明日にしよう。

 私は毛布を手繰り寄せて体に被せた。


 わずかに残った温もりを逃さないように。

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