第7話 命名

 帰り道では何事もなく、幼子とともに無事に帰宅した。

 リビングにあるソファに買った物を雑に投げ、浴槽に水を張るため風呂場に行こうとしたところで、幼子の腹が空腹を訴えた。


「もう腹が減ったのか?」


 ぶんぶんと首を振る幼子。しかし腹の主張は治まらない。


「減っているなら正直に減っていると言え」

「……ごめなさい……」


 そう言ってシュンとする。


 仕方なく入浴は後回しにし、夕飯を作った。


 しかし夕食時も、見るからに幼子に元気がなかった。いつもは腹を空かせた野生動物並みの食事ペースなのだが、今日は私の顔色を窺うようにチラッチラッと見てくるばかりで手が進んでいない。

 どうやら路地裏で私に怒られた事がよほど応えたらしい。反省するのは良いことだが、ずっとしょげられたままではやり辛い。


 しかしわざわざ気遣いの言葉を掛けるのはなんか嫌だった。


 幼子に待っているように言ったあと外に出る。納屋から以前に割った薪を持ち出し、風呂場の裏手にある汽缶に放り込んで火を熾し、火力を見ながら焼べていく。

 こんな七面倒な事せずとも魔法を使えばいいのだが、如何せん加減が難しい。熱湯を超えて蒸気と成り果てるので、魔法が使えるのは火種ぐらいだ。


 数十分してから風呂場に行き、蛇口を捻って水がお湯に変わったのを確認してから浴槽に溜めていく。しばらくして溜め終わり、そのまま服を脱いで風呂にした。

 シャワーを浴び終わってから幼子を呼ぶ。


 幼子は言われたとおりすぐに来たものの、どこかビクビクとしていて挙動不審だった。


 いつものようにシャワーで髪を洗ってやったあと、風呂の熱さに慣れさせるため浴槽の湯を桶に汲み取って体を流してやる。普段とは違う温水に少々びっくりした様子だった。

 まずは私が浴槽に入っていく。うむ、いい湯加減だ。さすが私。次に幼子が入るのを手伝ってやり、ゆっくりと肩まで浸からせる。この浴槽は浅いので溺れることはないだろう。


 私も肩までどっぷりと浸かったところで、ほぅ……と自然に息が漏れた。久しぶりに温かい風呂に入った。身体の芯までポカポカとした温もりに包まれ、あまりの心地の良さに眠気が募ってくる。一人ならば足を伸ばしてもっと入浴を堪能できるのだが、狭いわけでもないから贅沢は言うまい。


「熱くないか?」

「ない」


 対面に座った幼子も気持ちいいのか(無表情は変わらないものの)先程よりも顔が緩んでいた。どうやら温かい湯に幾分か心が安らいだようだ。子供は単純だな。

 ぼんやりとした頭に浮かぶのは今日の出来事。


「今更だが、お前の名前はなんて言うんだ?」

「なまえ、ない」


 昨日リオールから訊かれた時に首を傾げたのは返すべき答えを持っていなかったからか。


 名前のない不便さは身を持って理解した。今後もああいう事態が起こらないとも限らない。

 無いならば付けるまでだが、何にするか。私は物書きではない。すぐに名前なんて閃かない。


 幼子が自分の事と認識できれば何でも良いのだが、だからと言って番号というのも味気ないし、人目があるところだと呼びにくい。

 普通の呼び名……普通の……。


 幼子を見る。孤児とは思えないほど輝きを纏う金色の髪。純真無垢が表れたつぶらな瞳。

 首を傾げて見つめ返してくる動作が私の中にある記憶を突っついた。

 あれはたしか……。


「……かなりあ……そうだっ、今日からお前の名前はカナリアだ」


 以前、愛玩鳥を扱う店に(クソ鳥の餌を買いに)立ち寄った際、鮮やかな黄色に染まったカナリアがいたことを思い出した。籠の中から首を傾げて見つめてくる様が今の幼子とよく似ている。私にしては安直すぎるが、べつに変ではないだろう。


「かな……りあ……?」

「そうだ。口に馴染むまで言ってみろ」


 幼子は何度も口にする。そのたびに淀みないものに変わっていった。


「カナリアっ」


 最後に万歳しながら元気な声で言う。どうやら気に入ったらしい。決定だな。

 一応、私のほうも教えておくか。


「私の名前はエリシアだ」

「えりしあ」

「様を付けろ」

「エリシアさま」


 リオールが何回か口にしているのを覚えていたのだろうか、先程よりもすんなりと言う。


「もう一度呼べ」

「エリシアさまっ」

「もう一度」

「エリシアさまっ」


 ふむ。なかなか悪くないな。主従関係が明確になって良い。まぁ実際はどちらが主で従か分からないほど苦労の連続だが。


 すぐに幼子――カナリアが逆上せてしまったので、残念ながら入浴は終了となった。

 お風呂から上がり、新品の服に着替えさせる。改めてみるが値段と釣り合わないなと思った。

 キッチンの保冷庫からミルク瓶を取り出して口をつける。半分以上飲んでから、あとはカナリアに渡した。


 さて。

 私はソファに投げ出した買い物袋を見る。


 このままベッドに身を委ねたいところだが、まだ今日の課題が残っている。

 読み聞かせる自身の姿が頭をよぎり憂鬱になるが、どのみち避けて通れない道なのだ。面倒事はさっさと片付けるべき。

 ミルクを飲み終わったカナリアに訊く。口周りに白いあとがついていた。


「眠たいか?」


 ぱっちりとした目を向け、ぶんぶんと頭を振る。


「絵本見たいか?」


 少し考えている様子を見せ、カナリアは頷いた。朗読会決定のようだ。はぁ。


 絵を見せながら読み聞かせるためには必然的に体を密着させなければならない。椅子は小さいので却下。ソファは材質がふかふかし過ぎる。

 消去法でベッドに決め、袋ごと絵本を寝室に持っていく。


 私の寝室は至ってシンプルだ。二人用の広々としたベッドに、服や小物の入ったチェスト、全身が映る鏡台、キノコの形をした置き型の照明。

 初めて部屋に入ったカナリアは物珍しそうに見回していた。


 ベッドの上に乗り、ヘッドボードに凭れかかる。膝を叩いて見せ、カナリアを呼び寄せた。

 カナリアはベッドをよじ登って近くまでくるが、そこで動きを止めた。私らしからぬ行動に戸惑っている様子。急かすと大人しく座った。


 体の触れ合う部分から温もりが伝わってくる。風呂上がりだからか、それとも人間の子供は元々体温が高いのか、思ったよりも熱く感じた。


 顔を覗かせはじめた睡魔に屈してしまうまえに、買い物袋に手を伸ばす。

 そういえばどんな絵本を選んだのか、まだちゃんと見ていなかった。袋から絵本を順に取り出し、一通り確認してみる。


 一冊目。『そらをとぶフウセンねこ』。澄み渡る青空の中、猫型の風船が浮遊している。街中の事もあったし、猫が好きなのか。

 二冊目。『この道とおせんぼ』。白と黄色の花が咲き誇る原っぱの道に、ふてぶてしい顔をしたデブ猫が居座って邪魔をしている。猫好き確定だな。


 そして最後の本は。


『森の魔女のおともだち』。仄暗い雰囲気の森に佇む赤い屋根の家。庭先を黒猫が歩いている。


「…………」


 カナリアは字が読めないので偶然だろうが、よりにもよって同類の話とは。家の外観も似通っているし、まるで自身の事が書かれているようでページを開くのを躊躇ってしまう。

 だが買ったからにはいつか読むわけだし、かなり子供向けっぽい他の二つよりも読みやすいかもしれない。


 カナリアの前に本を持っていき、私は最初のページを捲った。

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