第16話 菓子工房
早起きをした。部屋のカーテンを開けると窓の外はまだ仄暗い。
昨夜は頭が冴えてあまり睡眠を取れなかったが、ちっとも不快な気分ではない。
私の心は躍っていた。
朝食を食べ終わり、食器をキッチンまで運んできたカナリアが小首を傾げてくる。
「エリシアさま、うれしい?」
私は濡れた手をタオルで拭きながら答える。
「まぁな。今日は街に出掛けるぞ」
「えほん、かうの?」
「いや……って、そんなに残念そうな顔をするな。お前は家で待ってるか?」
「ひとりいや。カナリアもいく」
カナリアがいるとどうしても歩行速度を合わせてやらないといけなくなるため、町に着く時間が大幅に遅れる。
出来れば留守番をしていてほしかったが、本人は行く気満々だし、自分の身の回りの事が出来るようになったとは言え、家に一人きりにさせるのは(一週間前のように突然風邪を引くかもしれないし)それはそれで不安か。
「今日は大事な日だから遅れるなよ」
「うん」
開店は十時だ。まだまだ余裕がある。いつもより早く家を出れば間に合うだろう。
支度を済ませて家を出て、町に着いたのが九時半ほど。
まだ人の往来が疎らな大通りを歩き、途中で裏路地に入る。
カナリアはどこか怖々とした面持ちで私にぴったりとくっついてきた。歩きにくい。以前、私に怒られた事でも思い出したのだろうか。
鳴りを潜めた家屋を通り過ぎていった先に見えてくる目的地。
菓子工房『スイートアレス』。
クリーム色のレンガ壁に赤茶色の屋根が乗った外観。店先にある小さな庭には、多種多様の華やかな色合いの植物が植えられており、快晴にもかかわらず暗々とした路地裏の雰囲気を払拭している。
一見無秩序に植えられているようで、全体から見るとまるで絵画作品のようにまとまって見えるのだから不思議だ。鉢植えや照明の細部まで調和が取れているあたり、店主の趣向の良さが窺える。
店の入り口にはクローズと書かれた木札が下げてあった。
少し早く来すぎたか。腕時計を確認すると、あと十分ほど時間があった。
ガラスの窓越しに店内を覗くと、店主はせかせかと清掃に勤しんでいた。
仕方ないので庭に設けられたベンチに座り、待つことにした。
やがて時間ぴったりにドアが開いた。
「――あら、あんたもう来てたの? 声を掛けてくれれば開けたのに」
木札をひっくり返してオープンに変えながら店主はそう言う。
歳は年配だろう。前に見たときよりも腹の肉が出ているような。朝なのに元気なところや愛嬌のある笑みはいつもと変わらない。
「急かしてジジイの味が落ちたら困るからな」
「さすがにあの人もそこまで柔じゃないわよ。どうぞ入って入って」
私はベンチから腰を上げ、蝶を目で追っていたカナリアを呼ぶ。
店主の目が驚きに見開かれた。感慨深そうに「いつの間にか母親になって……」と呟く。
「早とちりするな。私の子じゃない。預かってるだけだ」
「あらそうなの? てっきり良い男を見つけたとばかり」
「私に見合う男なんて存在しない」
「もったいないわねぇ。せっかく綺麗な顔立ちなんだから今を楽しまないと。あっという間にあたしのようなバアさんになるわよ」
魔法使いは長命で不老だから余計なお世話だが、言ったところで信用しないだろう。
カナリアが来たところでドアを閉める。
店内はひと月前と何ら変わっていない。天井から吊り下げられたステンドガラスの電灯が店の中を温かいオレンジ色に染め、L字型のカウンター兼冷蔵ショーケースには様々な見た目と味の生菓子が並んでいた。
カウンターの向こうに行った店主に訊ねた。
「もう出来ているのか?」
「出来てるわよ。今日はいくつ?」
「そうだな……三本か」
「いつもより多いわね。まぁお嬢ちゃんもいるからね」
「ん、そうか。じゃあ五本だな」
「あんた一人で食べるつもりだったの……」
この前はクソ蠅どもに絡まれておじゃんになったから、その分も合わせると妥当な数だ。
「残念だけど、まだそんなには出来てないわ。旦那が今作ってる最中だから出来上がるまで待っとくかい? それとも時間がないってんなら数を減らすしか……」
「待つ」
「だと思ったよ。ただ待つのもあれだし、奥のテーブルで食べるかい?」
店主が指差したのは少人数用の軽食スペースだ。
「そうしよう」
言われたとおり奥のテーブルに行き、カナリアと対面に座る。
店主は私が注文した品と二人分の皿に大小二つのフォーク、切り分けるためのケーキナイフを持ってきてテーブルの上に置いた。
「代金は後でまとめてでいいよ。お嬢ちゃんは飲み物は何がいいかい?」
突然訊かれて困惑した様子のカナリアが、助けを求めるように私を見てくる。
「ジュースならなんでもいいから出してやってくれ。私も同じものでいい」
飲み物の事など眼中になかった。
テーブルの上の注文品をみて、思わず頬が緩む。
スイートアレス限定販売のロールケーキ。私の大好物。
本当なら毎日でも食べたいほど好きなのだが、作るには帝都にしかない希少な材料が必要らしく、それが運ばれてくるのが月に一度なのでその日しか生産できず、数も限定されるのだ。
作っているのは店主の旦那で、ひたすら裏方で作るばかりで表にはほとんど出てこない。一度見掛けたことがあるが、黒い丸メガネを掛けた陰気なやつで、とてもこのような素晴らしいものを作り出すようには見えなかった。人は見かけに寄らず。
リオールの情報によれば神経質でかなりの臆病者との事。世の情勢に人一倍敏感で、特に強盗や盗難といった犯罪事件が起きると不安で寝込み、店を休業するほど。路地裏で経営しているのも人目を気にしての事らしい。私的には人混みに遭う心配(表通りに店を構えたら確実に人気になる)をしないで済むので良いが。
私がこの町で犯罪行為に手を染めないのもその臆病者を気遣っての事だ。人間ごときに情けをかけるのは嫌で、私専属の菓子職人(言わば奴隷)にしようとも考えたが、連れ去った瞬間に恐怖で死んでしまうとリオールに止められてしまった。どうにか自分で作れないか試行錯誤してみたりもしたのだが、結局のところ同じ味を再現できなかった。
そんな経緯もあり、仕方なしに月に一度こうして通っているわけだ。
ケーキナイフで食べやすい大きさに切り、皿に移す。この食欲をそそる見事な形状をぐちゃぐちゃにされては嫌なので、カナリアの分も切ってやった。
フォークを手に取る。ふた月ぶりの至福の時間。突き刺したロールケーキを口に運ぶ。
「んんっ」
ふわっとした食感のあと、生クリームの甘さが口の中全体に広がり、柔らかな匂いが鼻孔を通る。そうそうこの味。幸せな気分だ。手が止まらない。
ショーケースの中身を綺麗に並べ直していた店主が言った。
「そうだ。ちょうど今朝、新作を作ってみたんだけど、たべ……」
「いらん」
「……あんた本当にそればかりねぇ。そんなにぱくぱく食べてると太るわよ」
「ふん。私には当てはまらない悩みだな。食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べる。それが私流だ。それにお前にだけは言われたくない」
「それもそうね」
あっはっはと笑いながら腹を叩く店主。この年齢になると誹謗も効かないか。歳は取りたくないものだな。精神的な意味で。
「あんた買ったら今日はもう帰るの?」
「そのつもりだが?」
「祭りは見ないのかい?」
「祭り? ……ああ、今日だったのか」
アクラムでは毎年町を挙げての盛大な祭り大会が開催される。
混雑や喧騒が不快と分かって以来参加したことがないし、今回も参加するつもりはないので忘れていた。そういえば大通りの脇には屋台となるテントが骨組みの状態で置かれていたか。
「あたしの店も正午には閉めて、午後からはそっちに参加するつもりよ」
「よせ。客が増えるだろう」
「あんたはこの店を経営破綻に追い込みたいのかい……安心しな。あんたの分はいつも取ってあげてるから」
「ならいい」
「それで一つ頼みごとがあるんだけどさ」
「……何だ?」
「店を手伝ってくれないかい? 旦那は引き篭もりだからあたし一人でやるつもりなんだけど、こんなバアさんが店先に立っても客なんて来ないだろ。若いあんたとお嬢ちゃんの二人がいれば華やかになると思ったんだよ」
どうせそういうことだろうと思った。最近、頼まれ事が多いものだ。
「断る。私は忙しい身なんだ」
「開店時間前に来る時点でとてもそうには思えないけどね。もちろん協力代は出すよ」
「いやだ」
「今回買った分もタダにしとくからさ」
「いや……なに?」
タダだと。五本分全部をか。ロールケーキは限定商品とあって他の物よりも値段はそれなりにするから、全部となると結構な金が浮く。う~む。
労働と好物を天秤にかけ。
「もう一本、いや二本追加で手を打とう」
「腐らせるよ」
「そんなヘマを私が犯すわけがない」
「まぁいいけどさ。じゃあ協力してくれるんだね?」
「ああ」
面倒ではあるが、好物のためなら仕方がない。
今日一日の予定を頭の中で組みかえながら、ふと対面を見ると。
カナリアは口元に生クリームをつけ、どこか満足げに息をついていた。
ロールケーキ本体は半分以下になっていた。そのままフォークで突いたらしく、まるで鳥が啄ばんだように汚い見た目になっていた。
勝手に食うなとは言っていないが、ムカついた。私の分でもあるわけだし、一言声を掛けるのが礼儀というものだろう。
ぎろりと睨むと、カナリアは急いで姿勢を正した。
「……食った分、働けよ」
カナリアは勢いよく頷いたあと、小首をかしげた。
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