第26話
初姫を産んだと言う事で藤壺様はそのまま後宮に居残る事となった。帝も娘を溺愛しているし、そんな子供と母親を引き離す理由はもう無かったからだ。二十と二日目、やっと気脈の戻った身体で姫に乳をあげながら、藤壺様は柔らかく笑っている。呼ばれた私もそのほのぼのとした光景に目を細めるばかりだ。
「まさかあれほど強い薬とは思っていませんでしたが、お陰で眠っている間にすべてが解決したようで、祢子さんにはお礼のしようもございません」
「私と言うより帝が怒って雷を落としてくれたのが何よりの薬だったのだと思いますよ、お父上には。今朝やっと物忌みを解かれ、もう出仕している頃でしょうが、お呼びしますか?」
「いえ、まだ、少し怖いです。何故男を産まなかったと叱責されそうで」
藤壺様は目を伏せる。そんなに度胸のある人には見えなかったけれどなあ。帝に叱られてしょぼんとしていた態度を見ると。諦めはちょっと悪かったけれど、女達に詰め寄られて降参するんじゃ、やっぱり本当の所は肝の小さい人だったんじゃないかと思わせられる。
「毒は怖くなくても、お父上は恐ろしいものなのですか?」
ちょっと悪戯っぽく笑って言ってみると、そう言えばそうですね、とくすくす笑われる。
「本当、吾子も私も咎められず後宮にいることが出来るのは祢子さんのお陰です。お礼のしようもないぐらい」
「私は鬼食いとしての禁忌を犯してしまいましたけれどね。お方様に毒を盛るなんてしたこと、帝にばれたらどんな折檻を受けるやら」
「いいえ、あれは毒ではなく薬でしたよ。私と吾子にとっては、本当によく効く薬でした。勿論、お父様にも」
くすくす。くつくつ。笑い合う私達の会話に女房達はよく意味が解っていないようだったが、それで良い。
「それで、祢子さんはいつ鬼の間を出られる予定で?」
「夏にはならないと思います。今新しい鬼食いの子に色んな毒の味を覚えさせている所なので。毒箱の継承が終わったら、皇子と共に都の屋敷に移る予定です」
「新しい鬼食い……その子も長生きしてくれると良いわね、あなたのように」
「そうですね。帝やお方様にも可愛がっていただけると幸いです。可愛い賢い子なんですよ、本当に」
新しい鬼食いは中納言様の娘で数え年四歳と、幼い所が多い。少しだけ、と飲ませた毒を思いっきり飲んで倒れては私に世話を焼かせたり、匂いを嗅いではきょとんとしていたり。まだまだ心配な所はあるけれど、見込みもあり、頼もしい後継者になりそうだ。
幼い頃から政治の道具にされるのは、貴族として生まれてしまったからには仕方のない事だろう。藤壺様もその姫も、同じことと言えば同じことだ。果たして十年後、三兄弟揃っての百人一首大会は実現するのだろうか。もう姫は輿入れしているかもしれない。良い夫を探してやると帝ははしゃいでいるから、もしかしたら左大臣様にとっては良い事なのかも。また皇族と縁が持てればと奮起しているとかいないとか噂を聞いた事があるし。
念のための最後の薬湯を置いて鬼の間に戻ると、十二単姿の少女がきょろきょろと几帳の外で探し物をしていた。
「祢子姉様、赤達がいなくなっちゃったの! 折角遊ぼうと思ったのに、四匹とも! 祢子姉様、ご存じなあい?」
「あー……」
見ればあちこちに四つ、猫の焼き物がある。遊び盛りな子供の世話に疲れたのだろう、逃げているな。
「外で走っているのを見たよ。少し猫だけで遊ばせて差し上げなさい」
「はーい!」
「今日は薬の臭いを覚える事から始めようか。薬だから吸い過ぎても死にはしないが、くしゃみで貴重なものを飛ばさないように気を付けること。良いか? 杜松」
「はい、解りましたー!」
元気で天真爛漫、確かに幼い頃の私はこうではなかったなと思わせられる。私はもっとひねくれていた。親もなく、愛情もなく育てられていたので、不愛想だったし可愛くない子供だった。遊んでもらっている時や物語を聞いている時はそれでもわくわくとしていたが、それ以外の時は赤達が懐いて来ても表情一つ変えない子供だったと思う。
それが皇子に会ってからは変わった。泣いたり笑ったり出来るようになった。愛嬌も愛想もなく、子女としての嗜みも無い私だったが、それでもましになったのだと思う。自分に封じてきた親の事を知る事だって出来た。それは、良い事だったのだろう。自分の根を知ること、親を知ることが出来たのだから。遅すぎた愛情の発露も受けられた。私は幸せになったのだろう。
あとはこの娘を一人前の鬼食いに育てることが私の役目だ。
夕方には父親と家に帰る杜松を見送り、仕事が終わった皇子を待つ間に手習いをする。私も貴族の奥方になるのだから、少しぐらいは字の練習もしておきたい。漢字なら完璧なんだがなあ。それに屋敷に住み込む事ともなれば、公達から文を貰うと言う事もあるまい。
すべてはいつか生まれる子供のためだ。母が未熟では手本を示すことなどできない。女児が生まれたら尚更だ。今まで興味のなかった歌集を書庫から持ち出して、愛の歌や恋の歌、遊び歌に駄洒落まで覚えなければならない。偶に無性に読みたくなった時は、梨壺に忍び込んで水滸伝も読む。そして皇子に見付かって怒られる。持って行ってください。訪ねる口実が無くなるではないか、と返せば、顔を真っ赤にしてそう言うのは私のすることです、と言われる。
いわゆるところの通い婚は、先日とうとう苦難の三日目を迎えて成立した。が、台盤所に餅を頼んでいなかったので、その翌日食べることになった。ついでに帝を呼んで簡易なところあらわしとして酒を飲み交わし、今更だがなあ、と笑う腕の一男一女を抱かせてもらったりした。
指も吸わずに眠る男児と、むずがりそうでむずがらない機嫌の悪い女児を抱えて、帝は嬉しそうだった。太政大臣様の所の孫も、すくすく育っていると白の眼で見たことを伝えれば、そうか、と嬉しそうにする。一緒にいなくても家族は家族なのだな。羨ましい事だ。思いながら私も酒を飲んだ。
屠蘇を飲んだ正月から、まだひと月も経っていない。鬼食い――屠蘇なので鬼飲みとも言うが――唯一の晴れ舞台がそれだ。その間に色々あったりなかったりした。あったことにしたりなかったことにしたりした。帝は恐らく、私が藤壺様に何らかの薬を盛った事に気付いている。でなければ用意良く鍼など持っていかないと思うだろう。でも何も言わない。
正式に義理の兄になったが、元々御子達が生まれてからはよく顔を出していたので、今更感は否めない。時折私の様子も垣間見していたと言う。帝は私の輿入れ先も真剣に探していたとのこと。裳着も住んで立派な女になった私の。
しかし歌ではなく漢籍を嗜み、習字は漢字ばかりの私を心配していたらしい。そこに現れたのが春晃皇子で、二人の気が合っているのを見て安心したそうだ。最初からこの帝は私を心配してくれていた。もしかしたら皇子よりも。
肝の据わった御子を抱く。愛し愛されて生きて行くのだろう次期東宮。皇子の腕を見る。しっかり躾けられて幸せなお嫁さんになって行くのだろう姫を、少しだけ羨ましく思う。姪っ子なのに、変なの。もっとも義理だけど、否どうなのかな、斎宮って皇族だから、細くだけど血は繋がっているのかも。
考えるとおかしくて、ふふっと私は笑ってしまう。どうしたのです、と私に伸し掛かって灯台の小さな火の中で見下ろして来る皇子に、いやな、と応える。
「先の斎宮も皇族だったのだろう? 私や皇子や帝、その御子達も、どこかで血が繋がっているのか知れないと思うとおかしくてな」
「何がおかしいのです?」
「結局全員家族だったと言う事になるではないか。それは少し前まで天涯孤独の身だった私には、面白いのだよ。実はあちこちに親戚がいました、なんて」
「なるほど……それは確かに、おかしい」
くすっと笑って、皇子は私の鼻に口を付ける。末摘花か? と聞くと、そう言うのは読んでいるんですね、とちょっと驚かれる。
「あれだけ有名な物語なら、流石に読んでみたくなってなあ」
「感想はどうです?」
「貴族社会は大変だ」
「あなたもその中に入って行くのですよ。否、もう入っているのかも」
「確かに……」
今度は口同士をくっ付ける。今日はそれこそちょっと紅を付けていたのだが、この皇子は気付いていただろうか。眉と白粉以外では初めての化粧らしい化粧だったのだが。
「……末摘花ですね」
「然り。口についているぞ」
「構いません。甲斐性です」
「ふはっ」
笑いながら私は皇子に押し倒され、翌朝は着物を交換した。
いわゆる
ちょっと汚れた着物をどうしようかと思っていると、頼少納言にさっさと着替えさせられ、見ていたのかと聞けばはいと答えられた。
なるほど、確かに貴族は二人っきりでいることは出来ない。常に女房が傍に着く。
恥ずかしさに沈んでいると、容赦なく御簾を上げられ、祢子姉様! と呼ばれた。
「どうしたの? お加減悪い?」
「否、大したことはない。今日からは毒を扱うから、心してかかるように」
「はいっ!」
杜松の声に、私はへらりと力なく笑いかけた。
猫達はずっと、焼き物のままだった。
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